ガルシア=マルケス『戒厳令下チリ潜入記』:ガルシア=マルケスは潜入してないし映画のおまけ。潜入して何が見えたかはまったくなし。

戒厳令下チリ潜入記―ある映画監督の冒険 (岩波新書 黄版 359)

戒厳令下チリ潜入記―ある映画監督の冒険 (岩波新書 黄版 359)

ずっと本棚にあったのを初めて読んだんだが、いろんな意味で看板倒れのような代物だなあ。

まずこの題名を読むと、ガルシア=マルケスが潜入したんだと思うでしょう(ぼくはそう思って買っていた)。でも実際は、潜入したのは映画監督のミゲル・リッテンで、ガルシア=マルケスはそれをインタビューして潜入記に仕立てただけ。なーんだ。

話の中心は、潜入のプロセスやその過程でヒヤヒヤしたとかいう話はいろいろ出ているんだけれど、話だけで写真も何もない。ボヘミアン暮らしのよいご身分の監督が、潜入のためにウルグアイブルジョワになるとかで、体重を落としたり髪型変えたりとかいろいろやったそうなんだけれど、使用前/使用後の比較写真とかそういうのはまったくない。ガルシア=マルケス様の文章からそれを想像しなさいってことなのかもしれないが、でも映像作家の潜入記だろうに。銀塩フィルム時代で、いまみたいになんでもバカみたいに撮影できないのはわかるし、またもともとリッテン当人はこんな潜入記をつくるつもりはなく、あとからガルシア=マルケスの発案でできた代物だから、そんな自分たちの様子を映したりしようという発想がなかった、ということなんだろう。とはいえ、それで迫力がなくなっているのは否定しがたいところ。小道具になって、後にピンチを引き起こしかけたというそのジタンのタバコの空き箱に殴り書いたメモとか、少し見せてよ。

当時のチリの状況について潜入して何か目新しいことがわかったかというと、結局言ってることは、独裁政権が圧政してて、不満が高まっています、というだけ。その具体的な記述はほとんどなく、いま読んでも何か特に発見があるわけではない。その状況を如実に示すような写真もない。当時(1980年代)なら、報道管制で弾圧があるとか、治安警察があちこちにいるとか、デモがあるということ自体が何か新しい話だったのかもしれない。でも、写真もほとんどないし、そこらへんのリアリティはあまり迫ってこない。そもそも、その滞在中にあまり大したことが起きているわけでもない。デモ隊と警官隊が衝突しているわけでもない。いま香港で起こっているのを日々見ているのと比べて、ずいぶん呑気な感じがしてしまうのは、野次馬の身勝手な感想ではあるけれど、でも実際問題としてそんな緊迫した状況が何かあるわけではないのだ。

この監督は、その潜入の様子をルポ映画にしたとのこと。ぼくはその映画は見ていない。

戒厳令下チリ潜入記 [VHS]

戒厳令下チリ潜入記 [VHS]

そしてたぶんその映画を見ていない人にはまったく意味がない。かなりの危険をおかして、レジスタンスみたいな人の親玉に会いにいった、という下りがある。読者としては、会ってその親玉が何を語ったのか、というのを知りたいと思うんだが……いろいろ合い言葉を用意して目隠しされて隠れ家につれていかれ、という話の後で、やっと会えた、と書いてそれでおしまい。インタビューの内容とかは一言もない。映画にはあったのかもしれないね。が、この「ルポ」だけでは要するに何もわからないということだ。読む価値ほとんどなし。

コルタサルニカラグアルポは、完全にお膳立てされた完全なヤラセではある。でも、それでもまがりなりに実際に見たという迫力と、薄っぺらとはいえそれについてのコルタサルの興奮はつたわってくる。それがあの本を一層悲しいものにしているのではあるけれど。

cruel.hatenablog.com

でもこの本は、そういう楽しみもあまりない。一過性の本にすぎないとは思う。当時は、たぶんここに書かれていない多くのことが同時代的に共有されていたので、出版/翻訳当時はもう少しおもしろく読めたのかも知れないけれど。棚からは除却処分です。