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パワーズ『幸福の遺伝子』:同じ話の繰り返し。

幸福の遺伝子

幸福の遺伝子

パワーズ、『ガラテイア2.2』でもうかなり見放していたんだが、一冊で何がわかろうかいとも思うし、また一部のコメントによれば『ガラテイア2.2』は駄作という話もあったのでもう一冊読んでみました。

がっかり。ガラテイアとまったく同じ話で、人工知能か幸福の遺伝子かという小道具を変えただけなのね。アズペで昔ちょろっと短編を書いて売れたけれどもう書けなくなっている主人公(もちろん昔の恋愛をひきずってウジウジ)が、大学の作文講座の先生になって、するといつも明るいポジティブなアルジェリア系の女の子が生徒にいて、あまりにその子が常にポジティブすぎるので医者に診させようとする……という最初の話からして「なんで?」という感じ。
で、バイオベンチャーの科学者が、それは遺伝子のせいじゃないかといってその子の遺伝解析をして、幸福の遺伝子を見つけたと発表。これまた「???」一人だけの遺伝子を見て、そのうちどれが幸福を司るものかなんて、わかるわけないじゃん。文中では科学的に見せようとして、科学者が「幸福の遺伝子を見つけたんじゃなくて、その遺伝子群と幸福との相関を見つけた云々」というんだけど、あんたはサンプル数1の相関を見つけられるんですか! すごいですね。そもそも「幸福」ってなんですの? ネタにマジレス何とやらではあるんだけど。

で、それで世界が大騒ぎになるというんだが、これまた意味不明。アキバ48を見て陶酔して幸せになっている人もいて、それは何か遺伝子のせいかもしれないけど、それがどうかしましたか? ぼくから見れば、そういう幸福自体が不幸に思えるんだが。「シアアセなやつ」というのが悪口である状況もあるんだよねー。だから幸福って、身体状態ではそもそもないわけだ。いろんなレベルでいろんな幸福が当然ある。

ところが本書は、それを実に安易にすっとばす。そしてポジチブシンキングみたいなのが幸福ってことにして、あとはその一本槍。でもあのー幸福というのがハイになるだけの話ならクスリとか脳刺激とかいろいろやり方あるみたいですよ。んでもって、アスペ先生はその子を最初に診た精神科医と恋仲になって、ありきたりな幸せを追求してみせる一方、大騒ぎの中でその女の子がテレビのトークショーに出て、「遺伝子なんかどうでもよくて、みんな自分自身であることがすばらしいのよ」みたいな話をして(こういう腐ったお約束やめてほしいわー)、そしてアスペ作家の助けを借りて逃走する中で、その子が幸福そうに見えたのは強がりで、実は幸福の遺伝子なんてもの自体が虚構かも、と思わせて(ガラテイアで、人工知能が実は実在しないかもと臭わせたりしたのと同じね)、最後はなにやら遠い目をしておしまい。

ガラテイアと似たり寄ったりの主人公が、似たり寄ったりの悩みをかかえ、人工知能だか遺伝子だかをめぐる馬鹿で不勉強な文系読者しかだませない浅はかな考察を加えることでなにやら人間の本質に迫ったような顔をしつつ、実は上っ面の意匠を借りただけで何も本質的なことを考えず感傷に浸る道具でしかなく、結局本筋は平凡な人生がいいんです、みたいなお題目をかかげつつ、作家志望(=パワーズ自身)のナルシズムにひたってみせる――ひどいな。ブンガク業界って、こんなのを珍重しなきゃいけないほど人材不足なの?

