- 作者: 青木昌彦,滝沢弘和,谷口和弘
- 出版社/メーカー: NTT出版
- 発売日: 2003/10
- メディア: 単行本
- 購入: 4人 クリック: 11回
- この商品を含むブログ (20件) を見る
1. はじめに
先日、安田洋祐フェイスブック投稿で、青木昌彦講演会があるというのを知って、新年度で仕事に余裕があるのをいいことにでかけてまいりましたよ。ソーシャルネットワークも役にたつもんです。
タイトルは以下の通り:
中国の発展はこれから持続するだろうか? それは中国に独特な制度プロセスがこれからどう進化するかによる、と歴史と理論が語る。
(2013/4/8 @ GRIPS)
なかなかタイムリーですばらしい。中国の成長鈍化は前から言われているし、一人っ子政策による急激な高齢化、ひどい公害、国有企業のろくでもない状況など、成長を鈍らせる要因はいろいろある。鈍化すれば、日本を含む世界経済への影響も大きいはず。それを制度的な対応で克服する道がある、というような話がきけるかな、と来場者の多くは思ったんじゃないだろうか。ぼくはそうだった。
そしてその希望はかなえられたか。うん……まあまあ。そしてそれとは別に、昔から思っていた「制度」というものについての疑問が少しはっきりしたように思う。疑問が解消された、ということではない。漠然と疑問に思っていたことが、さらに明確になった、ということ。その意味で、とても有意義ではあったと思う。
2. 講演の基本的なテーゼ
青木の主張は非常に明解で、以下の通り。
- 農業人口比が減ると、一人あたり GDP が増えて豊かになる(日本、韓国、これまでの中国の発展を見ると、見事にそうなっている!)
- よって、中国が今後も成長路線を続けられるかどうかは、農業人口を減らせるかどうか次第。
- これは農業&土地がらみの制度に左右される
では、制度はどういうふうに決まるのか? 青木は、一つの考え方としてアセモグル&ロビンソン『Why Nations Fail』の主張を紹介する。アセモグルたちは、制度というのはなかなか変わらないし、なんか恣意的に選ばれるもので、変えようと思って変わるもんじゃねーんだよ、と主張しているそうな。(あれ、アセモグルのこの本ってまだ邦訳なかったんだっけ??!! <-- もうしばらくすると朗報があるかもしれないそうな。刮目して待て!)
Why Nations Fail: The Origins of Power, Prosperity, and Poverty
- 作者: Daron Acemoglu,James Robinson
- 出版社/メーカー: Crown Business
- 発売日: 2012/03/20
- メディア: ハードカバー
- 購入: 13人 クリック: 175回
- この商品を含むブログ (1件) を見る
それに対して青木は、そうではない、という。制度は社会経済環境と共進化するものなのだ、と。つまり、制度は経済環境にあわせて、経済合理性にもとづいて発達変化するという立場。つまりは新制度経済学の一部だとぼくは理解している。
そしてそれを中国(の土地と農業)の文脈で示すべく、青木は清朝からの中国の経済制度の変遷をなぞる。そこには、次の三つのレイヤーがあって、相互に協力、競合している:
で、中国の制度というのは、中間層の勢力増強から生じる連邦制/地方分権と、王朝への中央集権的な土地集中との両極をいったり来たりするのだそうな。それぞれの段階における変化は、そのときの社会経済条件から生じる。
- 清朝初期:国家の下の中央集権
- 血縁などを通じた中間層による土地の集約と実質支配の展開
- 太平天国の乱鎮圧(これは地域中間層の民兵がやった)から清朝末期の軍閥による中間層/連邦制
- 共産中国革命による土地の中央集中化
- 鄧小平開放政策による土地の再分散化と中間層(国有企業など)の復活
では今後はどうなるか? いま中国の財務相となった楼継偉が掲げる6つの改革があるそうな。年金、税制、戸口(戸籍みたいな制度で人口移動を制限)、公共サービス、人民元、中央銀行。で、これを政治的にやる気をもって進められるかどうかで、中国の発展が今後続くかは決まる。おしまい。
3. 山形の解釈
