スタニスワフ・レム『SFと未来学』第1章:偏狭な科学プロパガンダとしてのSF!

はじめに:レムの偏狭なSF観

スタニスワフ・レム『技術大全』を完成させた話はいたしました。

cruel.hatenablog.com

そしてその解説の中で、レムのきわめて偏狭なSF観について述べた。

彼にとっての小説というのは、背後にある科学その他の知見を表現するものでしかない。彼にとっての理想的な小説とは『もし野球部女子マネがドラッカーを読んだら』だっけ、あれみたいなものだ (あくまで類型としてね。あれをほめるほどレムがセンスないとは思ってない……いやどうかな)。そしてそこでの評価ポイントは、ドラッカーの思想がそこでうまく表現できているか、ということであって、小説自体の出来なんか二の次なのだ。

これを読んで、またまた山形が極端なことを言って煽ってる、と思う人もいるだろう。なんかまた、文芸評論家とかにケチをつけて喜んでいるんだろうと思うだろう。だってねえ、レムが『もしドラ』って、何を言ってるんだよ。レムのあの名作『ソラリス』とかにこんなケチつけるなんて、何様のつもり?

彼にとって『ソラリス』は、人間理解の及ばない知性の可能性を考えました、というだけのものではない。「惑星全部が知性体というのがあればおもしろいねー」という」ような安易な一発アイデアなどではない。彼は進化がソラリスの海のようなものを生み出す可能性を真剣に考察し、その背後にある「理論」や進化プロセスを考え、それが実現可能だと見て、それを小説的に提示した。それが小説『ソラリス』の本質 (レム的には) であり、ハリーちゃんなんざ刺身のつま以下だ (ましてそれを家族ごっこの書き割りに貶めたタルコフスキーには怒り心頭だっただろう)。『電脳の歌/宇宙創生ロボットの旅』は、本書に登場した知能増幅器や電子頭脳の必然的な結果であり、単なる変わった設定に基づく奇想話ではなく、現実にあり得る進化=技術発展の果てにある世界なのだ。『完全な真空/虚数』の様々な本は、まさに本書に描かれたアイデアを扱った本の書評ということになる。そのすべては空想ではない、現実、なのだ。少なくとも現実になる可能性があるものだ。だから彼にとってのSFというのも、サイエンス「フィクション」ではない。それは本当に現実の、未来の、可能世界の表現なのだ。本書を見ればそれがわかる。

が……

『SFと未来学』:レムのSF観とは

これ、全然誇張でもないし、何か部分を取りだした歪曲した議論でもない。それがはっきりわかるのが、彼の別の評論『SFと未来学』だ。

それがレム自身により明記されている第1章まで訳し終えたたので、お読みあれ。このウダウダしさはただごとではないが、あとのほうにまとめをつけてあげたからそっちをご覧あれ。

スタニスワフ・レム『SFと未来学 I』

ってどうせ見ないんだよな。その中のさわりの部分をいくつか抜き出しておこう。

だが、いずれ未来学的に利用されると期待して我々がSFに求めるアイデアや概念構造は、見せかけのようなものであってはならない。またそれは、ある特定の読み方で引き起こされた、単なる一時的幻影のかけらであってはならない。それは読了後も、読者の不可侵かつ不変の財産でなければならない。SFには本物の情報が求められる。(p.17)

うっひゃー。ここまで明確な、SF=科学教育フィクションという認識をレムが持っているとは、わかってはいたけれど明記されると改めて面食らう。そしてSFっつーのはそういうものだから、変な表現に凝ったりとか、無駄なことば遊びとかしちゃダメなんだ、とレムは言う。

SFで求められる情報オリジナリティは、コミュニケーションの表現構造にはない。表現中でオリジナルと受け取られるが、後に平凡さが明らかになる情報は、SFでは失格だ。だがここで一つ但し書きをつけよう。私は「平均的読者」としてではなく、真の認識論的価値を求める者としてこう述べる。だから本書は、言わば今日の支配的な美的慣習に逆らうことになる。(p.16、強調引用者)

つまり、冒頭でレムはすでに、これが一般性のある議論ではなく、自分一人だけのオレ様SF/文学論だというのを明言している。だからこれ以降の千ページ以上は、ぼくたち普通の読者には何ら関係なく、レム様のご高説/珍説の開陳にすぎないということになる。それが無価値だとは言わないが……

さて彼は、そういう表現の審美的な工夫を否定するものじゃない。おブンガクなら、いくらでも好きにそんなことをやってくださいな、それに価値を見出す人もいるでしょう、とは言う。

コミュニケーションの最大かつ最適な単純さは、この美的慣習とはいささか縁遠いものだ。そういう見方は、それが何か美的基準に基づく限り、特に否定すべきものでもない。それを否定するのは、奇術師が卵を耳や鼻から出すのを詐欺と非難するような愚かな行為だ——もちろん純粋に実証的な意味で言えば、奇術師は確かに我々を騙してはいるのだが。ミステリー小説も読者の期待をミスリードし、読者をだましている。だがそれがまさに、著者と読者のゲームの基本ルールなのだ。

