松原「未像の大国」:問題意識が結局よくわからん。

未像の大国―日本の建築メディアにおける中国認識

未像の大国―日本の建築メディアにおける中国認識

日本の建築メディア、『建築雑誌』『日経アーキテクチャ』『新建築』での中国関連記事を見て、そこでの中国の扱われ方を分析しました、という論文を本にしたものなんだけど……ごめん、ぼくは「それがどうした?」という印象しか持てなかった。

本稿の問題意識は、日本における中国に関する物言いがあんまり正しくない、ということらしい。つまり「正しいのはAという見方なのに、実際に出回っているのはBという見方である」というのが認識としてあるみたい。著者は中国でも仕事をしているので、両方のことを皮膚感覚で知っているけれど、両者の相互理解のまずさに驚きやもどかしさを感じた、とのこと (p.384)。で、日本側の言説を分析しようと思ったそうな。

はい、なるほど。では、どういうことが言われていて(B)、それが実態(A)とはどうちがうのかを説明してくれるんですね?

 

でも、そうじゃないんだよ。雑誌記事を分析して、それがどんなタイプの物言いになってるかを見る、というだけ。

その分析もよくわからない。その記事が何に注目しているかで「技術」「社会」「場所」に分けるというんだが……

「中国は吸収だけでなく外国に影響も与える」というのは、人間によって構成された中国社会を主語にしているから「社会に注目」論題、「上海の本質とは、他国の文化を吸収しながら発展する国際性」というのは、上海という地理的な場所を主語にしているから「場所に注目」論題なんだって(p.200)。

でも、「上海の本質とは……」って、別にその地理条件の話をしているわけじゃなくて、そこの社会の話をしているわけでしょ? 「社会」にどうして分類できないの? 中国全体の話をせず、その中の個別地域の話をした、というのがポイントなの? でもその場合も、上海の技術の話もあれば上海の社会の話もあるんじゃないの?

ということで、ぼくはこの分類もよく理解できない。

 

そして『建築雑誌』の中国観は、当初は「技術」に注目していたものが、だんだん「社会」に移っていったという。本来なら建築という技術だけに注目すべきだったのが、日本人は中国を他者としてとらえきれてなくて「半他者」にしてるから、普遍的な技術だけでなく、固有性という色のついた「社会」や「場所」の話に移っていくんだって。

でもそれは、基本的には日本の建築業界の中国との関連で決まるだけの話じゃないの? 明治後期以降、植民都市を造っていた場合には中国にでかけた場合にも日本流で何かできたし、またその後は中国にでかけたりすることもなかったから、たまに出かけた学者さんたちが純粋)に技術的な話だけしてればよかった。でもその後は、現地に入り込んで現地の事情を尊重しつつ仕事をしなけりゃいけなかったから、中国人ってのはメンツを重んじるよ、とかインフォーマルなつきあいが重要だよ、といった社会的な話題に関心が高まった。そしてその後、入り込み方が強まると、中国の中でも上海と北京とはちがうね、ということで本書のいう「場所的」な記事に対する需要が増えている。それだけの話じゃないの?

そして、純粋透明な技術論ってあるの? 中国のある時代のお寺は軒が日本よりグリンッと反っているけれど、それを考えるには社会的な背景とか(見栄の張り合いとか)、あるいは地理的な条件とか(雨が少なくて深い軒が要らないとか)、いろいろ出てくるんじゃないの?

で、結局日本の中国観は、その「半他者」的なとらえかたのおかげで、人によってばらばらな小論点と、ワンパターンな紋切り型で安定した大論点に話が分かれるんだって。

でもそれってあらゆる話に言えるでしょう。それがアメリカだろうと欧州だろうと。おおらかでフランクなアメリカ人が云々とか、グローバリズムで世界を侵略するアメリカとか、自己責任でグランドキャニオンに柵がないアメリカとか(ある場所にはちゃんとあります)、みんな銃を持って撃ち合いしてるアメリカとか。定期的に顔を出すステレオタイプはあって、そこに各人の卑近な体験が並んであーだこーだ言うって、あらゆる言説ってそういうものじゃないの? この論調だとアメリカも半他者、ヨーロッパも半他者、アフリカも半他者、インドも南米も南極も半他者だと言えるけど、それって何も言ってないに等しい無意味な話ではないの? 将来、アルデバラン人やアルファケンタウリ人が見つかったって同じことになると思うな。

それが対中国固有の現象だと思うこと自体が、ぼくは著者自身がいかにそういう思考様式にとらわれているかという証拠だと思う。論文や本も含む言説というのは、しばしばその対象よりは書いた人のことを大きく物語る。本書もそういうところがあるんじゃないかな。


中で行われている、各種のテーマ分析とかはおもしろいものもある。でもまとめるときには、そのテーマそのものは無視されて、いくつかのテーマが繰り返し反復されている、というところにだけ注目されてしまう。上に書いたような理由で、ぼくはその反復自体はそんなにおもしろい現象ではないと思うのだ。その個別テーマと、なぜそれがその時代に出てきたのか、というほうがずっと注目すべきことだと思う。さらには、その主張は本当に実態とあっているのか? 「中国では建物のメンテナンスができない」という主題があるそうなんだが(p.297)、それって適切といえるの? 中国側の状況だって一定じゃない。何かある固定された対象があって、それについての物言いをだけが変わるという状況じゃないよね? 言説がぶれるのは、単に日本人側の勝手な認識がぶれるせいなのか、中国の状況自体もぶれているのか? 本当におもしろい、注目すべきはそこんところだと思うのだ。でも本書はその部分を捨象しちゃうんだよね。もったいない。

この論文の構成を指導したのは、清家剛なんだって。おい、清家ってば、構成だけじゃなくて中身についても指導してやれよー、とは思う。そして最終的には、ぼくはこうした分析は、もっとステレオタイプや卑近な印象論から離れた意味ある言説はどうすれば実現できるのか、という話につながらなければ意味はないと思うのだ。でも結論は「中国は日本にとって『未像の大国』とも言うべき存在だ。その認識像は一つに結ばれることはなく、これからも我々の隣に未像のままあり続ける」(p.301)ということなんだって。つまり、このままずっとステレオタイプと卑近な印象論が続くってことですか。それ、非生産的じゃない? 認識像が一つに結ばれなくても、もう少しピントをあわせる方法とかないの?

これはかつて、今和次郎研究の本の書評でも書いた、研究の基本的な問題意識の弱さやそこからの提言なり結論づけなりの弱さともつながる話ではある。本書は、答えたい問題は明確で手法もあるんだけれど、その問題に答えることがなぜ重要なのか、ということが、当初の日本メディアにおける中国観の問題にうまく答えていなくて、とてもつらいと思う。せっかくの力作なのに、もったいないな。


ちなみに、ぼくの先生の一人でもある故山田学の博士論文だか卒論だかも、こういう言説分析だったとか。それについても、こんなの工学部の研究とは認められないという意見もかなりあったそうな。ぼくは山田先生のやりたかったこともわかる一方で、そんなのダメだという見方もすごくわかる。そしてどっちか選べと言われたら……ごめんなさいと言いつつ、そんなのダメだというほうに傾いてしまう。有用性が必須とはいわない。でもいつか有用性につながるかもしれないという期待くらいはいると思うんだ。中国との関係は重要だから中国に関する言説を調べました、ではだめで、調べたらその重要な対中関係はどう改善される可能性があるんですか、というところまで言わないと。そんな考え方は狭いという意見もわかる。わかるんだけど、同意はできないのだ。



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