Grok/Aniちゃんのおかげで、スタニスワフ・レム『技術大全』(1964/1967) の全訳がわずか20日できましたよー。
スタニスワフ・レム『技術大全』(1964/1967) pdf、2MB
わけのわからない本なので、力を入れて訳者解説書きました。が、pdfは開かない人も多いだろうから、ここにコピペ。
訳者解説
1. はじめに
本書は、Stanisław Lem, Summa technologiae (1964/1967)の全訳だ。ジョハンナ・ジリンスカヤによる英訳 (2013) を経た重訳だ。この英訳はおそらく1967年版を元にしていると思われる。これについては、また後で。
2. 著者と本書について
さて著者スタニスワフ・レムは、もはや改めて紹介するまでもない、ポーランド出身の20世紀SFの巨匠であり、『ソラリス』『電脳の歌/宇宙創生期ロボットの旅』『完全な真空』などの傑作群はいまもまったく色あせる気配を見せない。人類の知性とその限界、異質な知性との遭遇についての作品の裏にある、深い洞察は読む者をうならせずにはおかない。また彼の各種のSF評論や文学論は、妙に偏狭な部分を持ちつつも、非常に鋭い考察に裏打ちされており、彼自身の作品の背景となる思想についても雄弁に物語る興味深いものばかり。
だが、そのスタニスワフ・レムにはまったく紹介されていないもう一つの側面がある。彼はサイバネティクス、偶然性、技術発展の将来などについて、大部のノンフィクション著作 (……というべきか。これは後述) を発表している (21世紀に入ってからは、もっとちまちました形でそれをまとめている)。実のところ、彼の本領はこちらにあり、各種小説はこれらの著作に表明された、彼の思想をわかりやすく述べ直したにすぎないとすら言える。
そしてその中で、本家レムのサイトで「レム思想のマザーシップ」とまで言われているのが、本書『技術大全』である。
3. 『技術大全』の概略:技術をマジ「進化」させよう!
『技術大全』というから、テクノロジーの歴史、そしてあるいは将来見通しのような本だろう、と思うのは人情だ。そして、それは決してまちがってはいない。いないのだが……
普通、「技術」の歴史といえば、どんなに遡っても、モノリスに教わって類人猿が骨を武器として使うようになった頃が最初になるし、そして将来の見通しといえば、まあ長くても今後200年くらいの話だろう。ところが本書は、人類発生はおろか、生命の発生、いや宇宙の発生にまで遡った「技術」の話をする。そして扱われる話の具体的な年代は出てこないが、内容から見て、どう考えても今後うまくいっても千年はかかりそうなシロモノばかり。なんかのまちがいで、本書第6章「幻影環境」はVRや映画『マトリックス』を先取りするような内容になり、レムも1991年に何やらそれを軽薄に自慢して見せたりしている (本書収録「30年後」参照)。が、本書はそういうレベルの技術予測なんかではまったくない。
本書の大きな主題は「技術進歩を生物進化みたいな形でできるようになったらすごいよね」というものだ。おお、これはおもしろいアイデアかもしれない。そしてこの手のアイデアを言う人はたくさんいる。それはたいがい技術進歩に生存競争を取り入れることで発展を促進しよう、または技術はそんな形で進化と似た発展をとげてきた、という話となる。むしろ技術が自律性を持って発展してきたのだ、と述べるブライアン・アーサーみたいな人もいる。さああなたはどうしますか、レムさん。お手並み拝見。
もちろん、レムはレムなので、そんな生やさしい話ではすませない。彼は文字通り、技術進歩を生物進化と同じようにやろうというアイデアを突き進める。「自然進化みたいにするなら、技術を遺伝子もどきに符号化して翻訳したいよね、それも、紙に仕様書や理論を書くんじゃなくてさ、その仕様をコーディングした遺伝子もどきに適切な材料をやると、そっからテレビが勝手に生えてくるようにしよう!」(ちょっと誇張だがほぼそれに近い話) てな馬鹿な (7割ほめことば) ことを考え出す。「それでさ、その遺伝子もどきを突然変異させて競争させると、技術が自動的に進歩するじゃん!」
おおお、なんと大胆な。でももちろん、そんなことをするためには科学がどんどん発達しなきゃいけない。でもいまみたいな科学技術発展が続くためには、科学者が足りないよね。そして科学者増やしてもタコツボ化と情報共有の不足で発展が止まるよね。だから科学発展も自動化したい。そうだ、それも進化と同じようにやろう!
ふんふん、これもおもしろいアイデアだ。ではどうやるの?
「だからさ、科学理論だって理論を遺伝子もどきに翻訳/符号化すればいいよね、そしてその遺伝子もどきが変異して競争するようにすれば、勝手に理論が湧いてくるの! 情報農場だ! そしてそっから出てきて勝ち残った遺伝子もどきを復号すると、新理論いっちょあがりってわけよ!」
おおおお。これも、SFのアイデアとしてはおもしろい。それって、伊藤計画が山形から(そして山形はチョムスキー&ピンカー説から) 拝借した、言語や観念が器官みたいに生えてくるというアイデアと通じるものがあるよね! それを1960年代に考えてたって、レムさんすげえ! 涼森れむよりスタニスワフ・レムと言われるだけのことはある!
