- 作者:岩田 健太郎
- 発売日: 2012/03/01
- メディア: 単行本
題名見て、おもしろそうだと思ったんだが、大はずれ。
著者はお医者さんで、最近の連中は主体性がない、と嘆いている。自分で治療法を決められず、先例にならうしか能がない、と、んでもって、なぜそんな嘆かわしいことになったかというと、効率第一主義が悪いんだって。主体性を持っていろいろ考え始めると、時間がかかって効率が悪くなるから。
で、ひいては、効率をはかるための評価がよくない、と言い出すんだが、この言い分がげんなり。
評価を否定するものではない。が、評価はあんなこともありこんな悪いこともありこんな弊害もありコストもかかり結果もはっきりせず完璧ではなくなじまない面もあり……でももちろん評価を否定するものではない。ただ評価にはこんな欠点もありあんなエピソードもありこんなこともあってうまくいかず、いやでももちろん評価を否定するわけではありませんよ、ただなんでも評価すればいいってもんじゃなくてうだうだうだうだ。
うるせえ。
ぼくはこれと似た物言いをする人をたくさん知っている。そういう人は、評価(またはその他何か)なんかやめろ、と本心は思ってるんだけど、自分でそう提案して責任取るのはいやなので、「否定してはいない」と逃げ道を用意しつつ、でもあれこれ否定的なこと言って、相手や他の人から「じゃあ評価やめましょう」と言ってくれるのを待ってるのだ。こういうのが上司とか客とかになると、ほんと最悪。あ、いやもちろんこの著者がそうだと言ってるわけではありませんよ。
でも、評価しないでかわりに何を? その道一筋の名医みたいなのがいると、生徒たちはその医者から鬼気迫る迫力を感じて本質を見抜くような態度を身につけるんだってさ。
「ぼくは言語化できない『場の雰囲気』を大切にする。教育にはビートやリズムが必要である。リズムが途切れ、ビートのない、雰囲気(アトモスフィア)が醸し出されない教育メソッド、息吹を感じさせない教育メソッドは何かが足りないのである」
へえ、ビートやリズム、ですかあ。すごいですねえ、ツェペリさん。黄金の息吹! 震えるぞビート! でもまったく意味不明の自己満足ですな。ジョジョの波紋訓練じゃないんだからさあ。そして場の雰囲気重視は、すぐに「空気読め」的付和雷同先例主義につながる。さてどうしましょう。
んでもって結局、主体性というのはある程度自由に任せつつ、独自に生えてくるのを涵養するしかない、という話だ。
さて、ぼくは著者のいうことがわからないわけじゃない。ぼくもこんな文を書いていることだし。さらに「Dr. HOUSE/ドクター・ハウス シーズン1 【DVD-SET】」が好きなので、効率やルールを無視した奇矯な医者や専門家の直感が、型にはまった医療を足蹴にして活躍するという話はかなり好きだ。いやぼく自身の本業の仕事も、かなりそんなところがある。でも、あれがいいドラマとして成立するのは、ハウスが最後には正しいからだ。ぼくの行動がある程度許されるのも、まあ売り上げや利益率がギリギリ足きりラインをクリアしているからだ。
孤高といえば聞こえはいい。が、孤高と独善の境はどこに? あほな民間療法の孤高の医師とか、自然分娩の世界にはたくさんいる。本書は日本の誇る大経済学者の森嶋通夫を(なぜか)ほめる。森嶋は党派制バリバリの日本学術界に決別した、と。でも、森嶋の晩年の著作はその党派への恨み言だらけ。日本はダメだ、日本の教育もダメだ、教育勅語を復活させろ(ホント! 岩波文化人がこんなこと言うなんて、とぼくは目をむきましたよ!)!! 決別できてないじゃん。単に派閥紛争に敗れて、未練たらたらだっただけでしょ。かれの学問的な業績は認めるが、でも多数派から決別した孤高の人とは思わない。が、著者はそういう区別ができないようだ。ついでに、なんか森嶋がアメリカにいかずイギリスに行ったのが、なにやら敢えて主流派に背を向けた孤高の貫徹だと思ってるそうなんだが……いやLSEも経済学ではものすごい主流派エスタブリッシュメントですので。実はここは、単に著者のアメリカコンプレックスがうっかり顔をのぞかせているだけなんだよね。
一方で本書は、外部の意見に耳を傾けろという。これは孤高とは相反することになりがちだ。さて、一線をどこに引く? 本書にその基準はない。だって、それは評価できないものなんだもん、しょうがないよねー……でいいんですか?