最後の遠い目の仕方がガラテイア2.2よりかっこよかったので、小説としての評価は少し上。その一方で、テレビドキュメンタリーの司会者の話がやたらに出てくるのは、ほとんど貢献してなくて小説としてのまとまりが落ちている。全体として、『ガラテイア』より少しはよかった。でも少しだけで、ガラテイアがかなり低いから……『囚人のジレンマ』とかも、どうせうじうじしたライター講座かなんかの作家もどきが古い恋愛ひきずって、ちょうど経済学者かなんかに囚人のジレンマについて教わったところで、自分も囚人のジレンマじみた状況に陥ってうだうだ悩むけど、最後はその効用計算自体が本当に正しいのか怪しくなりつつ、でもその中で敢えて利己性を乗り越えて他人を信じてみるのが人間で、その信じた結果として失恋をふりはらって新しい恋愛と人生に向けて決死の跳躍してみせる話とかになりそう。もう少し工夫はあると思うけど、この通りだったら激怒しちまうと思うので読みませんわー。

いや『囚人のジレンマ』に限らずもう今後パワーズは読みません。こういうテーマならイーガンに任せておいて、あんたは出てこなくていいよ。かつて柳下毅一郎がプイグ『天使の恥部』を読んで、そのすばらしさに感嘆しつつ「文学でここまで出来てしまうなら、もう SF はいらないのだ」と哀愁に満ちた書評か感想文を書いていて、ぼくも本当にそう思ったし、ある時代の鬼っ子でしかなかった SF というものの終焉に涙を流したくなった。でもこのパワーズ読んで(それと最近のイーガンやバチガルビやチャン読んで)考え変わった。文学ダメダメじゃん。プイグがあまりに天才だったというだけじゃん。SF まだまだ出番あります。


なお、現実の幸福の遺伝子についてはこちらのエコノミスト記事をお読みください。パワーズもどうせ、こんな研究がネタもとでしょ? でも元ネタこの小説読むよりも、いろいろ考えさせられることがあります。

付記 (3/17):

円城塔の書評がある。ぼくとちがい、絶賛。さて、ぼくは円城の言うこともわかる。主人公が、他人について――そして自分について――勝手なお話を作ることに抵抗があって、というのは確かに本書では重要なポイントで、あのぼくから見て浮いているテレビ司会者の話も、もちろん他人についてどういう描き方をするか、という問題とのからみで出てくるという意味では、ポイントになる。が――

ぼくはその問題意識自体がつまらないものだと思う。人が何かを語るときに完全に真実を語れず、作られたストーリーに基づき、取捨選択したお話しか語れず、そして自分が語るときにも他人がそうやって取捨選択した準フィクションを、自分もまた準フィクションを作るようにしてしか語れない――本書は著者がいろいろな形でそれに苦しみ、でもこの小説自体がその克服でもある。その意味で、技巧はこらされている。

が、ぼくはそれが改めて悩んでみせるほどのことだとは思わない。そうでない形での語りなりなんて、そもそもあり得ないんだから。それがあるなら、悩む価値もあるだろう。でも結局それしかないなら――それで頑張るしかないでしょ。何をウジウジ言ってるの? そういう悩みは作家が自分の中で孤独に解決してくれればいいのであって、それを読まされてもぼくは興味深いと思わない。

ぼくの書く文はときどき、断言しているとか独断的とか言われて批判されることがある。でも別に、ぼくが何かを断言したところで、それが本当だということにはならない。断言してあるとそれ以外の考え方や見方がないように思われる、とかいう人もいるけど、それは読むやつが馬鹿なだけだ。そこに「まちがっているかもしれず、他の考え方もあるかもしれず、もちろん決してこれだけしかないと言うわけではなく……」と果てしなく付け加えるのが慎ましいとか上品だとか思っている人がいるけれど、ぼくはそれは、付け加えるまでもないことであり、単なる逃げ口上だと思う。ぼくにとっては、それはきわめて下品なことだし、読者の時間を無駄にして人類の発展を遅らせる行為だ。『幸福の遺伝子』で円城塔がほめている部分は、ぼくにとってはその言うまでもないことで、下品な逃げ口上でしかない。

円城塔が自分の小説で、そうした不確定性とたわむれるやりかたは、ぼくはすばらしいと思っている。かれは、そういうあいまいさをそのまま述べるほど愚かでも下品でもない。あいまいさを語るのではなく、あいまいであること自体が小説に化すような、ときに観念的すぎるけれども人間の限界そのものに少し触れるようなものが書ける。ぼくはその円城塔なら、パワーズのこの垂れ流しみたいなだらしない作品には失望どころか怒るんじゃないかと思っていたので、この書評はかなり意外。あと科学的な部分が正確だ、みたいな下りは……





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