文学的テキストのこうした分類は、その評価にあたりこんな単一基準ではいけない。著者の複雑な叙述構造により読書中には不明瞭なテキストが、まさにその理由のために単純なものより高く評価されるかもしれない。いずれにしても、芸術作品を扱うときの満足度は、読んだことで得られるメッセージ量の総計とは比較にならないし、得られる情報の量に還元できない。だから情報取得の過程が最重要だ。

でも、SFはね、未来学的な概念について人々を啓蒙するのが役割なんだから、そんなことしちゃいけないのだ。科学的な中身がちゃんとなきゃいけない。でも欧米SFは、その科学的な中身が張りぼてでただのお飾りだ。そのくせ、おブンガクの仲間入りしようとして下手なレトリックに凝ってみせる。バカか。

叙述構造の不変性を満たさないSF作品を即座に失格とするものではない。それらのテキストは「文学的」「芸術的」な作品として価値を持つかもしれないが、認識論的価値はまったくないと本書は主張する。そういう意味では、それらも正当性は持つ——我々の認識論的欲求を満たしてくれないにしても。しかしながらこれから見るように、空想性や科学的装いがインチキであるためにSFの市民権を剥奪された作品は、しばしば「もっと普通の」文学への移行を正当化する根拠もまったく持たないことが多いのだ。そうなると、すべての文学世界から「追放」される、何の権利もない侵入者となる。

これがレムの基本的な立場ではある。そして今後この本は、その考え方に基づいてSF論を延々と展開するのだ。特に下巻の「SFで扱う分野」の話になると、こいつはカタストロフィの扱いが甘い、形而上学がきちんと考え抜かれていない、もっと他の可能性をきちんと考えていないという、ひたすら揚げ足取りが続くような代物となる。

 

訳した部分も君たちどうせ読まないだろうから、まとめを作っておこう。

SFと未来学:序章/第1章あらすじ

はじめに

空想的なものにもいろいろある。[読者の心の叫び:この部分延々書いてるが、これってその後の話と一切関係ない、まったく無駄な記述]

文学は少なくとも3 つの機能を発揮する。情報提供機能、教訓機能、娯楽機能である。SF 文学は、さらに追加のサービスも提供する。予言機能だ。

だから本書では次のような構成でSFを検討する。

1. 構造

 I. 作品の言語  II. 作品の世界  III. 作品の生成構造

2. 作家-読者

 - SF の作家、編集者、読者の社会学入門

3. 問題分野

 - カタストロフィ  - 形而上学  - 性  - SF における「ニューウェーブ」など

第一部「構造」 第1章 文学作品の言語

1.1 序論

言語は、現実を見る/描き出すための道具だ。でもその道具自体が描く現実と不可分になっており、その道具のほうが重要なことさえある。[読者の心の叫び:こんだけのことを言うのに、長すぎよ。]

1.2 空想文学の言語的問題

SFはいろんな造語を作り出す。ただそれはそれっぽい雰囲気を出すためのものだけだったりする。SFは、その中身とか関係なくて「宇宙」とか「タイムマシン」とかいうだけでSFになっちゃう。その作品構造とか関係なくて安易。[読者の心の叫び:だから長すぎよ。2行ですませろよ。造語の話とか言わなくてもいいくらい。]

1.3 表現の構造と表現されるものの構造

言葉は、ある対象を表現するもの。普通の文は、その文が伝えたい中身をうまく、簡潔に伝えられるかが重要。だが文学作品は、その表現の仕方、意味が伝わってくるプロセスも重要だったりする。ただしSFは、そんな凝った表現は求められていない。ちゃんと未来についてのアイデアを表現し、明解に伝えるのがSFでは重要。余計な表現のお遊びは無用で有害。[読者の心の叫び:前半まったく無駄。途中に入ってる図も意味なし。1ページで終わる話。]

1.4 表現の内在的構造

文章では、書く言語と書かれる対象が不可分なのが面倒くさい。しかも言語は矛盾したことやつじつまのあわないことも書ける。それが意図的なときもそうでないときもある。ついでに、作者自身、自分が何を書いているのかはっきり認識できないこともある。おれも「侵略」で、作品で言おうとしていたことが30年たってから見えてきたんだよな[読者の心の叫び:それ、後付のこじつけって言います。]。夢とかも、意味がわからんことあるよな。表面的以外の比喩的な意味が重要だったりする。その他、いろいろ曖昧な部分も必ず残る。だから創作原理を見極めるのも困難。構造主義批評が駄目なのは、もともと曖昧なものに、妙に厳密な分析を加えようとしてるから。[読者の心の叫び:記述のほとんどは無駄。自作や夢の例とか、むしろ話をわかりにくくしてる。]