評価はいいけど問題もある。その通りだろう。だったら、何のための評価をどのくらいすべきか、というのを明確に言わなければ意味がない。好き勝手に時間をかける主体性は、医療の現場では文字通り致命的になりかねないのでは? マニュアルだけの医者やEBMは完璧ではないかもしれないけど、著者に言わせれば7割はそれでOKだという。で、主体性のある医師だと、その比率はどのくらいあがるんだろうか? なまじ思い込みの主体性を発揮したばかりに悪い治療が行われてしまう率はどのくらいなんだろうか?
そしてマニュアルだけでも7割いくなら、それはそれで評価されるべきという考え方もある。仮に主体的医師の成績が本当に高いとしても、全員に主体性教育するよりマニュアル医者とそうでない(ドクターハウス的な)医者との最適ミックスみたいなのを考えたほうがいいんじゃないの? ミスター・ミヤジも、「エブリシング、バランスね、だにえるさん!」とおっしゃっています。本書はそのバランスを提示できず、徒弟制にあこがれてみせる。でもそれが本当にいいのか? 評価しないからわかりませんよねー。ただ、徒弟制を守った江戸時代の医療はどこまで発達したか、あるいは最近のマニュアル評価型教育により医療の実際の成果がどこまで落ちたかをある程度は見せないと、個別エピソードの羅列だけでは説得力はないと思う。でも、本書はホントにエピソードと個人的な印象の羅列だけ。あまり調べ物せずに書き殴ったように思える。
最初からバカみたいにたくさん登場する内田樹の引用もなんとかならないかねえ。内田には少し恩義もあるので悪くは言いたくないが、かれも徒弟制が好きで(自分が先生になっちゃえば徒弟制はすばらしいからねえ)、思いつきのいい加減な本ばっか量産しつつ、変なオカルトを垂れ流している人だが、本書もその寸前だと思う。ちなみに、なぜこの著者は内田樹だけ「内田樹先生」と先生づけで書くの? なんか徒弟関係でもあるわけ?
で、最後はなでしこジャパンの活躍がすばらしい、あれこそ主体性の発露だ云々。書いてる当時は、なでしこジャパンは旬な話題だったんだろうが、すでに古びている。そしてそうした話題に後先考えずに飛びつく軽薄さが、本書自体の底の浅さをも示していると思う。書評しません。
追記
ご当人からコメントがついた。最初は「事実誤認が多い」と言っていたのだが、出てきたのはこれ。:
山形浩生という方から僕の「主体性は教えられるか」に対する書評(?)に対するしぶしぶのコメント
基本は、「ここで指摘したことにはほぼすべて『もちろんそうでないこともあるし他の考え方もあるしあーもあるが』という逃げは打ってあります」という話でしかない。さて、それを慎重な議論や謙虚さのあらわれだという人もある。岩田自身はこれぞ科学的な物言いだと思っているそうだ。が、それは科学ではない。上に述べた「評価を否定するわけではない」と同じで、ぼくはそれは結局、自分の主張について責任をとらない不誠実な態度だと考える。さらに「事実誤認」はほぼない。別のことも書いてある、くらいの話だ。したがってここで書いたことを改める必要はないと思う。
しかしこの岩田もそうだし、あと最近売り出し中の國分もそうだが、ぼくに何か言われて逃げを打とうとするときには、山形ってだれだか知らないふりをする。
そうやると何か達成できるのか、ぼくはちょっと不思議だ。たぶん「おまえなんか無名だ」と貶めたつもりんなんだろうね。でもそれで自分が言われたことが何か変わるわけじゃないのだ。
山形浩生の「経済のトリセツ」 by 山形浩生 Hiroo Yamagata is licensed under a Creative Commons 表示 - 継承 3.0 非移植 License.