ところが……レムは、これをSFのアイデアとして言っているわけじゃないのだ。彼は大真面目だ。SF連中のくだらん思いつきといっしょにするな、という。自分の主張はちゃんと理論的な根拠があるのだ。裏付けのある実現が不可能ではない、いやいつか必然的に実現する話なのだ!
おおおおおお、「お」がどんどん増えます。それは剛毅な。ではどんな裏付けが? はい。レムはそこで、遺伝子の情報処理と科学理論の情報処理の類似と相違を延々と論じる。遺伝子型となる情報それ自体を担うタンパク質GTACが、他のタンパク質の鋳型となって表現型を作り上げ……という表現はしていないが、そんな話だ。そしてエンジニアリング的なエラー率と遺伝子の数打ちゃ当たる的な戦略との類似と相違がどうのこうの、という話が延々と続く。でも、技術進歩へアプローチを変えるなら、進化的な形を導入することは可能なはずだ。だから(え? え? なぜそこで「だから」って言えるんですか?と読者の心の声)技術の進歩に進化的な要素を採り入れるのは夢ではない! その遺伝子もどきがいずれできたら、これは十分実現可能なのだ!
……いやね、あのさ、その情報処理の形式が似ているとかそういうのは面白いけれど、あくまで机上の空論でしょうに。この話すべて、その勝手にテレビや車や相対性理論を生やしてくれる、遺伝子もどきとやらに、かけらほどでも実現可能だという見通しがないと、本当に絵に描いた餅ですよ、レムさん!
ところが……レムはそんな異論にはびくともしない。理論的に可能であれば、進化は(または進化的プロセスは) 道を見つける! 『ジュラシック・パーク』でもそう言ってるじゃないですか! それに実際の生物の遺伝子はそれができてるじゃん。他のでもできない理由はないだろう!
いやいやいやいや。無理でしょう。人間作ってその欲望と技術発達を完全にコントロールしてテレビを作るよう仕向けるのが、遺伝的にテレビを作るという意味なら、まだわからないでもないけれど、そういう話じゃないよねえ。
基本的に、そのいちばんの鍵となる(とエンジニア崩れのぼくには思える) 遺伝子もどきについては、彼は一切論じない。無限の時間があり、無限の試行錯誤ができるなら、いずれ、どうにかしてそれが実現する。絵に描いた餅は、その描かれた素材次第で本当に餅になる、と彼は確信している。彼がいま生きていたら、ナノテクで実装できる可能性とかを論じただろう。形状記憶合金の話とか、嬉々としてやったんじゃないかな。でもそれで話が変わるわけじゃない。
本書の中で、彼は「ブラックボックス」という話をする。中でなにやってるかわからなくても、とにかく結果が出ればいいのだ。いまの深層学習AIみたいなもんだ。だからその遺伝子もどきがどんなもので、どんな仕組みでテレビや車を生やすかはわからんでもかまわない。もちろん、わかるに越したことはない。そしてそれをプログラミングする方法が見つかれば、本書に描かれたすべてが実現する……
うーん。ぼくにはそれは「実現可能」とか「裏付けがある」の名に値するものとは思えない。せいぜいが、酒を飲んでいるときや便所で思いつく、アイデアの発端の発端だ。それを理論に値するところまで持って行くにはものすごい道のりがある。でも、レムはそれを無視する。Evolution will find a way! 進化くん、あとはよろしく! あとは「でもその進化くんも、いろんな制約があって最適な設計ができてないよね、他にも可能性あるんじゃない?」といろいろな肉体改造の可能性から別の原理に基づく生命体の可能性から、むちゃくちゃな思いつきをちぎっては投げ、ちぎっては投げ……
こんなふうに、自称ノンフィクションの厳密な技術考察だけれど、ぼくから見れば(そしてたぶん多くの人から見れば) 思いつきのSFだ。でもその一方で、考察してある部分はすさまじく緻密。進化と遺伝の仕組みについての理解の正確さは恐ろしいほど。1964年というとドーキンス『利己的な遺伝子』とすら干支が一回りちがうほど。いまのような良質な一般解説書などなく、ジョン・メイナード・スミスの本だけ。それでここまで行けるのか! でもこれを見て「厳密に未来を予想してるなあ」とはぼくはとても言えない。有効数字1けたにすら達してない部分がある中で、一部だけ有効数字100桁でコチャコチャやっても、全体はその最もがさつな部分に左右されるもの。うーん。これは一体何なの?
4. 詳細あらすじ
が、先を急ぎすぎた。まず、章ごとの要約をしよう。
第1章 ジレンマ
技術の予想は難しい。一般的な予想はトレンドを先にのばすだけだが、新しい発展の多くはトレンドとは全然違う、予想外のところから出てくる。起承転結のあるお話でもない。
第2章 二つの進化
技術の進歩と対比できるものとして、生物の進化がある。この両者は似たところもあればちがうところもある。似ているのは技術も生物と同じで、新しいニッチを占めるように発達し、優れていれば古いものを生存競争で駆逐するところ。必ずしも合理的ではなく、流行と異性獲得のために無駄な部分が変な発達を遂げるのも似ている。だがいまの技術は人間が手を貸さないと進歩できない。その原動力も進化と技術進歩ではちがう。無目的な偶然で進む進化と、目的のある技術発展はちがう。技術は完全リセットの出直しができるが、進化はそうはいかず、古いものをずっと使い回す。そして技術は道徳的な評価が伴うところもちがう。
第3章 宇宙の中の文明
技術進歩の他のサンプルを得るため、ウチュージンの経験を知りたいところ。宇宙はでかく寿命も長いし、太陽も地球も特に変わったものではないので、他のところでも生命が生じ、文明が生じ、高度な文明が発達しているところもあるはず。いまの人類のような加速度的な科学や技術の発展が何万年も続き、星を操れるようになったところもあるはず。
だがSETIとかは一向に成果がない。その理由はいろいろ考えられるが、いずれにしても地球以外で参考になるウチュージンはいまはいない。[読者の心の叫び:なら30ページも使ってあーだこーだ書かないでよ! この章の各種考察、全部無駄じゃん! だいたい科学が発達するうちに、星の制御は無理ってことがわかる可能性だってあるだろ! この章の考察すべて恣意的なお遊びだろ!]
