カプシチンスキー『皇帝ハイレ・セラシエ』:淡々とした側近の談話で紡がれる皇帝の晩年。おもしろさは太鼓判だが時代背景とその後の歴史は予習必須。

皇帝ハイレ・セラシエ―エチオピア帝国最後の日々

皇帝ハイレ・セラシエ―エチオピア帝国最後の日々

うーん。実におもしろいんだが……

これは発刊当時は、どういうふうに読まれたんだろう。皇帝独裁が終わり、軍政から社会主義政権になる過程で粛正前の密告合戦が始まった頃に原著は出ている。いま、アジスアベバに行くと Red Terror Museum がかなり最近に建設されていて、その後の社会主義時代の状況がいかに恐ろしかったかが結構如実にわかる。

本書が取材されて書かれたのはちょうど軍政の終わりくらい。本書は、軍政の恐ろしさと皇帝時代のひどい状態をあわせて描くことで、その後の粛正と弾圧の恐ろしい社会主義政府にお墨付きを与える機能を果たしたんじゃないか。

本書は、エチオピア最後の皇帝ハイレ・セラシエの側近たちにインタビューして、それをそのまま淡々と載せ(たように見える。もちろん、実際にどのくらいの編集と脚色があるかはわからない)宮廷内の権謀術策とその中での皇帝自身のかなり異様な行動、さらにはそのインタビューされた側近たちのほとんど中世的な国民観や君主観(皇帝の末路が見えたとき、星が凶兆を描き出したのです、とか)を浮き彫りにしてくれる。その意味で非常におもしろい本。でも、上に書いたような、それが当時果たした機能についてはちょっと考えさせられるものがある。ハイレ・セラシエ皇帝は、イタリアの侵略を撃退して独立を守った英雄でラスタファリアンの神だし、上に述べたその後の社会主義政府の惨状を経て、いまではノスタルジックに回顧されてしまっているし……

談話の記録だから、さらさら読めるし、独裁者の不思議な生活や行動原理がうかがえて大変おもしろい。著者は例の池沢文学全集にも『黒檀』が収録され、文学性のあるノンフィクションの書き手としては一流で、その手腕は本書にも活かされている。ただ、少し上のような時代背景はおさえておかないと、「皇帝ってとんでもないやつだったんだなあ」だけで終わってしまうと(いやとんでもなかったんですけど)、全体を見損ねる点があることに関しては注意。ちなみに翻訳は 1986 年に出ていて、その後のエチオピアについてもう少しきちんとした情報を提示して本の理解促進に貢献することもできたはずなんだが、そういう努力が見られないのは残念。ちくま文庫に入ったときには、そこらへんの配慮はあったんだろうか(ぼくはオリジナルのハードカバーで読んだので)。

だがそれを抜きにしても、権力のあり方についてのいろんなさりげない洞察は示唆的。

宮殿は凡人の巣窟であり、二流の人たちの集まりであったことを、ここで思い出さなくてはいけない。危機が迫ると、そのような人々は脳味噌を失い、自分の命をつなぐことしか考えなかった。凡庸は危険である。我が身の危険を感じると残忍になるからだ。(p.181)

大きな間違いはそこにありました。如何なる動きも認めるべきではなかったのです。何故なら、我々は静止した中でのみ存在し続けることが出来たからです。動きがなければないほど、それは長く確実に続くのです。(p.189)


これを震災後の政府や日銀に……まあそれは本書のあれというよりは個人的なアレだけど。



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