バルガス=リョサ『小犬たち/ボスたち』:あぶなげない中短編集。社会問題に拘泥せず、着想の展開と書くこと自体の喜びで書かれている。

 なんだかツイッターを見ていると、今日はバルガスリョサの誕生日なの?(追記:ちがった。先月末じゃん!) 記念でもう一冊。バルガス=ジョサ唯一の短編集(いまでもそうなのかな?)「小犬たち/ボスたち」。これもずいぶん昔から持っているなあ。

 どの話もかっちりまとまっていて危なげがない。アイデア/ エピソードを中心に話を盛り立てていく。で、特に『ラ・カテドラル』や『緑の家』の社会派的なこだわりがないので(もちろんそれを敢えて読み取れといえば可能だし、訳者あとがきは「小犬たち」についてそれをやっているんだが)、重苦しさがなく、小説それ自体の楽しさが出ていて悪くない。それでもやはり、計算高い感じはするんだけど。

 あと、本書の訳者解説はおもしろい。ガルシア=マルケス論(ちなみにバルガス=ジョサは、ガルシア=マルケスをおそらくはキューバ政権を巡る見解の相違からぶん殴ってるんだって)の中で、かれは小説の意義について、

 実際の現実を修正し、偏向し、あるいは廃棄し、小説家の想像する虚構を現実によって置き換えようとする試みなのである。(中略)小説を選ぶその根底にあるのは生に対する不満感であり、一つ一つの小説はひそかな神殺し、象徴としての現実の殺害に他ならない。

 と述べているそうな。ぼくはこれに驚いた。これは完全な虚構世界に遊びたがるナボーコフであったり完全ファンタジー派やコルタサルなんかのほうがこういうことを言いそうな気がする。それに対して『ラ・カテドラル』や『緑の家』や『フリア』でも、ぼくはジョサが現実を否定して虚構を据えようというようなことを考えているようには思えなかった。むしろ醜い現実をありのままに、ノンフィクションよりリアルに描き出すための文学、というようなことを考えていそうだと思っていた。

 私は文学の素材は人間の幸福ではなく不幸なのであり、作家は禿鷹のように死肉を喰らって十分生きてゆけるのだという受け入れがたい事実を認識しはじめたのだった。

 そしてその不幸のネタは、ペルーブルジョワ階級の醜さで貫かれているというんだが、そういうあんただって立派なブルジョワじゃん、とぼくは思ってしまうのだ。そしてこのあとがきによれば、学校時代にいじめに会った(らしい)のがブルジョワ社会への怨みの原因だそうな。すると社会正義に燃えたかに見える小説も一方ではバルガス=ジョサ個人の怨み節なんだなあ、と思えてしまう。今まで知らなかったことではあるけれど、これまたぼくが、バルガス=リョサの小説があんまり好きでない理由に貢献しているんだろうとは思う。

 でも、この短編集は、もちろん不幸をネタにしたものもあるんだけれどそうでないのもあり、あり得たかもしれない他のバルガス=ジョサをかいま見せてくれる。



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