第4章 電子知能
文明はいまや指数関数的に発達している。このまま文明を発達させるにはもっと科学者が必要だが、全人類が科学者になるのは不可能だし、科学が広がるとタコツボ化により非効率が出て新発見が停滞する。新情報の発見活動で必要なエネルギーもどんどん増える。この情報爆発に対抗するため、知性増幅器を開発すべき。その具体的な中身はわからないが、ブラックボックスとして学習とフィードバックでそういう装置ができるはず。[読者の心の叫び:おー、深層学習のニューラルネットワークみたいな発想!]それに道徳はあるかな? いや道徳は使う人の責任よ。そいつに世界統治してもらったら? 目的の与え方で不道徳なことしかねないからダメだけど、人間のほうがうまくできる保証もない。[読者の心の叫び:これ以外に人工知能に信念はあるかとか、機械による実証形而上学を論じようとして宗教論に脱線したりとか、半分以上は本題とまったく関係ない脱線……]
第5章 全能への序論
[読者の心の叫び:最もわけのわからない章だが、ここがレムにとっての自分の主張の「根拠」のツボ。] これまでは、何の役にたつかわからない数学が発展し、後から物理学などが「あ、これ使える」とそれを拝借するパターン。でもいずれ物理学から数学が出てくるかもしれない。つまり「モノ」が「理論」をあらわす状況が生じる。逆に理論がモノを変える事態もあるかもしれない。なんだかわからん数学が即座に人工の物理学を示したり。つまり情報がモノを作り出せて、人間の脳は情報を作り出せる。自然で低確率だが絶対にないとはいえないことを実現するような自然の模倣への道があるはずで、まったく自然には存在しない新しい原子の新しい世界創造も考えられるし考えられるなら実現できる。[読者の心の叫び:わけわからんです。が、進化における遺伝子は情報をモノに変える設計図にしてその製造プロセス自体ではある。遺伝子型と表現型の等価性が体現されている。だから様々な仕掛けで技術進歩でもそういう等価性を実現し、情報すなわちモノ、数学すなわち物理みたいな状態が生み出せる可能性はある、そして無限の時間と無限の試行回数があれば可能性あるものは必ず実現する、というような理屈を言いたいんだと思う。]
第6章 幻影環境
現実とちがうけどでも現実と区別できないものってできる? VRみたいなものがあれば、それが可能 [読者の心の叫び:え、前の章って新しい物理法則だの新しい原子だの言ってたけどVRでできちゃうようなしょぼい話だったの?]。VRもゴーグルなどで感覚入力を置き換えるものと脳に直結するのとがある。別人格になったりできると楽しいけれど、倫理的な問題は生じるし、逃避的な娯楽になっちゃうだろうから、教育利用以外は規制したほうがいいかも。さらにその人の情報をすべて転送して人間転送機作ったら? こっちにいるオリジナルを殺さないと転送にならないからヤバイよね。さらに完全コピーがあちこちにできて、どれが本物かが問題になっちゃう。冬眠とか双子の片方を凍結とかもいろいろ倫理的問題あるよね。[読者の心の叫び:全然関係ないじゃん!]