さて……これで終わってしまったので、ぼくはいささか拍子抜けした。特に時間の都合もあったのか、この最後の 6 つの改革をやるとどんな具合中国の発展が今後継続するのか、という点については、あまりきちんと説明してくれなかったので、結局中国の発展が続くかどうかについて、よくわからなかったからだ。それを論じた論文集は紹介してくれたので、それを読めばいんだろうけど……
The Chinese Economy: A New Transition (International Economic Association Series)
- 作者: M. Aoki,W. Jinglian,Jinglian Wu
- 出版社/メーカー: Palgrave Macmillan
- 発売日: 2012/10/19
- メディア: ペーパーバック
- この商品を含むブログを見る
しかしぼくなりに解釈すると、この話の流れから考えて、基本は成長には農業人口を減らさなきゃいけないんだから、制度改革を通じていまの人口移動の制限を減らし、都市部での工業・サービス労働に加わりやすくしないといけませんよ、ということなんだと思う。6つの改革、特に戸口改革はそれを大きく後押しするはず、ということ。
これで理屈はある程度は納得できる。だが……工業人口確保するために農村からの移住を容易にしろというだけなら、この途中にある清朝の話とか共産革命とかいらないのでは? 制度と社会経済環境の共進化、という話があまり仕事をしていないのでは? そして強引ながら関係があることを認めたにしても、これまたピンと来ないことが一つ。
共産革命とか開放政策とか、かなりトップダウンで、親分の一存で決まったことですよね。しかもかなりでかい話で政策をガラガラ変えたものだ。それに対して、だんだん中間層が強くなったとか、あるいは最後の戸口制度を変えましょうというのは、なりゆきや、ちょっとした小手先の(いやそれは言い過ぎで、かなりでかい話ではあるけど)法制度改正程度。なんだかずいぶんレベルのちがうものがいっしょくたになっているように思えるんだけど……
4. 質問その1:共産革命とか鄧小平とか、もっと外生的では?
というわけで、ぼくの第一の質問は、共産主義革命や鄧小平*1の開放政策はトップダウンで実行された変化であって、外生的なものであり、経済条件への対応として成立した制度変化とはいえないんじゃないか、というものだった。
青木の答は、いや共産主義革命も鄧小平も、経済環境の要請を受けたものだ、というもの。上の年表で見ても、土地が分散し、散在しかけていたのを、共産中国が中央集権にしたのだし、その体制がたちゆかなくなってきたからこそ、鄧小平は開放政策を進めた。よって、これは経済的な条件変化がもたらした制度の進化/変化なのである、と。
さて……これに納得できるだろうか? ぼくは納得する部分と、納得しない部分とが半々。
納得する部分はある。どんな革命であれ蜂起であれ、社会的な矛盾と不合理な部分に対するリアクションだ。だから、経済環境と共進化する形で新しい制度が(革命により)できたといえないことはない。その点はわかる。
しかし、まずその一方でその現場にいた多くの人は、それが当然の経済合理的な変化だとは思わなかっただろう。
そして特に共産主義への移行は、ある特定部分に着目すれば不合理な部分への対応だったかもしれないけれど、全体としてはむしろ経済合理性から大幅に後退したものだった。また、同じ毛沢東の時代においてすら当初は、地主から土地をぶんどって小作人に配ることで人気を博した。でもその後、人民公社による大規模な集産化をめざした。革命の中でもほとんど180度に近い変化があったと思う。こうした変化を経済合理性や経済環境の要請と見ることはむずかしいんじゃないだろうか。
これは、アセモグル&ロビンソン的な立場だともいえる。かれらも、これらのものを当然の変化とは思わないだろう。制度の不合理な部分はたくさんある。でもそのうち、どれをどういう形で変えるかは、かなり恣意的にしか決まらない。不合理な部分がダラダラいつまでも残る場合はたくさんある。それを当然の変化で経済と制度の共進化の結果です、と主張すべきだろうか? むしろ偶然と恣意性の産物だと言ったほうが適切では?(これは時間軸の問題もあるんだろう。長期的には……)
5. 質問2:制度の共進化論は、経済発展決定論に陥るのでは?
