とてもよいオウム本を書いた大田の処女作で、グノーシス主義にも(『ヴァリス』とか読んだので)興味あったので読んで見た。
オウム本と同じで、とてもすっきりしていて明快。「父親」というものの観念性を元に、その観念性を逆手にとって承認を通じた納得が生まれ、それが社会にも拡大されて社会が生じ、というクーランジュの発想(『古代都市』うちにあるのに読んでないや)から始まって、いろんなグノーシス文献を手際よくまとめて整理していくのは見事。最後は本当の神様をある種のフィクションとして認識しつつも、それを鏡として己を見直し、そして虚構性を敢えて受け入れることで社会性を構築するような発想なんだというところにそれがたどりつくのは、読む側にも「そうか!」という達成感があってすばらしい。そしてこれまでの論者の議論をロマン主義的と切って捨てるあたりも爽快。なんだが……
荒井献などの解釈が変だというのは、それはそれで結構だし、その批判もわかる(というのは、大田の説明の範囲内では筋が通っているという意味で、その批判が正しいというのではない。荒井献とか読んでないし)。でも、それでは大田のこの解釈というのは、どこまで「正しい」のか? ここで正しいというのは、大田こそグノーシスの真理に到達した覚者なのか、という意味ではない。この解釈のうち、どのくらいは世界のグノーシス研究において通説になっていて、どこまでが大田のオリジナルと言うべき部分なのか?
八割くらいは合意が取れてます、二割は大田の解釈です、というのであれば結構。でも、世界的にこんなことを言ってる人は他にだれもいなくて、1から10まで全部大田の独創です、となると、これはもはや学問ではなく、グノーシス教団大田派とでも言うべき代物になってしまいますわな。本書を読んでいてそこらへんがよくわからない。
むろん、それをちゃんとやろうとすると、引用まみれの論文になってしまい、だれも知らない学者の論文に対する反論があれこれ並んでしまうので、それは端折ったということなのかもしれないんだが、でも、それもわからないのだ。
なぜこれがことさら気になるかというと、かつて『原典 ユダの福音書』を読んだとき、ぼくがいちばん印象に残った部分がまるっきり出てこないからだ。そこでのグノーシスの教えは人間さっさと死んだ方がいいよ、ポアされちゃいなよ、というとんでもない代物になっていた。えーと、いま引っ張り出してきて見ると、
救済はこの世界を否定し、私たちをこの世界に縛る肉体を拒否することで得られるのだ。(中略)イエスを官憲に引き渡すことで、ユダはイエスが死すべき肉体から逃れ、永遠の家に帰ることを可能にしたのだ。(アーマン「よみがえった異端の書」、『原典 ユダの福音書』邦訳 p.123)
この世界は苦痛と悲惨と苦悩の汚水だめで、救済の望みはこの世を捨てることにあるのだ。一部の人間はそうするだろう。(同 pp.140-141)
まさにオウムのポア正当化の論理。ぼくはオウムがグノーシスと親和性を持っていたのは、こういう部分もあるからだと思っていたんだけれど、大田はこれについて説明しない、というか、こうした部分は一切出てこない。むしろ知識によって自分を再確認するような前向きな思想として一部は存在していたような話になる(その後、秘教的な方向に自閉していくとは書いてあるけれど)。
本論で見たように、グノーシス主義は、人が「そのために死ぬ」ような、あるいは人を「そのために死に至らしめる」ような超越的人格、フィクションの人格を、結果的に分析・解体する思想的傾向を有している (p.276)
さて、ぼくはここでかなりの解釈の差が見られるように思うが、どうなの? これはこのアーマンの解釈のまちがいなのか、それとも大田が単に自分の研究対象をオウムから遠ざけたいために都合の悪いところから(無意識にではあれ)目を背けているのか、それもよくわからない。ただそれを考えると、大田の描くグノーシスはあまりに理知的に思えてしまうのだ。
さらに……ここで展開されているのは、異様に抽象的なうえに入り組んだ思考体系だ。大田の解釈がどうあれ、少なくともこんなバカな屁理屈体系ができあがるためには、これだけを考えて過ごせる暇な人々の階級が必要で、そしてそれを支えるためのある程度の教団はあったはず。でもその教団の人々がみんなこんな小難しい屁理屈なんかを信じていたわけがない。すると、それはどんな形で当時は成立していたんだろうか? 本書ではそれはまったくわからない。ぼくは宗教を理解するには、その教団の組織みたいなものへの理解が必須だと思うんだけれど……まあこれは思想の分析なので、それはなくても仕方ないのかもしれない。でも、そうするとなおさら、大田の主張がどこまでこの分野の定説なのか――というのも、定説であれば、たぶんその教団のあり方との整合性なんかも考古学的に考えているはずだから――というのが気になるところ。
同じことで、上の教団のあり方とも関連するんだが、こうした思想が要請された社会的な背景というのは、やはりよくわからない。社会その他に「父」が失われてしまい、それを再生しようと試みの中でキリスト教とグノーシスが対比される。それはまあいい。で、キリスト教は、新しい形で三位一体の神様を作ってそれを新しいお父さんに仕立てた、というのはわかる。でもこのグノーシスの思想は、自分の信じていることの虚構性を信じつつそれを敢えて口にすることで自分自身を再び位置づけし社会性を……いや、このあまりに理知的な発想が人のどんな要請に応えていたんだろうか。そういうことを思いつくインテリが数人いてもいいかもしれない。でもそれがそれなりに存在感のある集団を形成できるほどの人気をはくせるのか?
フィリップ・K・ディックなんかがグノーシスとか言い始めるのは、なんでこの世の中は、全能のすばらしい愛に満ちた神様が作ったはずなのにこんなにろくでもないんだ、という切実な疑問が出発点にある。だから、この世を作ったのはえらい神様ではなく、偽物の(でも世界を作れるくらいにはえらい)神様なんだ、という考え方に需要が出るのもわかる。でもそれをもとに世の理不尽さをなんとか偏執狂的につじつまあわせようとすると、わけのわからん抽象的な屁理屈に陥るというのはわかる。そして上のオーマンの解説によるグノーシス思想というのもまさにそうしたもので、結局この世は二流のダメな世界なので、はやく死んだほうがいいよ、という教えになっている。ひどいけれど、思想はわかるし、実際にポアを試みた宗教団体もあったし、それがある種の選民思想と結びついて一部の人々に受け入れられるのも理解できる。でもこの大田の描くグノーシスの発想というのがだれのためのものなのか、あまりにそれ自体として閉じているようで、これが宗教として成り立ち得るというのが、ぼくには理解しにくい。
というわけで、おもしろいんだがどこまで真に受けていいのかはわからない。それを確認するためにこの(どう見てもつまらなくてしちめんどくさそうな)グノーシスの原典なんか読む気も無いし。ペイゲルスでも読んで見たほうがいいのかなあ。とはいえそこまで真面目に興味あるわけでもなし……
山形浩生の「経済のトリセツ」 by 山形浩生 Hiroo Yamagata is licensed under a Creative Commons 表示 - 継承 3.0 非移植 License.