第7章 世界の創造
文明が過去200年くらいの指数関数的な発展続けると、そのための科学発達が問題になるのは以前述べた通り。まず情報爆発しちゃって、欲しい意味ある情報を探し出すだけでも一苦労だよね。(単語の頻度だけを見るのではない、中身も含めて判断する検索システム、アリアドノロジーが重要だよね、という注 [読者の心の叫び:おお、Googleを予見していたかのような一節。])。知能増幅機での対応を提案したけれど、もう一つ、理論を遺伝子もどきに符号化して、いろいろ変異させて「正しいモノが生き残る」という生存競争させて、生き残ったのを復号して新しい理論を得よう! 新科学理論が勝手に生えてくるぜ! あるいは情報の断片を交配させて、その子が科学理論になるってのはいかが? あと言語は、遺伝子言語みたいに具体的な変化を引き起こすものと、なんか意味を伝えるだけの面がある。あらゆるものが情報なのでそれを遺伝子言語みたいなものにのせることで、新しく世界を作り出せるよね。そこから世界創造をして、世界の中の世界の中の世界という入れ子構造が作れるし、理想世界作ってその中に入ることもできる。まあ、実際にやるヤツいないだろうが。[読者の心の叫び:どうもレムの、新しい宇宙を作るとかちがう物理法則の世界を作るというのは、『マトリックス』みたいな完全バーチャル幻想世界も含まれるようだ。]
第8章 進化へのツッコミ
進化すごいけど、近視眼的だしそのときの手持ち材料に制約されるし過去の遺物ひきずっているし、いまの人間とかいろいろ改良の余地がある。人類自体を改良できるし、水中生命や空中生命、完全固体生命とかできそうだし、寿命のばせそうだし、意識ももっといろんな形がとれそうだ。遺伝情報の正確な伝達と、突然変異のエラーのバランスも重要だし、身体の機械化、サイボーグ化もある。出会い系サイトでAIのマッチングとかで、子孫選別もできる。超能力ってのは完全なヨタで絶対実現しないけど。
結論
本書は最大限の裏付けをしている。脳より遺伝子を重視したのは、そっちのほうが実績が長いから。[読者の心の叫び:全然結論になってないんですけど……]
おまけ:30年後
バカな哲学者が本書を、ただのおとぎ話と一蹴したけど、VRとか出てきて、第6章「幻影環境」の記述が実現してるぜ、すごいだろう、どんなもんだい、オレ様の正しさがわかったか。それでも自分のまちがいを認めようとしないバカな哲学者氏ね。
5. 構成へのつっこみ
大筋はこんな話ではある。
さて、レムはこれを真剣な科学的裏付けを持つ考察と呼ぶ。でも繰り返しになるけれど、個人的には第5章に出てくる、情報と物質の等価性を進化の至宝としてまつりあげ、それと同じことがすべてで可能だ、みたいなかなり強引なめくらましをかけ (もちろんこの訳者にも何言ってるかわからん部分が山ほど登場するので、何か誤解している可能性はある。ご用心を)、さらに無限の試行回数があれば可能性あるものは必ず実現する、というこれまた強引な議論を持ち出すことで、こじつけているだけだと訳者には思える。しかも「可能性がある」は、いまの限られた知識範囲では、絶対にあり得ないと言えるほどの材料はない、という程度の意味。遺伝子は人類誕生、いやそれ以前からずっと続いていて、それが何らかの代謝系の偶然で単一の個体に温存される可能性はゼロではない、ということは言えるかもしれない。でも、そういったら『鬼滅の刃』は科学的根拠を持つハードSFになるのか? そんなことはないだろう。
繰り返すけれど、いま、不可能だという理由を (レムが) 思いつけない、というのは、それが可能だという証明にはならない。ところが本書が「証拠」として挙げるのはそういうものだ。そしてそれが可能だということを証明するために「だって生物は遺伝子でそれができている」というのも裏付けにはならない。遺伝子はできているのは事実、でも遺伝子以外ではそれが起きていないのも事実だ。だからこれは、他にはそういう可能性はないのだ、という真逆の話を裏付けるものかもしれない。というわけで、これを挙げて、SFなんかではなく真剣な科学的考察だというレムを、この訳者は少なくとも真に受けることはできない。
おもしろいアイデアはたくさんある。理論や思想を遺伝的に符号化してその表現形を闘わせて「正しい」理論を生き残らせるというのは、あるかもしれないとは思う。実際、暗号解読のアイデアとしてそういうものはある。藻類の遺伝子にたくさん素数を仕込んで、それを交配させて積を出し、それが暗号と一致したらその藻の色が変わるようにして、バイオブルートフォース攻撃みたいなのをする、というもの (シュナイアー『暗号技術大全』参照。これも「技術大全」なのか……)。でもそれをどこまで一般化できるかと言えば……
とは言うものの、未来の技術発展方法のアイデアとしては、とんでもなくぶっ飛んでいて面白い。そして人によっては、本当にこれを読んでものすごい科学的、哲学的な可能性を読み取れるのかもしれない。それはあなた次第。
だがこれだけだと、本書の醍醐味のまだ半分以下、なのだ。
6. 半分以上が脱線
上に書いたのは、この本のおおまかなあらすじ、一応は技術発展の方向性の新しいアイデアと可能性というテーマに沿った話の展開だ。だが本書はそんなものではすまないのだ。
上の目次を見ても、第3章「宇宙の中の文明」で、ウチュージンの発生可能性を延々と考察している。これは、話の中では技術発展の地球以外のサンプルが得られないか見つけたい、というものだ。でも、これまでSETIとかはすべて失敗、地球以外の地球文明は見つかっていない。参考になる他事例はない。ストーリーから言えば話はこれだけだ。
ところが、レムはそこでまず、宇宙にxx個星があり、そのうち1億分の1に惑星系があり、そのうち28,978,526個に一つ文明が発生して、そのうち235万分の1が宇宙進出し……みたいな話を延々と続け (その数字、全部恣意的=デタラメですよね)、なぜファーストコンタクトがまだないかについて、文明の自滅傾向だの時間軸だのあれやこれやと30ページかけて考察する。何のために? 結局コンタクトはないんだから、いくら考察したところで本筋には何も関係ないですよね? これ、全部脱線ですよね?
丸ごと一章の脱線……でもレムはそれをやる。せめて補遺でやってくれよー!