さらに、もし制度が経済条件的な不合理性を受けて変わるんなら、長期的に見れば、最も経済合理性の高いところに向かうように制度も変わるということになりそうだ――それはまあ納得のいく理屈ではある一方で……
それって、経済発展決定論じゃないんだろうか。これが第二の質問。
そしてそれは、悪質なレッセフェールの温床になりかねない議論じゃないだろうか。この議論は、最終的に向かうべき先が「経済合理性」というものによって決まっていて、あらゆる仕組みは長期的にはそこに向かう、という話だ。でもケインズも言う通り「In the long run, we are all dead.」経済発展は経路依存で制度によって決まるけれど、その制度は経済条件によって決まり、結局似たようなところに収斂する、という議論になりかねないのでは? 途上国援助では、制度を変えないと発展しない、とよく言う。でも青木説を採用するなら、放っておけばいずれ制度のほうも経済条件の要請で勝手に変わり、勝手に経済発展してくれるよ、ということになる。ここまで言わなかったけれど、でもこれがぼくの問題意識だった。
これに対して青木は、決定論ではない、という。共産革命においても、それはあり得た様々な方向性の一つに過ぎない。共産主義革命になることが決まっていたわけではない。群雄割拠の連邦システムに落ち着く可能性だってあった。それはだれにもわからない、と。
これも、納得できる部分と納得できない部分がある。
決定論ではない、その時々でどんな方向に向かうかはわからん、というのは納得。青木の著書の一つは、「比較制度分析序説 経済システムの進化と多元性」だ。経済システムが一つに決まるものではなく、多元性があることは言われている。たぶん経済システムにだっていろんなローカルピークがあって、どこか一つに収斂しなくてはならない必然性はないのかもしれない。
比較制度分析序説 経済システムの進化と多元性 (講談社学術文庫)
- 作者: 青木昌彦
- 出版社/メーカー: 講談社
- 発売日: 2008/12/10
- メディア: 文庫
- 購入: 3人 クリック: 38回
- この商品を含むブログ (16件) を見る
でもその一方で、それでは制度と経済条件との共進化はあまり robust なもんじゃない、ということになるんじゃないか。軍閥のはびこった 20 世紀初頭の中国は、中央集中型に引き戻されてもよかったし、そうでなくてもよかったというなら、その新しい制度が経済環境の要請に応えて発達したものだとなぜいえるのか?
つまりこの経済環境と制度の共進化を本気で主張するなら、むしろ胸をはって「これは経済決定論で、初期条件さえ決まれば発展経路はぜーんぶ決まっちゃうのだ」と言えるべきじゃないのか? いやまあ、生物の進化論ですらそんなことはできないし、ゾウの異常な鼻やカモノハシを環境適応として予測できんのか、と言われればそれは無理。でも、後付ではなんかいえる必要があるんじゃないのか。
今回のお題であれば、後知恵ではあっても、いつかの時点で土地改革が起こり、農地が中央集権化に向かう必然性があったのだ、と言えないと、制度の共進化を主張できないんじゃないか? 「土地は集中管理に戻るしかなかった。それが経済環境の制度に対する要請であった。それが革命で起こるのか、それとも軍閥間の権力調整で起こるのかは予測できないけれど、でも農地管理の方向性はいずれにしても同じだった!」といえれば、おお制度と経済状況の共進化だ! といえる。でも農地管理が進む方向性すら明確にならないのであれば、その制度変化を左右したのはやっぱ経済条件ではなく他の要因だったということでは?
6. 聞けなかった質問 3:ルーツへの回帰?
