シュナペール『市民権とは何か』:アメリカもっと調べたらよいのでは?

市民権とは何か

市民権とは何か

結論を見よう。冒頭にこうある。

この十年ほどの間に「市民」と「市民権」という言葉はなぜこんなにも広く普及し、ついには私たちの心にしっかり定着するに至ったのか。

これを見て、ぼくはこれがすごく古い本の翻訳なのかと思って、あわてて奥付を見直したんだけれど、2006年の本なんだよねー。「この十年ほど」??? いや、まずぼくとは世界認識がちがうみたい。

本書は、市民権概念の歴史みたいなものを延々と(数十ページにもわたる文献の引用をたくさん散りばめて――おかげですごく読みにくい)解説する。それで市民権についていろんな考え方があって批判もあるよ、というのをまとめる。あんまりまとまらず羅列に終わっているけれど。

で、市民権という概念が多文化主義から批判されていているという。そうなんですか? そしてその議論への考察として、これまでネーションステート的に基礎づけられていた「市民」というものが、どうやってそれを越えるか、という話が出てくる。つまり、これまではドイツ市民とかフランス市民とかいう国単位で市民意識が存在していたけれど、それをヨーロッパ単位に拡大するにはどうすれば、という話。あとは文化権なるものと個人の自由なんかをどう折り合わせるか、そして経済重視社会で「市民権が集合的行動を効果的に組織化するためには、政治的個人的市民権をどのように捉えなおさなければならないのか」。

さて本書はこれについてあーもあるこーもある、と大変うだうだしい。が、あまり有益な考察があるとは思えない。まず、国単位の市民からヨーロッパ単位の市民意識への推移を考えるなら、アメリカにおける州レベルの市民意識からアメリカという国レベルでの市民意識への変化がどうやって起こったかをもっときちんと見るべきじゃないっすか? いつ出てくるかと思って探したけれど、黒人奴隷解放の話しかない。文化権とかいう話は確かに面倒だけれど、それはむしろその不明確な文化権のほうをよく考えた方がいいんじゃないの? 訳者解説を見ると、著者の立場もそれに近いようだし、だったらそれを市民権側であれこれ考える必然性はないのでは? そして、最後の点については、そもそもなぜ集合的行動を組織化するのに市民権に基づかねばならないんですか? 経済も市民権意識の基盤の一つになるんじゃありませんか? 取引関係による利害の共有は重要っすよ。

ついでに、ぼくはアメリカの州→国という市民意識の変化はレッシグを通じて学んだネタなんだが、そこでも商業関係の拡大と通信手段は重要だったと指摘されていた。でも、本書はまるで、ナントカ権というのが他の環境と関係なしに、それ自体として重要でそれ自体として存在し自律的に発展しているような論を展開しているように読める。それではいわば権利神学ではありませんか、と思うんだ。本書はそういうのを批判しているような部分もありながら、でも自分でもそれをやってしまっていると思う。

ぼくは本書がこういう基本的な疑問について有効な回答や示唆を出しているとは思えない。そして結論のまとめも「とにかく市民権がんばろう」以上のものになっているとは思えない。よって、紙面での書評にはとりあげない。



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