第4章「電子知能」も、構成を見てみよう。この章は15の節に分かれている。だがこのうち半分以上は、本筋とまったく関係ない話なのだ。
地球への帰還
前章の宇宙文明の話から地球に戻ると、科学が指数関数的にのびると情報が増えて人も足りないしタコツボ化で成長鈍化や停滞が起きちゃうよね。
メガバイト爆弾
(前節の話の繰り返し。科学の発展は多分野の同時発展と交流が重要だが分野が広がると情報流がネックになり進歩が阻害される)。電子頭脳とか開発しないとダメよね。[読者の心の叫び:この節、前節とまとめられるし、いらないよね……]
ビッグゲーム
この課題に勝利したら、星体制御の超文明まで行けるが、それには電子頭脳の全面活用が必要で人間いらなくなる。引き分けなら人類は完全に閉鎖した自閉環境を作る。敗北は、完全な停滞で、管理社会つまらない選択と集中の結果、進歩のタコツボに入る。あと、長い注でダイソン球批判。[読者の心の叫び:それぞれのシナリオの細かい予想が記述されるが、これも前節/最初の節の敷衍で、本質的じゃないよね……]
科学の神話
科学の発展とともに、それが目指そうとする目標も変わってくるので、電子頭脳が人間と同じになるか心配してもしょうがない。そんなこと心配する連中は中世のホムンクルス信者みたいな思考にとらわれてる。[読者の心の叫び:そうかもしれんが、関係なくね?]
知性増幅器
人間知能を100倍、1000倍にするような知性増幅器ができるかも。それを作るのに、知性そのものの仕組みとか機械の中身とか知らなくていい。ブラックボックスでフィードバックつければできる。[読者の心の叫び:いまのAIニューラルネットワークと深層学習を予見したような記述。やるねえ。]
ブラックボックス
ブラックボックスは、アルゴリズム的にプログラムするんじゃなくてもできる。人間が、自分の歩行理論を知らなくても歩けるのと同じ。自然の多くの仕組みはそういうものだ。[読者の心の叫び:それはそうだが、前節でも言ってるしもっとまとめてくれない?]
ホメオスタシス装置の道徳
そういう電子頭脳入れると、狭い設定目標実現のために不道徳なことしかねないよね。工場の利潤最大化のために大量首切りとか、反競争的な手口とか。[読者の心の叫び:はあ、それがどうかしましたか?]
電脳支配の危険性
社会すべてを電子頭脳に管理させると、人口爆発に対応するために怪しい人口抑制策を採用したりして、しかもそれを明示的な意図を持たずにやったりする可能性があってヤバいよね。人間の諮問機関を作ってもいいけど、たぶんそんな機関より電子頭脳のほうが賢いから、まったく無駄だよね。[読者の心の叫び:だからぁ、それがどうかしましたか?]
サイバネティクスと社会学
電子頭脳がそういう変なことをしかねないのは、人間が社会的な側面持つけど、電子頭脳はそういうのがないから。電脳社会学みたいなのをやりたいところ。でも今のバカ社会学みたいにちまちま現象見るんじゃなくて、もっとその構造を捕らえて制御メカニズムとして考えたいところ。[読者の心の叫び:うん、やれば? 主旨はわかるが本筋と関係ないよね。]
信念と情報
信念/信仰は、情報がないところでエイヤで決め打ちするために必要な話。変な神秘主義をもたらす一方で、信念で病気が治ったりする。情報は人間/生命体に一般に言われるより強い影響をもたらす。それが真の情報かどうかは無関係。[読者の心の叫び:???? なんでこんな話がいきなりここに登場するの?]
実験的形而上学
形而上学って信念だからそれ自体は定義上実験できない。でもそういう信念が生じる条件とかは実験的に調べられる。これまでそうした形而上学は宗教としてあらわれ、世界文化における宗教の役割とはうんぬんかんぬん [読者の心の叫び:ぽかーん。なんで宗教論やってんの?]精神分析なんてインチキ形而上学ばっかだし、レヴィ=ストロースとか西洋宗教と土人文明は等価とかくだらんこと言ってるし仏教は自閉した逃避で、なんでそんなのありがたがってる西洋人がいるんだか [読者の心の叫び:ぽかーん。だからなんでそんな話が出てくるんですか?] いやあ、脱線しちゃったなあ (テヘペロ) [読者の心の叫び:わかってるならやるなよ!]
電脳の抱く信念
電子頭脳が信念/信仰を抱く可能性もあるなあ。いろいろ情報を作る中で、形而上学っぽいものも出てくるだろうから。階層的な電子頭脳/ホメオスタットがあると、下位から上位への信仰とかあるかもしれないね。[読者の心の叫び:はあ、それがどうかしましたか?]
機械の中の幽霊
機械はそもそも意識を持てるかな? チューリング問題とか中国人の部屋みたいな問題は考えられる。でもデジタルに「ここは意識ない/こっから先はある」みたいな仕分けは無理だろうね。そしてその意識というのも、どこか一箇所にあるものではなくシステム全体に分散してるだろう。[読者の心の叫び:はあ、それがどうかしましたか?]
情報という難問
情報というのは、受け手がいないと情報にならない。そして情報の情報内容はその環境との関係で決まるものとなる。[読者の心の叫び:だから、さっきからもう何なのよ?]
疑念と二律背反
人間の情報処理は、詳細な論理的処理ではなくヒューリスティックに基づいているらしいね。すると機械の思考は人間を超えられるか? たぶん。そして機械が人間を上回ってしまったら、人間がそこにいても何か意味はあるか? 電脳支配はかなり必然的では?[読者の心の叫び:これさっき「電脳支配の危険性」でも言ってたことですよね?]