さて、ぼくは質問 2 に対して、もう少し強い決定論的な答がくるかな、と期待していた。そうしたら尋ねたかったことがあったんだけど……
もう少しこの制度と経済環境の共進化という話を強く主張し、ある程度の決定論にまでつなげると、これは共産主義革命も歴史的必然だった、という話になるよね。革命の歴史的必然性――青木昌彦は、かつてのマルクス主義者のルーツにすこーし戻ろうとしてるのかな? まあこれはまったくの野次馬的な興味なんだけれど。でも、本人としてそういう気持ちは少しあるのかな、というのはいつか尋ねてみたいところ。
7. ちょっと思ったこと:制度のレベル分けってできないの?
あとこの講演で、前からこの制度の話をきくたびにもやもやしていた点があらためて浮かんできた。「制度」というのがそれではあまりに融通無碍に思えること。共産革命も制度変更、なりゆきのローカル地主発生も制度変更、戸口制度を変えるのも制度変更。ぼくの仕事の開発援助だと、委員会作るのも制度変更だし、宗教規範も制度だし、法律も慣習も規範もなんでもかでも制度だ。
制度もいろいろあって、レベル分けが必要だと思うんだよねー。それをなんとかする方法はないもんか。
今回の話は中国の制度変化だったけれど、でも中国は秦の始皇帝以来、基本的な制度はまったく変化していない、という議論だってあり得る。
実際、そういう議論はある。中国帝国の歴史は、だいたい北から遊牧民族が攻めてきて、かつての支配層はインドシナ方面に追いやられ、王朝が交代するけれどそのドジン遊牧民どもがだんだん漢=シナ化するにしたがい文化は華やかになるが生命力は衰え、次の遊牧民に追われ――という歴史の繰り返しだ。そしてそのたびに、基本的な官僚システムや文化体系はひきつがれる。つまりある意味で、制度はまったく変わらず数千年にわたり同じ。
つまり、この議論では中国の制度は同じだ。天に太陽が一つしかないように、地にも君主は一人しかいない。それが全権を握る絶対権力者だ。それ以下の水準では些末な変化もあるだろう。でもこの原理=制度は変わっていない。毛沢東下の共産中国ですら、例外ではない(かれらが赤の軍団だったのは――そしてそれに続いてやってきた資本主義がかつて黄色と呼ばれたのは――中国陰陽五行のサイクルに見事に一致している)。大室幹雄の名著『劇場都市』シリーズは、この発想(正確にいえば、この秩序を中心とした小邑複合への志向と、老子の桃源郷を嚆矢とする大同複合との相互作用)で中国の古代から中世にかけてを見事に描き出している。
- 作者: 大室幹雄
- 出版社/メーカー: 三省堂
- 発売日: 1981/06
- メディア: ?
- この商品を含むブログ (1件) を見る
さて、この水準の話をすべてにあてはめても不毛なばかりというのは当然。でもそれでは、どの話はどんな水準の制度談義をすべきか、というのを明確にするような、制度というもののレベル分類みたいなものって、あるんだろうか? ぼくが知らないだけかな。
8. おわりに
たぶん上に書いた疑問は意地悪な部分もある。また正直いって、短い講演で全部説明するわけにはいかないし、質疑応答で言えることも限られている。ただ、決してまったくの揚げ足取りではないと思う。上でぼくが疑問に思ったことは、たぶん他の人も大なり小なり考えると思うんだけど……それとも他のどっかで触れられていてすでに常識なのかな? ちょっと青木昌彦の本を読み直してみるべえ。そして、講演としてはいろいろ考えるところがあったという点で、すごく有益だったと思う。
あと……他の連中、もっとまともな質問してくれー! 実際に中国が改革を実施するだけの政治的意志があるかを青木昌彦に尋ねてもしょうがないじゃないかー! 特に中国政府公式見解スポークスねーちゃんは、場をわきまえるように!
そういえば、来週ハーバードビジネススクールの招きで同じ内容の講演があると言ってたな。だれか言って、賢いふりして上の疑問きいといてくれない?
付記
コメント欄で、上の点について少し解説があるので見ておくと吉かと。
山形浩生の「経済のトリセツ」 by 山形浩生 Hiroo Yamagata is licensed under a Creative Commons 表示 - 継承 3.0 非移植 License.