カルロス・フエンテス『埋められた鏡』:スペイン史とラ米史を強引にくっつけただけで、文化と政治経済の関係についての考察が不十分なために単なる文化ナショナリズムに堕している。

埋められた鏡―スペイン系アメリカの文化と歴史

埋められた鏡―スペイン系アメリカの文化と歴史

本書が書かれた1990年代初頭、ラテンアメリカは確かあんまりよい状況ではなかったんだっけ? で、フエンテスは本書で、それに対する文化ナショナリズムの高揚をはかる。

経済や政治に問題が山積していても、われわれにはなお祝福すべきものがある。(中略)われわれを貧困におとしめた危機はまた、自分たちの豊かな文化を自らの手に取り戻させ、(中略)ラテンアメリカの一人たりとも、この文化遺産のどれ一つ受け継がぬ者はいないことを認識させた。私が本書で探究したいのは、そのことである。それは、チチェン・イツァやマチュ・ピチュの遺跡から、現代絵画や建築へのインディオの影響にまで及ぶ。(中略)そしてベーリング海峡を渡ってきた最初の移住者から、(中略)アメリカ合衆国密入国する最新の不法労働者まで。(pp.9-10)

そしてこれについて、フエンテスはこう言う。

世界でも、これほど豊かで長く続いた文化はまれである。(p.10)

で、それを読んだ瞬間に「そうかぁ????」と思うのは自然な反応だろう。これだけ何から何まで含めたら、それを一つの「文化」というまとまりで理解していいんだろうか? そしてそれが許されるなら、他のどんな文化だってなんでも言えてしまうのでは?中国は? 日本は? ヨーロッパも、インドも、アラブ圏も、ロシアも、ガーナもエチオピアも、なんでもそのくらい続いているといえるのでは? この時点でぼくは、本書が何か有用な知見を与えてくれる可能性について、かなり悲観的にならざるを得ない。

そしてフエンテスは、ラテンアメリカナショナリズムについて描こうとしつつ、基本はラテンアメリカをスペイン文化の継承者として位置づける。で、本書はまずアルタミラの洞窟にウシの絵が描いてあって、それがいまのスペイン人の闘牛好きとも関係があって、といった表面的な連想を持ち出して、あとはもう標準的なスペインの歴史をたどり、イスラム文化の影響はほんのかするだけで後はその後のキリスト教文化の話で、スペインの都市文化は初の民主的な体制だったと言いつつ、それがイスラム文化圏の影響なんだということはあまり触れずに、その後は新世界の話にうつる。

で、新世界ではひたすら遺跡の豊かな文化の話をして、アステカ文明が具体的にはどんな強圧的な階級社会だったかは述べずに、それが悲惨にもコルテスたちにやっつけられた話を悲劇的に描いてから、「南北アメリカインディオ社会は、どれほど政治的な欠点があろうと、そのすべてが若々しく、創造の力に満ちた文明だった」(p.132)と語る。これを裏付ける話が何か出てくるかというと、まったく出てこない。

さて、この本の議論でオリジナリティがあるとすれば、それは従来は征服者/被征服者、抑圧者/虐げられた者という対立図式で理解されていた、スペイン侵略者と南米先住民というのを一本化して統合した、という話となる。でも、その統合というのは具体的にどう行われているかというと、コルテスはアステカ帝国を一手に打倒したのに、正当な評価を与えられず、失意のうちに暮らして現地人の愛人に慰めを見いだしたので、そこでスペインとインディオの対立ではない融和が生じた、という話。コロンブスピサロも、その後逆に母国では糾弾され、一方で新世界の王ともなれたのにそうならず(よって現地人の権利にちょっとは配慮したと強弁され)、そしてその後スペイン征服者側からも現地住民の権利を重視するような動きも生まれてきた、という話。それはヨーロッパでのエラスムス等の動きと並行するものでもあった、と。同時に、教会とキリスト教信仰もだんだん地元に根付いていきました。
こうした動きがあったということで、なんか両者は対立ではなく融合して、肩を並べて並行した歴史的動きを示すものとなったのである、という主張。
ぼくは、これはかなり苦しい理屈だと思う。そして本全体の中で見れば、結局は話のほとんどがスペイン系文化の話であり、先住民文化は統合されたというよりは、そのちょっとした風味付けに使われているにすぎない。

で、話は突然スペインに戻る。なぜかというと、フエンテスが、ベラスケスやゴヤ、そして『ドン・キホーテ』の話をしたいからなのだ。ドン・キホーテでは、親分とサンチョ・パンサが二つの対立する価値をあらわしているんだって。で、こう述べる:

われわれはみんな、ラ・マンチャの男と女である。スペイン語で『ラ・マンチャ』とは「汚点」のこと。(中略)白人と黒人とインディオの混合として、その要素のどれ一つ犠牲にする必要はないと理解する――そのとき初めて、われわれはスペインの、その帝国の、黄金時代の、そして不可避であった没落の、威光と苦役というものを真に理解するのだ。

なんで? この主張は特に前から論理的に出てくるわけではなく、それまでのドンキホーテの話にはラテンアメリカの話はまったく出てこない。単に「二つの価値の対立」という話でこじつけただけ。続けて「われわれ人類の現実は、新世界のスペイン社会にとって、今やいっそうの切迫性と必要性をもって立ち現れてきた」とのことだが、なんでいきなり話が人類にまで拡大されるの? とその人類の一員だけどラテンアメリカやスペイン文化には周縁的な興味しかない日本人としては思ってしまうのだ。いやそりゃ日本だって、カステラや支倉常長を通じて昔からスペイン文化の影響は受けてるのかもしれないけどさぁ。

で、その後はラテンアメリカにおける民主化、というよりは植民地独立運動ですな、その話をあれこれする。で、突然最後のほうで一瞬話がスペインに戻るのは、はい、ガウディをなんとか持ち出したいからですね。そしてアメリカでヒスパニック系の移民たちが結構独自の文化を築いている話にちょろっとふれる。んでもって、スペインでもその他どこでも、文化はすばらしいのに政治はダメダメで、その統合がこれから重要だ、といい、「ラテンアメリカの民主国家は、今日まで革命によってしかなしえないと見なされていた課題、すなわち民主主義と社会正義を伴った経済発展を、達成しなくてはならない」と述べる。

うーん。まず、目新しい発見があるわけではなく、政治の話と文化芸術の話があまり整理されず論理性もなく繰り出される鈍重な本だと言わざるを得ない。政治経済の話でちょっと収拾がつかなくなると、芸術文化の話で感嘆符をいっぱいつかってごまかす手法は『メヒコの時間』以来健在だし、そして結局のところ、文化の成功と政治の失敗との統合、というテーゼ自体がぼくはあまり意味が無い、いやまちがっている話だと思うのだ。

山下洋輔は『風雲ジャズ帖』で、「非ジャズ時の失敗をジャズ時の成功で補填できるように思うときもあるけれど、それはない。ジャズ時の失敗を非ジャズ時の成功で取り戻せないのと同じことだ」と書いていたけれど、フエンテスは本書(やその他の本)で一貫して、非ジャズ時(つまり政治や経済)の失敗をジャズ時(つまり文化芸術)で取り戻せるかのような書き方をする。文化はいいんだから政治もこの調子でやれば、というわけだ。が、その認識自体がたぶんおかしいんだと思う。
さらに言ってしまうと、実は文化のよさというのは、政治経済のダメさと共犯関係にあるのではないか、という話をかつて『テヘランでロリータを』書評でぼくは書いた。抑圧があればこそ、それに対する反抗が正義と力を持つ。弾圧が厳しければこそ、その中での平凡な生ですら輝きを持つ。ラテンアメリカ文学だって最も栄えたのは、圧政の時代だったじゃないか。でもフエンテスはそうした面はまったく考えたこともないし、自覚もない。そしてそれが、本書を洞察の少ない本にしていると思う。

結局本書は、スペイン史とラテンアメリカ史を統合しようとして長ったらしい歴史の整理されない羅列と化し、そこに著者の勝手な希望をくっつけたものと化している。著者が小説でしばしば持ち出す、アステカやインカの文化や歴史はほとんど考察されず、スペイン文化へのちょっとした味付けの扱いでしかない。これを「統合」とか「征服者と被征服者の血に引き裂かれた歴史を昇華」と呼ぶのは、被征服者の立場から見れば不本意だろう。そして、文化と政治の関係についての考察の不在のおかげで、その勝手な希望ですらあまり説得力のあるものになっていない。むろんそれは、小説においては無為な苦悶と逡巡という形でよい方向に働き得る。そしてたぶん、彼の小説、特に大作『テラノストラ』はそれによっておもしろい小説になり得ている可能性はあるので、いつか読もう。でも、かれの理論は顧みるに値しないとぼくは思う。とはいえ、彼の非小説本邦訳は(ドンキホーテ本は小説批評だから小説側につける)他にないので、これ以上読む必要がないのは救いではある。



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