近森他編『無印都市の社会学』:社会学の「フィールドワーク」って、小学生の観察日記ですか。

コンビニとかショッピングモールとか家電量販店、パチンコ屋、ファッションブランド店を社会学的にフィールドワークしました、という本。でも、その「フィールドワーク」の大半が、「行ってみてなんとなく感じました」というだけなのね。

たとえばパチンコ屋にいったら、「周囲のプレーヤーや台をまじまじと見つめることは『パチンコ店のマナーにおいては重大なタブーである』」そうな(p.116)。ふーん、これってどうやって確認したの? アンケート? トラブルの記録でもあるのか?

何もない。なんとなく著者がそう思うということらしい。本屋でも人が見ている本を後ろからじーっと見たり、公衆便所でも人がションベンしてるところを後ろから見るとあまりいい顔をされない。はっきり言って、他人のやっていることをまじまじと見つめることが普通のこととされる場面ってほとんどないんじゃないの? パチンコ屋の「マナー」というのは何か別の特殊なものなのか? それも検討されない。

またパチンコは、老若男女だれにでもできるし、いつでもできるから敷居が低い。よって「平等」と「自由」に担保された娯楽だというんだが、そういうものなら他にもありそうだ。その中でパチンコの特殊性は? また、店舗の中でトラブルがあると、すぐに警察をよばずなるべく自分で解決しようとするから、パチンコ店には自治があるというんだが、たいがいの店舗はクレーマーですぐに警察を呼んだりしない。そしてパチンコ業界と警察とのつながりもそれなりにあるわけだし、ことさらキワだった自治空間と言えるの?

その他フランフランについての話も、おしゃれでかわいいという印象がついたらあとはそれを突き詰めずその印象自体が一人歩きしていることで成立するというんだが、ブランドってたいがいそういうもんでしょ。そしてそこらへんの話もすべて、確認したわけではない。なんか書いた人がそう思うだけ。

そして何か知らないことを教えてくれるわけでもないんだよね。あるいは「こんな変な見方があるのか」という、ロラン・バルト『記号の帝国』とかプロレス論とかのおもしろさがあるわけでもない。上に述べたように、たいがいは「そうかなあ……」というだけの、かなり著者たちのおもしろくもないひとりよがりに終始している。

落語の話でも、落語は不親切で十分な満足を与えない(だがそこがいい)という主張がされている。ふむ、そうなのかもね。でもそれは、落語視聴者をちゃんと調べたの? いいや。「若手だからうまくないというのでもなく、ベテランでもうまくない落語家はいる」とのこと。へーえ、そうなんだ。ぼくは落語はそんなにきかないけれど、でもまあ全体としてベテランはそれなりにこなれていてうまいように思う。だから何かこれは根拠があるのかと思えば、注にいわく「もちろんうまい/うまくないというのは主観的なものである」(p.265)だと。

また落語は休演があったり演目がわからなかったりすることで、「『100%の満足は与えません』という意志を感じる」(p.263) だって。いや、だから勝手にそんなこと感じてないで、そういう意志があるのかどうか、またはそういう効果があるのかどうか、上演側とその視聴者とに一応きいてみたほうがいいんじゃない? でももちろん、社会学者様はそんなことをわざわざするつもりはないようで。社会学者様がなんとなくそう感じたら、それで一丁上がり。それが社会学のフィールドワークですか。お気楽なもんで。

小学生の夏休み日記なら、花丸もらえるだろう。雑文書きのエッセイでも、まあまあこんなもんで原稿料取るくらいはいいんじゃない? けれど、これがフィールドワークでござい、社会学という学問でござい、と言われると呆れる。

で、救われないことに、この本はそれについての弁明まであらかじめ用意してある。○○しただけではだめで、ちゃんと裏付けとか深みとかがいるというんだけど(pp.33-35)、本書の駄文はどれもそれがまったくないわー。○○しただけ。ホント、何をすべきかについてえらそうなお説教が「都市フィールドワークの方法と実践」というところに書いてあるんだけど、ここに書いてあることを、本書のどれ一つとしてやってないのね。この本の論考が「フィールドワークの模範演技」(p.34)? リハーサルにもなってないわい。だめなお手本そろえてどうすんの? 買って損したわ。



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