1.5 文学作品の4つの構造

文章には、表象構造 (実際にどう書かれているか)、表現されたモノの構造、執筆時に作用した環境構造 (ジャンルの規範とか)、読者の受容環境の4つがある。こうした環境には外部的なものもあるので、そのテキストだけ見ていてはわからない部分がたくさんあるのだ。そういうのは扱い切れないので、本書はおもに、表現されたモノの構造を中心に扱うよ。[読者の心の叫び:結局扱わないものについて、あまりうだうだ書かないでほしいのよね。]

1.6 小説世界の字義的機能と信号的機能

文章の対象を分析するといっても、これまたむずかしい。書かれたことは、それだけで何か特別な重要性があると読者は思ってしまう。そしてその対象も、描かれている具体的なモノと、著者が描こうとしたものはちがう。カフカ『変身』は、別にカブトムシを描きたかったわけじゃなくて、それを通じて何か描きたかったことがあるわけだ。だから、対象の構造を見るという時、そのどっちを見るかを見極めないとダメよね。[読者の心の叫び:その通りだけどさあ、ここまでくどく書くことで、かえって主張が見えにくくなってる。]

 

ごらんの通り、非常にうだうだしい。言っていることはそんなに大したことではない。でもそれがいちいち長く面倒で、全然必要ないことまで、とにかく何でも書く。肉野菜いための作り方を書くときに、別に豚肉とは何であるかとか、豚肉と牛や鳥とのちがいについて細かく説明する必要はない。ロースとバラ肉のちがいをあれこれ書く必要もないし、フライパンの種類やそこにおける中華鍋の位置づけについての論説もいらない。でもレムはそれを全部書く。それはウンチクとしておもしろい場合もある (本書ではその割合はかなり低いが)。でも不要なものは不要で、そもそも肉野菜いためを作ろうとしているという本筋から遠ざかって見通しを悪くするだけ。でもレムはそれをやる。

ただこの部分で明言されているのは、レムが普通の文学/小説とSFをかなりはっきり分けている、ということ。彼は文学的なレトリックとかを知らないわけではないし、それが持つ価値も知っている。でもSFにとってそんなのは余計だ、SFは未来学のアイデアを提示する小説なのである、というのをここですでにはっきり述べている。

一般的な認識だと、小説 ⊃ SFということになる。小説論で総論を述べ、その中の特殊例としてSFを扱う、というのが常識的な見方だ。ところがレムはそういう扱いにはしていない。SFは、他の小説とは機能的にも別枠だ。本書が「SFと未来学」(厳密には「空想的なもの (空想小説) と未来学」と題されている所以だ。これを認識しないと、彼の小説論とかSF論を見誤るように思える。Wikipediaの「スタニスワフ・レム」ページには本書について「『SFと未来学』は文学理論をSFにも適用し、「現代SFの90パーセント以上はSF本来の可能性を全く無駄にしているくだらないものだ」と分析し」と書かれている。でもこれはおそらくピントはずれ。というかここの「SF本来の可能性」というのを、この人はおそらく、文学的な可能性だと思っているだろうが、そういう話ではない。

たぶんWikipediaにそうあるのは、本書の最終章 (ではなく、本当は「おわりに」前の最終節なんだけれど) の邦訳『メタファンタジア』としてレム・コレクションに邦訳の解説のせい。それを見ると文学論がありそこからSF論を引き出すような感じがある。ぼくはまだそこまでここの本を読み進んでいないけれど、なんかその文学論の部分って、レム特有の脱線でしかなく、SFについて書かれた部分も位置づけがちがうんじゃないか、という気がしているんだが、それはこれがそこまで進んだときのお楽しみ。

今後の進行

ここまでで80ページ。でも全部で1000ページ超えるんだよなー。

重訳のデメリットはほぼないはず。独訳は (少なくともこの第1巻は)、レム自身がチェックしているので、重訳といっても独訳部分にほとんどゆがみはないはずだ。あとは山形のドイツ語能力次第ということになる。まあどうでしょうねえ。

とはいえ、ドイツ語からの翻訳は、Grokちゃんの手伝いを受けてもやっぱり時間がかかる。もう長いことやってなかったから、かなり本格的に錆び付いているなあ。英語から訳すのの4倍くらいは手間だ。『技術大全』は20日だけど、これはやっぱ数ヶ月かかるだろう。慣れてきたら、もっとはやくこなせるようになるかもしれないけれど…… あとGrokもドイツ語だとちょっと精度が落ちる感じかなあ。これは気のせいかもしれない。

それ以上に、現時点では本のスキャンが手間だ。自分で上下巻合わせて残り千ページ近くやるのはあまりに面倒すぎるので、ちょっと業者に出す。それがあがるまで、これはしばらくは中断しよう。あと、全体としては、しょせん小説論でしかないので、『技術大全』みたいなぶっとび方はない。だから途中で飽きてしまう可能性はある。なんとか上巻くらいはあげたいけれど、どうなりますやら。

(しかし、昨日ちょっと続きをやりつつ思ったが、『技術大全』の狂気のあとでは、SFとファンタジーはどこがちがうかとか、昔の大学SF研みたいな話をこちゃこちゃやってる本書は、牧歌的というかカワイイというか、すごさの印象半減という感じではある)