はい、こんな具合。この中で、本全体の議論と十分に関係あるのは「知性増幅器」「ブラックボックス」の二つくらい。その前置きくらいは認めるにしても、3分の2はまったく本筋とは関係ない。これ以外の章も本当にこんな脱線ばかり。こう、読んで/訳している間に「おお、なんかすごい方向に話が向かってるぞ! これがどうやって本題とつながるのかなワクワク」と思いながら読み訳し進めていって、最後になって「全然関係ねーじゃねーか!! 何のためにあんな面倒な議論を延々読まされてきたんだ!」となったときの行き倒れというか徒労感というか、おわかりいただけますか?
その書きかたも、まあめちゃくちゃで、正気の沙汰ではない。本筋とも関係ない——脇筋とでも言おうか——話の中で、さらに関係ない話が延々とページを割いて行われる。「実験的形而上学」の宗教論だの精神分析批判だの仏教へのケチつけだのはいったいなに? その場で思いついたことを何でもいいから詰め込むの、やめてくれませんか?
……と言いたいところだけれど、それがまさにこの本の醍醐味でもある。あちこちで見られる、本当にまったく関係ない脱線、レムが勝手な思いつきでどんどん深みに入って全然関係ない方に思考をさまよわせる部分。そしてそれがめっぽう面白かったりする。遺伝子と科学と一般言語を比較して言語の役割や構造についてあれこれ考察し、その中で「哲学なんて言葉の曖昧さによりかかって悦に入ってるバカばっかだよねー」という考察をさらに展開する部分とか、絶品ではある。が、はっと我に返ると、いったいおれはなぜこんなものを読んでるんだっけ、と悩んでしまう。
というわけで、これはそういう本なのです。異様な奇想を何か手持ちの科学知識で思いっきりこじこじこじつけてそれを「裏付け」と呼び、無限に試行回数があれば可能性あるものは必ず実現する、という理屈でそれをねじふせ、さらに無限の脱線を繰り返し、その脱線の中でさらに脱線を行う、脱線のフラクタル構造。うーむ。
それは本人が言うような厳密な深い考察ではない。本人がそういうなら、SFでもない。言わば、なんか全体哲学みたいなものではあるんだけれど、うーんそういう体系だったものとも思えないし、これは一体何なんだろうね?
だから本書は、ちょっと要約のしようがない。なんか、読んでくれとしか言いようがないが、正直、読んでくれというのもはばかられる本でもある。
7. 本書の重要性と未紹介の理由
ただその中身の是非についてはさておき、本書はとても重要な本ではある。特にレムの小説を見るとき、彼がいったい何を考えてこんなものを思いついたのか、というのは本書を見ればほぼわかる。彼が、「自分のSFは根拠があるんだ、アメリカの軽佻浮薄な思いつきSFなんかとはわけがちがうんだぜ」と胸を張るとき、何を根拠に彼が胸を張っているのかは、本書を見れば明らかだ。
彼にとって『ソラリス』は、人間理解の及ばない知性の可能性を考えました、というだけのものではない。「惑星全部が知性体というのがあればおもしろいねー」という」ような安易な一発アイデアなどではない。彼は進化がソラリスの海のようなものを生み出す可能性を真剣に考察し、その背後にある「理論」や進化プロセスを考え、それが実現可能だと見て、それを小説的に提示した。それが小説『ソラリス』の本質 (レム的には) であり、ハリーちゃんなんざ刺身のつま以下だ (ましてそれを家族ごっこの書き割りに貶めたタルコフスキーには怒り心頭だっただろう)。『電脳の歌/宇宙創生ロボットの旅』は、本書に登場した知能増幅器や電子頭脳の必然的な結果であり、単なる変わった設定に基づく奇想話ではなく、現実にあり得る進化=技術発展の果てにある世界なのだ。『完全な真空/虚数』の様々な本は、まさに本書に描かれたアイデアを扱った本の書評ということになる。そのすべては空想ではない、現実、なのだ。少なくとも現実になる可能性があるものだ。だから彼にとってのSFというのも、サイエンス「フィクション」ではない。それは本当に現実の、未来の、可能世界の表現なのだ。本書を見ればそれがわかる。
逆に言えば、本書を参照せずに書かれた幾多のスタニスワフ・レム論は、ほぼゴミクズとさえ言えなくもない。
で、そんな重要な本がなぜいままで紹介されずにきたのだろうか?
