シェンク『天才を考察する』:天才は努力の結果という最近多い本だが、「ベルカーブ」へのまぬけな言及で大幅減点。

天才を考察する―「生まれか育ちか」論の嘘と本当

天才を考察する―「生まれか育ちか」論の嘘と本当

ぼくがしばらく前に訳した『非才』やグラッドウェル『天才』と同じことを書いた本。生まれつきの天才なんていなくて、みんな努力の結果で、遺伝と環境の両方がきいてくるんだ、という話。つまり、あなたもぼくも、ベッカムになれたし、将棋の名人にも大金持ちにもアキバ48のセンターにもなれたはずなんだけど、努力が足りなかったのよというわけ。

遺伝は何の関係もないというタブララサ説から、やっぱ遺伝も効いてるよ、という話がピンカーなどで普及してきた。そのさらに反動で、いや遺伝よりはその後の訓練その他がずっと効いてるんだ、という説がどっと出てきたのが本書を含め最近の動向だ。この種の、天才なんてなくて、努力すればだれでも世界チャンピオンになれるといった本の居心地の悪さは、『非才』の解説にも書いた通り。だってこれは、つまりおまえら努力が足りない、怠け者だ、お前が冴えないのはすべてお前のせいだ、自業自得、すべて自己責任と言うに等しいんだから。が、こうした議論自体はおもしろいし、もっと広まってしかるべきだとは思う。

ピンカーとかが挙げる、別々のところで育った双子が意外と似ている、という研究に対して、いや似てないのもある、という話とか遺伝率って何かについての誤解の説明とか、参考になる部分もある。でも……ぼくは本当に本書が、主張するような論点を主張しおおせているのか疑問だとは思う。天才と呼ばれる人を調べて見たら、みんないっぱい練習して努力してました、というのはわかった。でも遺伝が効いているかどうかを見るには、天才とそうでない人が同じだけ努力したら同じ成果になるんですか、ということだ。でも、そんな実験はできない。それだけの努力ができること自体が天才なのだ、という言い方もあるし……

そしてまた、環境が大事だというのは当然ではあるんだが、いま遺伝が注目される原因の一つとして、世界の総中流化により環境面での差が必ずしも大きくなくなってきた、というのがある。昔なら、小学校しかいかずにあとはずっと親の手伝いで農作業という人と、高校くらいまで行って親のおかげで家に本がたくさんあって、という人とがいたわけで、そのくらい差があれば遺伝の差なんて圧倒的に無視できたかもしれない。でも、私立と公立くらいの環境差では? 環境がちがうと言うほどのものではないかもしれない。もしまったく同じ育て方をした場合でも、遺伝はまったく効いてこないのか? もちろん「まったく同じ育て方」というのができない以上、これまた意味ある疑問なのか、ということは言える。が、それでもやはり疑問には感じられる。さらに、環境が重要だというのは、ぼくは下手をすると階級固定化の口実になりかねないと思う。才能というものがあれば、貧しい家庭だけれど才能のある子をひきたてる、という話はしやすい。でもそうでなければ、そうした議論がしにくくなるかもしれない。そこらへん、考えてしまうところ。

が、ぼくが本書を読んでまずいやだなー、と思ったのは、冒頭あたりに出てくる、あの悪名高い『ベルカーブ』のバッシング。この人も、明らかに『ベルカーブ』を読んでいない。ベルカーブは、黒人の成績が悪いのはすべて遺伝のせいだと主張する本だと思って、好き勝手な悪口を書き、遺伝決定論の権化のように言いつのっている。

でもベルカーブって、ぜんぜんそんな本じゃないんだよね。二十数章のうち、ほんの一、二章ほどで、「遺伝も関係してるかもね」と言ってるだけで、環境その他の重要性を他の章ではたっぷり論じている本なのだ。長いけれど、きちんと要約もあって、そこを読むだけでもベルカーブが遺伝絶対論だなんてのがデタラメなのはすぐわかるのに。

ぼくはここの部分を読んで、この著者のライターとしての誠意を疑ってしまう。グールドがやった、イデオロギー的な歪曲にこの人も安易に荷担している。その他の部分も、バイアスがあるんじゃないかと疑ってしまうのは人情だと思う。



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