ウィリアム・ギブスン:意匠だけのファッションショー小説

Executive Summary

ウィリアム・ギブスンの1990年代三部作と、2000年代三部作は、いずれの小説としての体をなしていない。ストーリーはどれもほぼ同じで、まったく必然性のない探索を、まったく必然性のないアート系女子が、大金持ちに依頼され、必然性のないところをうろうろして、最後に目的のものが見つかっても何も起きない。途中の必然性のない場所や出会う人々のスタイル、ファッションといった意匠をやたらに並べ立てるだけのファッションショーでしかない。1980年代の大傑作のおかげで万人の期待が大きく、駄作でも深読みしてもらえていたが、かつては鋭敏だったファッションアイテムへのセンスや社会観もすでに停滞し、作家としての価値はすでにないも同然ではないか。

はじめに:ギブスンの意義

ウィリアム・ギブスンはそれなりに特別な作家だし、ある時点では文化的にとても重要な役割を持っていた。ぼく個人にとっても、SFとネットと現実経済とのからみあいみたいなものがだんだん具体的に感じられるようになってきたとき(そして同時に、多感な大学生の時期に)、彼の『ニューロマンサー』が時代とすさまじいシンクロぶりを見せつつ浮上してきたのは、ある種の決定的な体験ではある。

ニューロマンサー (ハヤカワ文庫SF)

ニューロマンサー (ハヤカワ文庫SF)

そしてもちろん、『ニューロマンサー』に代表されるサイバーパンクが、当時のぼくの狭い世界の中で重要な役割を果たすとともに、その後の様々な人間的、社会的なつながりの発端になったのは、とても大きい。サイバーパンクの多くの作品はもちろん、一過性のものではあった。多くは忘れ去られたし、それが当然ではあった。それでも、ぼくはそうしたものすべてがはらんでいた、当時のある種の興奮を覚えている。そしてそれがしぼんでいったその後の様子も。それについては、こんなところで書いたりもした。

cruel.hatenablog.com

でも、それが沈んだ後になっても、ウィリアム・ギブスンだけはぼくにとって、そして多くの人にとって特別な位置を占める作家ではあった。彼はサイバーパンクというジャンルの中の作家ではなく、ジャンルを定義づける作家ではあったし、それがまたもや何か新しいビジョンを見せてくれることを期待はしていた。そして新作も、しばらくは一応目を通すようにしていた……ある時点まで。ある時点というのは、『あいどる』の頃くらいまでだったろうか。でもその後、何が出ているかチェックすることもしなくなり……

 

そして特にきっかけがあったわけではないんだけれど——新作が来年出る話をどっかで読んだんだっけ、それともだれかがギブスンのツイートをリツイートしていたのを見かけたんだっけな?——そろそろまとめて見直そうかな、という気になった。考えて見れば、「見直す」どころか最近の三部作は読み終えてもいないや。そして考えて見れば、その前の『あいどる』とかの三部作も、なんかこう、ピンとこなかったうえに、何も起こらなかったという記憶しかない。そうそう、『あいどる』って、トレント・レズナーバーチャルアイドルが結婚するとかで大騒ぎして……「結婚した、よろしくー」で終わって脱力したんだよな。どうなったんだっけ?

ということで、読んでなかった最近の2000年代になってからの三部作を、まずは読みました。そして……すさまじく失望した。これまでギブスンに抱いていた期待とか夢みたいなものを、もうすべて捨ててもいいと思った。というのも、そもそもこれは小説と言えるものではないからだ。そして小説でなくても読み物としてかろうじてそれを成り立たせていたもの——ある種の時代感覚、ガジェットやスタイルに対するセンス——が、もはや完全に失われ、ピントはずれになっているのもわかった。それはある意味で、時代に追い越された結果だ。同時にそれは、ギブスン自身がすでに鑑識眼を失っていた結果でもある。でも……考えて見ればギブスンってそういう作家だったよなー、というのを改めて思い出す契機にはなった。

「ブルーアント社」三部作:21世紀の三部作はストーリー不在のガジェットファッションショー

2000年代の三部作は、『パターン・レコグニション』『スプーク・カントリー』、未訳の『Zero History』の三作。

パターン・レコグニション

パターン・レコグニション

スプーク・カントリー (海外SFノヴェルズ)

スプーク・カントリー (海外SFノヴェルズ)

Zero History (Blue Ant)

Zero History (Blue Ant)

