カルロス・フエンテス『セルバンテスまたは読みの批判』:民主主義につなげる議論は強引すぎるが、文学論としてはあり得るし、小説家としての自負は伝わってくる。

セルバンテスまたは読みの批判 (叢書 アンデスの風)

セルバンテスまたは読みの批判 (叢書 アンデスの風)

文学論かと思ったら、それだけではない。本書は『埋められた鏡』でいきなりセルバンテスとかエラスムスとか出てくるあたりを詳しくしたような話から始まる(といういより、これを下敷きに『埋められた鏡』の当該部分が書かれた、というべきだろうけど)。

前半は、うだうだとスペインの歴史をたどっている非常に退屈な部分だが、その記述のほとんどは全然なくてもかまわない、壮大な蛇足。全編の半分以上を占める蛇足ってひどすぎない?

この部分で彼が言いたいのは、この時代――ルネサンスの萌芽が見られて宗教的な圧政が弱まってきた16-17世紀――には、民主主義っぽいものが生まれつつあった、という一言。その一方で、異文化入り混じるスペインで、近代主義による価値観の一本化が進みつつあったとのこと。で、そこから彼のドンキホーテの評価が(やっと本の後半に入って)始まる。でも、その主張は簡単。何か一つの真理があってそれを伝えるのが小説だ、という古い小説観が死に、多様な読みを許容するのがドンキホーテなのだ、というわけね。本書の副題「読みの批判」というのは、中世的な何か意味の決まった抑圧的な「読み」の批判、ということだ。

ドンキホーテハムレットがその承認の役目を果たしている新しい文学とは、神の言葉の明澄な読みであることをやめた、しかし過去の神の秩序や社会的秩序がそうであったほどの、調和した疑いのない人間的秩序を反映する記号とはなりえない文学である。(pp.82-3)

ドンキホーテ自身も、自分の狂気にしたがって世界を読もうとする。さらにドンキホーテとその偽書の存在によるメタフィクション的な構図がドンキホーテの続編にはある。続編のドンキホーテは、自分が読まれた存在であり、人々の読みによって自分の現実が変えられていることを知っている。その一方で、最後に現実はドンキホーテを正気に返らせ、それによりドンキホーテ(小説の中の存在)は死ぬしかなくなる。でもそれも小説の中となると…… こうして小説は、いわばそうした自己言及性のカオスを通じて無数の読みを許すものとなる。

でもここでもフエンテスは、政治的な話にこれを無理矢理つなげようとする。つまり、ドンキホーテは、単一の読みを離れた多様な読みを可能にするわけで、つまりは読みの民主化をあらわしているのである、ということですね。ここで話は前半のうだうだしいスペイン史のおさらいにつながる。

さらにドンキホーテは、自分の愛するドゥルシネア姫が、実は鈍くさい村娘アルドンサであることを知っている。でも愛が、彼女を気高い姫として読ませてしまう。つまり、村娘と貴族の姫という階級の差を、愛が乗り越えさせる。愛が階級を無化して平等をもたらし、民主主義をもたらす、というわけ。

ドン・キホーテ』においては、騎士道時代の価値は、愛を介して、民主的な音色を帯び、民主的な生活の価値は真の高貴さと共鳴する。(p.110)

つまりその愛というのは騎士道的、つまり中世的な価値観だから、これはつまりルネサンス的な個人主義と中世的な価値観を融合させたものだ。それが民主主義を推進する価値観となっているのだ、とフエンテスは言う。

もし彼の読みの批判が、中世の厳格で抑圧的な側面の否定であるとするなら、それは同時に、人間によって獲得された、そして近代世界への移行に際して失われてはならない、古来の価値の肯定でもある。 『ドン・キホーテ』が視点の多様性という近代的価値の肯定であるとしても、セルバンテスが近代性の前に屈服することはない。セルバンテスの文学的価値と倫理的価値が、ひとつの全体となって融合するのはこの点においてである(p.111)。

そして、この後フエンテスはジョイスの話をする。ジョイスは、西洋全体を読むことにより書いた。でもそれは『フィネガンスウェイク』においては夢だ。というわけで誰がだれの夢を見ているのか云々、ということでジョイスは書くことの批判であり、多様な書くことのあり方を提起している。

したがって、ミゲル・デ・セルバンテスも、ジェイムズ・ジョイスも、彼らがセルバンテスやジョイスではなく、万人である限りにおいて言葉の所有者――詩人――になれるのである。詩人はその行為――詩――の後に生まれる。<詩>がその作者を創造する、ちょうどその読者を創造するように。セルバンテス、万人の読み。ジョイス、万人の記述。(p.131)

ぼくがしばらく前から、罵倒しつつもフエンテスを一通り読もうとしているのは、こういう書きぶりのかっこよさの点でぼくはフエンテスが結構好きだからではある。ただ、彼のこのご託を真面目に受けるか、といえば……まさかね。文学を、詩を、無理に民主主義に奉仕させようとする彼の論調は、ぼくにはあまり納得がいかない。ジョイスが万人の記述だとしても、ではぼくが、あるいはそこを歩いているおばさんが、ジョイスになっていないという現実はある。また、「あばたもえくぼ」が階級を乗り越えた民主的な価値観の表明だというのは、ぼくは強引すぎると思う。そしてそれを書いているからドンキホーテはすごい、というのはどうよ。

が、納得はしないまでも、ぼくはこれは小説論、文学論としては十分に成立し得るものだと思うし、その主張は彼の歴史や社会に関する生半可な議論よりはずっと読むに耐えるものだと思う。これは小説論一般というよりはむしろ、フエンテス自身の小説というものの存在意義に関する決意表明でもあるからだ。『埋められた鏡』と『メヒコの時間』は、ぼくはもう処分してしまうけれど、この一冊は当分本棚に残すことにする。
本書は『われらが大地』の派生であるとか。もしそうなら、やっぱりあの分厚い本をそろそろ読んで見ようか、とは思う。もっとも、そろそろどっかで邦訳出そうな気もするんだよね。あちこちで予告は出ているし、本書の訳者の牛島信明が『ラテンアメリカの十大小説』でほめていて、なんかあるんじゃないかと……



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