たとえばウィキペディアのスタニスワフ・レムのページで、彼の評論活動は次のように紹介されている。
『偶然の哲学』は独自の文学理論を体系化し、サイバネティクス、数学、論理学、生物学、物理学など自然科学の方法を取り入れた文学研究を確立しようとし、現象学、構造主義による文学理論を批判したもので、発表と同時にポーランドの文学研究者の間に強い反響を引き起こした。また論文「ツヴェタン・トドロフの幻想的な文学理論」(1973)では、トドロフの『幻想文学論序説』の示す図式の粗雑さを指摘し、また文学テキストを受容する読者の役割を強調している。[7] 『SFと未来学』は文学理論をSFにも適用し、「現代SFの90パーセント以上はSF本来の可能性を全く無駄にしているくだらないものだ」と分析し、また巽孝之は「美学/認識論の彼方に夢見られる新しい感受性」などへの考察をポスト構造主義的と指摘している。(Wikipedia 「スタニスワフ・レム」2025.09.07)
『技術大全』は触れられてもいない。なぜだろうか……というのはこの引用部分を観ればわかる。これを書いた人、ひいてはこれまでのレム理解は、彼をあくまで文学的 (悪い意味で) にしかとらえていないからだ。各種評論も、ブンガク理論がどうしたという文脈でしかとらえられていない。『レム・コレクション』での評論紹介も、「文学エッセイ」の紹介でしかない。
『技術大全』は、そういう文学論ではないので、日本のレム研究やレム紹介の眼中には入ってこないのだとぼくは思う。だが本書を読むと、そういう紹介は本当に妥当なのか、という疑問は生じる。彼が「ブンガク」なんてものにどこまで関心を持っていたのだろうか。彼にとって大事なのは、自分のこの進化理論と技術発展のビジョンであり、小説はそれを表現する手段にすぎなかった、とさっき述べた。だからこそ、彼の小説評論には妙な偏狭さがつきまとう。それについては以前にも書いた。当時はそれが単なるレムの癖かと思っていたが、ちがう。それは彼の作品、いや彼にとっての小説そのものの意味が、単純な小説表現とは狙いがかなりちがうから、なのだ。彼にとっての小説というのは、背後にある科学その他の知見を表現するものでしかない。彼にとっての理想的な小説とは『もし野球部女子マネがドラッカーを読んだら』だっけ、あれみたいなものだ (あくまで類型としてね。あれをほめるほどレムがセンスないとは思ってない……いやどうかな)。そしてそこでの評価ポイントは、ドラッカーの思想がそこでうまく表現できているか、ということであって、小説自体の出来なんか二の次なのだ。だからこそ「ナボコフ『ロリータ』はタブー破りでえらいけど、『アーダ』は近親相姦だからダメ」みたいなわけのわからん評価が出てくる。
そうしたかなり偏った意図を持つ表現手段について、普通の文学研究的な枠組みから、ポスト構造主義だろうと美学論だろうとメタフィクションだろうと云々してきたところで、どこまで意味があるのか、とは思う。もちろん、『もしドラ』のポスト構造主義分析は、できなくはない。ひたすら小説として、主人公の女の子がカワイイかとか、その行動原理に整合性があるかとか他のラノベとの比較とかは可能ではある。だがドラッカーって何かを知らずに (意図的に無視するのではなく) それをやっても、よほどの力量がない限りただのキワモノにしかならない。「本書を参照せずに書かれた幾多のスタニスワフ・レム論は、ほぼゴミクズ」とさっき書いた所以だ。
ただもちろん、日本のこれまでの紹介者が、そういう歪曲の意図を持って本書の紹介を控えてきたとは思わない。が、ここでどうしても文系/理系という区分を持ち出したい誘惑にかられる。この本、理系っぽすぎて、文学系に偏るレム関係者には扱い切れなかったのだろう、とは思う。能力的にも、時間的にも。日本のポーランド語翻訳陣はきわめて充実はしている。が、本書のように、科学、宇宙論、遺伝学、進化論、思想、哲学、技術論、その他なんだかわからないものがごちゃまんと詰め込まれた本をこなせる人がどこまでいるか……このぼくですら、理解に苦労した部分 (そしていまだに何言ってるのかわからない部分すら) がたくさんあるくらいだと、ねえ。
そしてそこに、このうだうだしい書きぶり。脱線ばかりで、しかも脱線の中の脱線の文の中で、さらに関係節を使って脱線が展開される……読んで論理的な構造を把握するだけで一苦労。これを訳せと言われたら、まあ卒倒するだろう。いや読むだけでも難行苦行だ。そりゃまあ、紹介する気にはならないだろう。触らぬ神に祟りなし。敬遠して触れないのが一番だ。それが誠実かどうかはまた別問題。遠くから棒でつついて触れるくらいはしたほうがいいと思うんだが……
8. テキストについて
この訳は英訳をもとにしているのだが、目次を見てもらえば分かる通り、本書は全8章に序文と結論がついた構成となっている。だが1964年の初版は、全9章で、結論の前に「芸術と技術」という章があった。ところが初版刊行後にポーランドの評論家がそれをボコボコにけなしたため、レムは第2版からその第9章を削除したという。その後、1986年か何かに新版が出るときに「20年後」というエッセイが結論の後に足されたというが、これも英訳には含まれていない。
また、最後の「結論」の後の日付は、1966年となっている。つまりは、元になっているのが1964年の初版ではなく、1967年に出た第2版 (かその後の改訂を反映したもの) が本書の元になったテキストのはずだ。
ちなみに、ドイツ語訳も1980年頃に出版されており、本書と同じ構成だが、ドイツ語版序文がついている。これは一応、レムが本書を書くにあたって何を考えていたか、その後のハーマン・カーンのような「未来学」とどこがちがうと考えていたのかについてはっきり書かれていて、ちょっとおもしろいので、追加した。