一応、これは「ブルーアント社」三部作と呼ばれている。マーケティング会社のような調査会社のような、広告代理店のような商社のような、ブルーアント社というのがあって、それとその創業者で親玉のビゲンドが背後で蠢いているから、ではある。いずれも、舞台はリアルタイムの世界。つまりは2000年代のその描かれた時代ということだ。

でもいずれの小説も、まずとても読みにくい。というのは、そのときに、そこにいる人が何のために、何をしようとしているのか、多くの場合ほとんどわからないからだ。なぜわからないかというと……何も解決すべき重要な課題や謎がないから、なのだ。

「パターン・レコグニション」 (2003) は、なんかネット上に転がってる断片的な映像「フッテージ」なるものの出所をつきとめろ、とそのブルーアント社の社員のおねーちゃんがビゲンドに言われる。何か問題でもあるの? わからん。なぜ彼女なの? 特に理由なし。で、見つかったらどうなるの? それが何も起きない。なんかロシアのマフィアがセキュリティホールを確認するために使ってたとかなんとか。で、それがわかって何か? 何も。

「スプークカントリー」 (2007)では、なんかいろんな場所の特性を直感的に把握して映像化できるロケーションアーティストを見つけるよう、元有名バンドのおねーちゃんホリーがビゲンドに依頼される。なんか架空の雑誌の記事にしてくれ、という名目で。

なぜホリーが選ばれたのか……さっぱりわからん。そしてそれを雇うのに、なぜ架空のアート雑誌をでっちあげ、それの記事を書かせる必要があったのかもわからん。彼女は有名なバンド(その親玉は、レズ・インチメールというんだってさ。ローレズもそうだけど、ナイン・インチ・ネイルズトレント・レズナーがお好きなんですね) にいて、その知名度のおかげでその引きこもりアーティストと会える可能性がある可能性があるとかないとか。ふーん。でもなんでそんなアーティストを見つけたいの?それがねえ。マネーロンダリングかなんかのネタになる物資を積んだコンテナがどっかにあって、それにマーキング剤をつけてどこへ行っても足がつくようにしてロンダリングに使えないようにしよう、とかいう話。そのコンテナがどこにあるかわからないから、場所をイメージできるやつが欲しかったんだって。で、そのコンテナが見つかってどうなるかというと……何も。

「Zero History」 (2010) の想定はさらにくだらない。かつてミリタリーファッションが、ストリートファッションに大きな影響を与えるかっこいいものとされたけど、いまや軍はそういうデザインができないので、新兵募集にも影響がある。そこで軍の人気を高めるため、かっこいい軍服デザインを求めてるそうな。

そこでビゲンドは、その軍の需要に応えようとして、幻のブランドであるガブリエル・ハウンドのデザイナーを見つけ出し、軍服デザインをさせようと考え、そのために、なぜかまたホリーを雇う。メインの話はそれだけ。でもさあ、なんか他のブランドだっていいんじゃないですか? どうしてもそのガブリエル・ハウンドでないとダメという理由は? まともなものはなかったように思う。最後の50ページになって突然、同じことを企んでる(Wikipedia とか見るとドラッグの関連で云々と書いてあるけど、そんなの出てきたっけ?) 元海兵隊フィクサーがライバルを倒そうとして〜という、とってつけたようなアクションが、それまでほとんど伏線も何もなしに出てくると、これまた何の脈絡もなしに登場ホリーの元旦那が、たまたま(!!)すごいコネをあちこちにもってたとかで (たかがベースジャンプやってるユーチューバーみたいなヤツで、まるっきり説得力ないんだ、これが) 一日で何やらすごいハイテク迎撃態勢を構築し、一瞬でその相手を倒し、その過程でホリスはガブリエル・ハウンドのデザイナーと出会って、それはパターン・レコグニションの主人公でしたー、という話も出てくるんだけれど、それもなんかさらっと流されて、結局デザイナーはビゲンドには明らかにならず(でもそのデザイナー、そろそろ逃げ隠れもきついからカミングアウトするんだとか言ってたので、隠す理由ぜんぜんないと思うんだけど)……おしまい。

いずれの作品でも、基本構造は同じ。

 

  • ビゲンドがサブカルアーティストっぽい女子に、特に理由もなくくだらない依頼をする
  • 何の意味があるかもわからん探索で、どうでもいい偶然やきっかけで金持ち世界とギャングや傭兵の裏世界とを往き来
  • なんとなく、その捜し物を探す理由が明らかになるけど、超絶くだらないどうでもいい話
  • 捜し物が見つかるけど、何もおきない。

