だれかの設定に基づくアニメの話だけで、一般性ある「自己/自我」の話はできない。

 押井守のSFアニメをもとに、自己とか自分とかいう概念のふしぎさと奥深さみたいなものとの関わりを表現しようとした本だが、成功していない。

 自己というテーマはおもしろいし、それを考えるうえで、アンドロイドや人形――押井守が好きなテーマ――に対する人間の態度が重要、というのは事実。でもそれぞれのレベルで何を語らせるかが重要。小説やアニメの登場人物の行動、学者の単なる感想文、多少は説明に使えそうな仮説、実証的な裏付けのある理論、それらをきちんと分けないと、著者として何に何を説明させたいのかがさっぱりわからず混乱するばかり。

 ところが本書は、それらをすべていっしょくたにして、草薙素子のXXに自己のナントカ性が示されているのという話を延々と続ける。でも基本的に、アニメの登場人物が何をしようともそれは押井守がそういう設定にしたからではないの? 自己についての一般的な議論としてどこまで展開していいの? せいぜいが、押井守の持つ自己についての認識について議論できるだけでは? またフロイトが「不気味なもの」なる雑文で書いた単なる感想文をもとに、著者は「人間性の死こそが『不気味なもの』の背後にある真実だということが、ここにもはっきり確認できる」(p.172) と書くが、なんで? 単にフロイトがそう思ったってだけでしょうに。そうした不用意な一般化だらけで、「そういう考え方はあるだろうけど、一般化するにはあまりに材料不足ではないの?」と思うことしきり。

 ちなみに著者はp.198前後で、「スカイクロラ」が必ずしも評判よくないことについて、それは観客が自我とかいうテーマを理解できず馬鹿 and/or 取り組もうとせず怠慢(そして翻ってそれをやった自分はえらい)とでも言いたげな議論を展開する。でも一方で、押井が著者の喜ぶような自己云々といったテーマをうまく作品として消化し切れていなかったという面も大きいと思う。そもそもこのような本が一種の解説書として出ること自体が、その消化不足の反映ではないの?

 そしてこの手の自我や自己、意識その他のありようについては、すでに脳科学や進化生物学でいろんな成果が挙がっているし、著者が本書であれこれ言っているようなことも(いやそれより遙かに過激なことも)、かなりもっときちんと科学的な分析が進んでいる。その時代にあって、「アニメで自己について論じてみました」ということだけに意味を見いだすのは難しいでしょう。そのテーマがいかにうまく消化されていたか、が重要で、『マトリックス』みたいに、そういうのを知らなくてもそれなりに楽しめ、しかも深読みできる、というのが重要なんだと思うんだけど。

 そしてアニメ本体がそうであるなら、そこからさらに「アニメ見て自己について考えてみましたよ」なんてシロモノになんか価値があるのか? 「これがSFの持つ異化効果だ」云々というにしても、意識研究がまったく進んでいなかった半世紀前ならば、それはかなり重要な問題を提起できていたかもしれない。が、いまや他の本当の意識に関する各種の科学成果に比べ、どこまで大きな異化効果を持ち得るのか? それが他と比べてどのくらいの比較優位を持ち得るのか? そういう検討がまったくないと、SF応援団としても役立たず。「別の自己像へのしなやかな流転」がSFの魅力の核だというんだが、いや、それって(特に本書で言われてるのは)押井守のアニメだけの話で、SFって他にもあるんじゃないの、とか他の小説ってちがうんですか、とか疑問もいっぱい。ぼくは、ないこともないと思うが、むずかしい。そして本書はその水準に達していないと思う。別の人の放出したものをひきとってレビューの可能性を考えたけど、むりー。



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