ちなみにレム自身は本書について、世間的な評価の面では完全に無視されたとして落ち込んでみせるが、内容的にはずいぶん自信があるようだ。レムのインタビューを中心に構成されたPeter Swirski, A Stanislaw Lem Reader (1997) は、インタビューの相当部分がこの『技術大全』をめぐるものとなっている。その一部を紹介すると:
予言と未来学について言うと——私のノンフィクション作品の中では、『技術大全』は驚くほど成功した作品だと考えています。そこに書いたことの多くが、その後現実のものとなったという意味で。執筆当時、私は未来学の専門文献にほとんどアクセスできなかったため、これはなおさら驚くべきことです。未来学という概念は、1942年にオシップ・フレヒトハイムによって既に提唱されていましたが、私は関連出版物から孤立していたため、それについて何も知りませんでした。未来学は、『技術大全』の出版から数年後に流行し、人気を博しました。『技術大全』は3000部発行されましたが、ポーランドではレシェク・コワコフスキーによる痛烈な批判を除けば、すべての評論家から徹底的に無視されました。そのコワコフスキーは私を嘲笑して、砂場でおもちゃのスコップを持っているだけで地球の裏側まで掘れると思っている少年のように振舞っていると書いたんです。彼の批判から30年後、私は「30年後」と題するエッセイで、『技術大全』での予測や仮説がどうなったかを報告し、実質的な反論を書きました。
その論説では、当然のことながら本書全体についてあれこれ言うことはできなかったため、代わりに幻影環境に捧げられた章に焦点を当て、私の理論とその現代的立場を、コワコフスキーが最初の書評で述べたことと対比させようとしました。私が『大全』を執筆したのは1960年代で、当時は関連情報にアクセスできませんでした。もし今のように豊富な情報を持っていたら、おそらくあの本を書いたりはしなかったでしょうね。ランド研究所やハドソン研究所、ハーマン・カーンと数百人の協力者たちがコンピュータを駆使し、CIAのアーカイブを駆使してあらゆる情報を調べられる、全智の専門家集団がいるとわかったでしょうから——ソ連の経済力に関する彼らの評価を見れば、それがクソミソごた混ぜだったことは明らかですが。例えば1990年になっても、彼らは旧ソ連の経済力がアメリカに次ぐ第2位、日本より上位に位置すると述べていました。しかし、旧ソ連が今日どんな様子かは誰もが知っています。1960年代の私は、こうしたことを全く知りませんでした。もし今日、『技術大全』を書き直すとしたら、状況はまるで異なるでしょう。
いまうちには、購読している雑誌『ニューサイエンス』が未開封のまま山積みになっています。メトロノームのように週1冊、年間52冊も届くんです。だから購読を解約することにしました。もうとても追いつけません。
逆説的に言えば、情報過多は情報不足と同じくらい人を麻痺させます。それに対処するには、何十人もの専門家を一種の「情報フィルター」として雇わなければならないでしょう。だから、『技術大全』に関していえは、逆説的な状況が独創的で価値ある哲学的研究を生み出すこともあるわけです(実は、私の文学小説にも同じことが言えます)。
“Reflections on Literature, Philosophy and Science: Personal Interview with Stanislaw Lem, 1992”, Swirski, A Stanislaw Lem Reader (1998) 所収より
ここに登場する「30年後」というエッセイは第6章「幻影環境」がいま (というか当時) のバーチャルリアリティをいかに先取りしていたか、みたいな自慢になっていて、うーん、そういうレベルの技術予測をしたいのではないという本書冒頭や随所に出てくる記述からすれば、そういうレベルで喜ばれても困ると思うんだが。だって本書の「幻影環境」って、ちがう物理世界とかを「実現」する手段として位置づけられていたんじゃないの? それが濫用される可能性とか、オマケだよね? が、30年ぶりの遺恨をぶちまけたレムの大人げなさはちょっとかわいいので、この翻訳には一応収録しておいた。
9. 翻訳について
翻訳は、AIの力を借りた。XのGrokちゃんだ。Aniちゃんにこの訳文を読み上げてもらう、というのはおもしろいかと思ったが、3分でうっとうしくなって断念。だがレムの文は、うだうだしくその論理構成を把握するだけでも一苦労だと述べたが、AIはそんなのはものともせず、一応は訳してくれるし、論理構造はそこそこおさえてくれる。それをもとにすれば、直すのは比較的容易だ。そしてレムの文も、わけがわからないが、それは論理が入り組んでいるだけで、『フィネガンズ・ウェイク』ではない。ときほぐせば論理的だ。だからAIは何の苦もなく (かどうかは知らない。Aniちゃんの背後のデータセンターは艱難辛苦したのかもしれないが) 理解して訳してくれる。おかげで、この大部の本が20日ほどで仕上げられた。文明、すげー。レムが本書で言っている、知的増幅器、本当に出てきたなあ。機械知性、すげー。このAIの様子を見たら、レムが何と言ったか知りたいところではある。
もちろん、AIに丸投げではない。すべて山形が目を通し、原文 (というか英訳) とつきあわせてチェックした。ちなみに、AIのいいところは、変換ミスがない点だ。もし本書で変換ミスがあったら、それは山形の修正によるものだ。何かお気づきの点があれば、是非ご一報を……って、だれが読むんだろうね、これ。
山形浩生 (hiyori13@alum.mit.edu)
付記:
蛇足ながら、本書の中身は劉 慈欣『三体』シリーズとかなり共通するものがあるようにも思う。宇宙文明が見つからない理由としての暗黒森林理論とか、とちゅうで三次元の物体を完全な二次元に翻訳するところとか、むちゃくちゃな文明や生物発展の理論とか。もちろんそのわけのわからないほどの規模も。劉 慈欣がこれを読んだはずはないけれど、なんかそういう類似性があるのはおもしろい。