 

こんな具合で、読んでいて全体に散漫きわまりない。話に全然求心性がない。各場面も、何ら必然性がなく、話にほとんど貢献しないものばかり。そして読み終えても、何のカタルシスもない。では、この話が何で成立しているかというと……意匠なのだ。主人公の女子がピラティスやってましたとか、そのロケーションアートの細かい話とか、そのガブリエル・ハウンドの黒ミニマリズムでロゴすらほとんど見せないデザインの説明とか、やたらに詳しい。さらに何の必然性もなく場面が変わると、ギブスンはそこのデザインがミニマリズムを基調とした直線の中にゆるやかな曲線が屹立して天へと向かい見下ろすようにゴシック調の天蓋を形成し、その鈍い輝きが映し出す窓のそとの風景が云々かんぬん、と細々した意匠の説明をくどいほど続ける。カーチェースの場面でも、いっしょに乗っていた女が鋲打ちのハイブーツにボンデージ風レザーをまとった脚をのばして車から降りたち、とその場面の緊迫感を全然無視して、ファッション解説が始まる。大金持ち専用超ブティックホテルとか特殊ミネラルウォーターとか。あるいはストリート系の意匠や、たまには貧民街とかね。

だから基本、これは小説ではない。小説の形をとった、意匠羅列のファッションショーでしかないのだ。

ただそれが、あまりかっこよくない。パソコンやスマホは、とにかくiPhonePowerbookMacBook だ。金に糸目をつけないはずの連中が、2010年の時点ですら3Gネット接続もできず、wifi難民状態。ちなみに2010年には日本ですらLTEが始まってます。今はもちろん、当時読んでもかなりアナクロな感じがしたはず。本国でも、このアップル奴隷ぶりは嘲笑されたことがAmazonのレビューなんかからうかがえる。

そのストーリーの(きわめて弱い)駆動力となるはずのネタすら、ファッションでしかない。コンピュータセキュリティってなんかポイントだよねー、とかマネロンみたいな話が結構くるよねーとか、ギブスンとしてはそういうのを誇示したいわけだ(Zero Histry はそれすらないけど。軍がストリートファッションを採り入れたい?ちょっとマヌケすぎませんこと?)でも、意匠としてそういう言葉を知っているだけで、それを具体的に話の中に組み込むだけの中身の知識はない。

そして問題はそういう意匠だけじゃない。2010年の時点で、相変わらずスーツ姿の日本の企業戦士さらりまんがうろつき、ミニマリズム系やストリート系最新ファッションの出所は日本で、パリをうろつくのも日本人女子の観光客グループ。この人の時代認識ってどうなってんの? そういうと、iPhoneのことでも日本のことでも、必ず深読みしてあーだこーだ言う信者が湧いて出てくる。でもぼくは、単なる勉強不足だと思う。訳書の解説では、このシリーズがポスト9.11のギブスンであーだこーだと騒いで見せる。でも、何一つ9.11とか関係ない。ビン・ラディンの話とかちょっと出てくるくらい。

そして、2010年の作品で、世界金融危機についての何らかの認識でも示されているかというと、それもまったくなし。「スプーク・カントリー」と「Zero History」はもう完全に同じ作品といってもいいくらい。日本がバブルだった時代の話が、2010年になってもまったく途切れず続いている。

さらにもう一つ。ギブスンの世界は、レーガノミックス/サッチャリズム時代のいわゆるネオリベ的な世界観の反映でもある。そこでは、軍隊以外の政府はほとんど機能していない。世界は大企業の大金持ちとマフィアがほぼ支配している。でも、そうした見方はだんだん覆りつつある。スノーデン暴露は2013年で、ギブスンのこの三部作より後だから仕方ない面は、ないわけじゃない。が、そうした世界観は、1980年代バブルの継続という印象にまちがいなく貢献している。

すると、小説として破綻していて、そのかわりに出てくるファッションがダサく古いうえ、時代認識までピントはずれとなったら、その存在意義ってなんだろうか? ぼくは皆無だと思う。たぶん世間的にも、2000年代半ばくらいまでは、それでも多少の期待はあった。かつてのご威光もあった。でも、それが急激に薄れ、Zero Historyではほぼ完全に見放されたようだ。それは、たとえばZero Historyはもはや邦訳がないことからもわかる。英語版Wikipediaで、スプーク・カントリーまではあらすじ、テーマ、受容、各種評価、その他きわめて詳しい記述があるのに、Zero Historyではそれがまったくない。かつてのギブスンであれば、愚作は愚作なりに話題にもなっただろう。もうそれすらない。

 

でもこの気配、確かそれ以前の作品にもあったよなー、と思って読み返したのが、その前の三部作だ。

「ブリッジ」三部作:Same same, ただし時代にもっと激しく追い越されてる。

その前の三部作は『ヴァーチャル・ライト』『あいどる』『フューチャーマチック』だ。いずれも邦訳あり。

あいどる (角川文庫)

あいどる (角川文庫)

フューチャーマチック

フューチャーマチック

この三部作、最初の二作は読んだ。『ヴァーチャル・ライト』は、なんせスプロール三部作以来初のギブスン作品、期待はすさまじく高く、発売と同時に原書で読んだ。そして……なんとか誉めねばならないと思って、「未来への希望と予感が〜」とかいう書評を書いた記憶がある。『あいどる』についても「え、これで終わり??!!」とかなりがっかりしたけれど、まだなんとか期待をつなごうと「何も起きないが予感が〜」みたいな苦しいことをどっかに書いた。自分のサイトを検索すれば出てくるだろうけど、赤面しそうなのでやらない。三作目は、なんか読まなきゃという義務感はあって、本棚に20年近く置いてあったけれど、『あいどる』で力尽きたので、読んでいなかった。

が、四半世紀たった今読むと……ひどいね。話は、「ブルーアント」三部作の構成と似たり寄ったり。

『ヴァーチャル・ライト』(1993)は、自転車クーリエやってる女子が、金持ちの宴会に迷い込んで出来心で盗んだサングラスが、神経に直接作用する最新VR装置のバーチャルライトで、それを取り返しにおっかない人がくるんだけど、その子は震災後にスラム化して無法地帯となったサンフランシスコ-オークランドベイブリッジに住んでて、そこではAIDS抗体を発達させたゲイを拝む新興宗教ができて変な儀式もしてました、というだけの話。

『あいどる』(1996) は、大物ロックバンド、ローレズの親玉がバーチャルアイドル投影麗と結婚を発表したので、アメリカのファンクラブの子がそれがホントか探るために日本にやってきくるときに、知らないうちに怪しいナノテクの運び屋にされ、一方でネットを流れる大量のデータ流からその結節点を見つける才能を持つ男コリン・レイニーも、なんかそれが何の冗談/陰謀なのかつきとめろと依頼されてやってくる。ひどいご都合主義の結果、全員がラブホにやってきて、そのバーチャルアイドルも登場して、なんかナノテクで結婚も可能になるようなならんような、でもまあそういうことで一件落着って、何がどう落着したのかわからないうちに話はおしまい。

『フューチャーマチック』(1999)は……ろくなストーリーがなくて、東京でホームレスになったレイニーが、なんか1911年のキュリー夫人がらみの事件(なんだかは明らかにされず。ギブスンも単なるジョークで書いてただけで、意味はないんだって) 以来の大結節点の到来を予測して、それがやってくると人類が滅亡とかで、なんかその背後に広告代理店の親玉がいて、そいつは結節点後に自分が重要存在になろうとして己をバーチャル化しつつデータをどこかに送りこもうとしているところへ、投影麗があらわれてなんかそれを阻止しようとしたかなんかなんだが、結局その大結節点って何だったのかわからず、特に何もおきず、人類も亡びず、なんかその中でベイブリッジのスラムも放火されたりするんだけれど、それで何も起きるわけではない。おしまい。普通は無用に詳しいネタバレ上等の英語版Wikipediaですら、こいつについてはろくにストーリーが説明できていない。

いずれも、小説にはほとんどなっていない。一作目では、そのバーチャルライトがえらく重要そうなんだけど、ただのマクガフィン以下で、とにかく何の必然性もなく、なぜそんなに殺し合いまでするほどのものかもわからず、その後もまったく登場しない。二作目は、そのバーチャルアイドルとの結婚というのがマクガフィンなんだが、それも何もないも同然。フューチャーマチックは、それすらない。「結節点」とか言うけど、みんなが何のために動いているのかさっぱりわからない。2000年代の三部作と同じで、小説としての骨格があまりになさすぎる。

では意匠か? うん、そうではあるんだが、それが見事に古びてしまっている。「バーチャルライト」は当時話題になってた、第一次VRブームにのっかろうという下心が見えていたんだが、これは今から見ると、古くさい。二作目と三作目でデータの結節点を感じ取れるとかいう重要な役まわりは、当時台頭しつつあったネット検索——ヤフーとかアルタヴィスタとか——の役割に目をつけたものではあるけれど、いまならビッグデータ解析に勝てるはずもない。当時ですらごく普通の目のつけどころで(サイトが増えて検索の重要性が増すからデータベースのサーチャーが新しい時代のナントカ、という報告書をこのぼくも当時でっちあげた記憶がある) いまや苦笑するしかないものになってしまった。「ブリッジ」三部作と言われるのは独立無法地帯の独自文化を、スラム化したベイブリッジやネット内の九龍城砦での治外法権的な自然発生的自治がやたらにほめられていて、登場人物たちの一種の安息所みたいな役割を果たしているからだ。そういうのを称揚したいのはわかる一方で、当時まさにそうしたスラム/スクワッターの自治みたいなのは、ベルリンでもアムステルダムでも衰退に向かっていたし、九龍城砦も取り壊されたし、発表当時ですら懐古趣味ではあったはず。そしてそこでの文化的発展について、とってつけたような大阪の「社会学者」が脈絡なしに調査していろいろ解説するという、安易きわまりない仕掛けはどうしたもんだろう。

というわけで、この三作はもはや現代的価値がまったくないのではないか、とぼくは思う。読みながら「これ、どうしようか」という困惑以上のものは、もはや感じられなかった。

ギブスンまとめ

六冊まとめて読むと……ギブスンはスプロール三部作のあまりのできのよさのため、過大評価されてきたんじゃないか、という気がしてならない。おかげで、凡作・駄作を書いても、「ギブスンだから、何かあるんじゃないか、これも布石で次こそ何かくるんじゃないか」という期待があり、各種のくだらない文化的レファレンスを深読みしなくてはならない義務感に (ぼくを含め) 多くの人がかられていた。でも、そんな義務はないし、また深読みするほどのものは実はなかったんじゃないだろうか。

彼の世界観は、1980年代前半の日本のバブル時代で止まっている。それ以後の話は、非常にとってつけたような時事ネタ (カリフォルニアの地震とか) しかなく、見るべきものはない。意匠を並べるのが強み、というか読みどころのようなものだけれど、それが話の中で必然性を持たされていないために、単なるファッションショーに堕し、しかもそれがあまりかっこよくない。

うーん。ひょっとして上のような特徴って、スプロール三部作にもあったような気はしなくもない。『カウント・ゼロ』は確か、画廊の女子が金持ちに依頼されて、ジョセフ・コーネルもどきの作者を探しにいく話が柱の一つだったように記憶している。ちょっとスプロール三部作までアレだと、なんかぼくの若き日々の想い出の大きな部分が毀損されそうな気がするので、この三部作を読み返すのは、また今度にしよう(とはいえ、『ニューロマンサー』は何度か読み返したけれど、いまなお大傑作として通用すると思う)。

だがそれより、今後どうしようか? いま、手元にはギブスンの最新作が一応ある。

The Peripheral (English Edition)

The Peripheral (English Edition)

読むべきだろうか? 各種レビューは未だにギブスンへの過大な期待に冒された人々が書いていることが多く、イマイチ信用できないのでどうしたもんか。さらに、来年早々に新作が出るはず、なんだけど、うーんどうすべきか。少し様子を見ましょうか、という感じではある。

Agency

Agency

しかし、「SFには再読に耐えない名作が多い」と言ったのは村上春樹の手下のだれかだったと思うけど、初読にすら耐えないとはなあ*1。これで本棚のギブスン関連本のスペースが空くのは、ちょっと悲しいことではある。

*1:たとえば「24」は、二度見るとまったくナンセンスでまともに見ていられない。だれが裏切り者かわかって二度目を見てると、どうしてこのときこいつはちゃんと動かないんだ、あのときなんでこれをやらなかった、と疑問点が多すぎるから。でも、初見だと、その場の勢いと、少し前の話なんてかなり忘れてるから、いろいろうやむやにしておもしろく見られる。でもギブスンは、その場の勢いもないんだよね。