寺尾『魔術的リアリズム』:ラテンアメリカ文学の流れの手際よい紹介。

20世紀ラテンアメリカ文学のとっても手際よい紹介。シュルレアリズムに連なる流れとして魔術的リアリズムを位置づけて、超現実主義のパリに行ったアストゥリアスカルペンティエール(とぼくの知らないもう一人)を通じて新しい書き方がだんだん醸成されてきて、という流れ。魔術的リアリズムというものの本質についてもきちんと考察され、それをもとに繰り出される作品評価も鋭い。

百年の孤独』は魔術的リアリズムの動力を組み尽くして無時間的永遠へと到達するのに対して『族長の秋』は、偽の魔術的リアリズムに強いられた無時間的停滞を真の魔術的動力によって打ち破るのである。(p.176)

ちなみにこの著者は、フエンテスの翻訳彼のこけおどし無内容小説をちゃんと論難できる人なので、鑑識眼と率直さはぼくは信用している。

それがうまく出ているのは、魔術的リアリズムの商業化を論じた後の章。イザベル・アジェンデ批判を非常に怜悧に行っている。単純な娯楽読み物だ、と。そして、それをちゃんと識別できずにいい加減な議論を行っている日本の文学研究者たちにもちくりと手厳しい。もちろん、娯楽読み物にはそれなりの意義があるので、それが悪いわけではないけれど、ガルシアマルケスと並べて論じられるようなものではない、という。おっしゃる通り。

その意味で、寺尾はラテンアメリカの最近の小説については、モヤとかをほめつつも、そんなに高くは評価していないようだ。否定もしていないけれど、もう魔術的リアリズムではなく、ジャーナリズムの派生としての小説になっている、と。文学は近代化の副産物だという村上龍説が正しいということなのかな。

というわけで、短いしきっちり視点もあって、よい本。単なる作品紹介羅列でしかない木村栄一の『ラテンアメリカ十大小説』よりずっといいし、勉強にもなる。他の本との兼ね合いでパスするけれど(それに『青い脂』で小説系はしばらくおあずけなもんで)、ラ米小説の系譜をきちんと把握したい人にはおすすめ。あと、カルペンティエールが己の土着性を強弁したいばかりに、出身地を詐称していたという話にはびっくり (p.231)。ジョサのあの本は読んでなかったから……



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川畑『脳は美をどう感じるか』:脳科学的に見たアート。

脳は美をどう感じるか―アートの脳科学 (ちくま新書)

脳は美をどう感じるか―アートの脳科学 (ちくま新書)

美術の見方を通じて脳の働きを見る本。布施英利が『電脳美学』なんかで少しこういうことを言いつつ、なまじ文芸的な素質があったもんで、なんかどこかで蟄居して変な方向にいってしまったのは残念だった。だからそれを新しい成果にもとづいてきちんとやってくれるのは大歓迎。

ぼくは前から、美術というのは基本的に脳の働きについての実験だと主張しているので、本書のアプローチはとても馴染む。とてもおもしろくさらさらっと読んだ。それだけに……ちょっと物足りない。美術の発達と脳の発達、イディオサヴァンみたいな話。うん、一通りある。ぼくとしては、アートと進化の話は知らないネタでおもしろかった。

でも、新書だから仕方ないとはいえ、ざっとした紹介にとどまっていると思う。最後も「これからもいろんなことがわかるだろう」程度で終わっているし。ジャクソン・ポロック竜安寺石庭にはフラクタル的な要素があるそうな。うん、じゃあフラクタル的な要素があればよい絵と言えるのか? フラクタルなら海岸線を見ていればよいのでは? そもそもそれが「アート」として鎮座していることに何の意義があるのか、つまり結局アートというのは何なのか――ピンカーが音楽について言うみたいに、単なる脳の情報処理発達の副作用なのか、それとももっと積極的な意味を持つのか――ぼくはこれだけのネタが出てきたら、少なくとも著者としての現時点での見方のようなものが知りたいなと思う。せっかく一般向けの概説書で、研究書みたいなゴリゴリの厳密さが要らないんだから、そういう野放図なところもほしいなあ。ということで、いずれもう少しふくらませてくれることを信じて今回はパス。でも、お手軽だし小ネタは満載。



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『夢と生きる』:自費出版本で、社長のたたき上げ一代記。

夢と生きる

夢と生きる

ビルメンテナンス会社の本だというので、一応建築建設系をカバーする人間としては目を通しましょうということで手にした本。呼んでみると、幻冬舎自費出版部門から出ている自費出版本ですねえ。あるビルメンテナンス会社の社長一代記で、焼け跡から腕一本で、ビルの管理、掃除、設備、補修、その他ビルメンテ業にかかわるすべてに自社のビジネスを広げ、総合ビルメンテナンス会社に仕立てました、という話。

ちなみにビルメンテはとても大事です。REITとかでの物件評価も、そのビルのメンテをどこがやっているかで大きく変わります。だって寿命60年のビルだって、メンテの手をぬけばすぐにガタガタで30年ももたなかったりするんだもん。60年稼いでくれるか30年保たないかで、収支は大きく変わってしまう。家を買うときも、管理費ケチってるところは気をつけたほうがいいよー。

それはさておき、すっごい革新的なことやった会社というよりは、地道にがんばってきましたという会社&社長さんで、読んで衝撃を受けたり目からうろこが落ちたりする人はいないだろうけれど、日経「わたしの履歴書」の下手なものよりはましかもしれないくらいにはおもしろい。あと、書いているライターの人が結構熱っぽい書きぶりで、ときどき無駄な力こぶの入れ方がほほえましい感じ。朝日新聞の候補本に入っていたのはなんかのまちがいだろうし、全国紙で大々的に紹介したりここで絶賛したりするような本ではとてもない。わざわざ買って読めというような本でもない。が、なんかの拍子に手に取ることがあれば、ささっと読んでも大損はしない。

(……とか書いて、なんか変な自費出版本が山ほど送りつけられるようになったらどうしよう。普通は読まないからね)



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レヴィ『ナバテア文明』:あのペトラ遺跡のナバテア文明について。ペトラだけじゃないのか。知らなかった。

ナバテア文明

ナバテア文明

ペトラ遺跡(インディジョーンズがショーン・コネリーと聖杯探しに行ったところ)を作ったナバテア文明についての解説書。ナバテア文明はペトラの他に、シブタとかいくつかでかい遺跡も残していて結構メジャーなんだって。だけれど、記録魔のユダヤ民族とはちがって文献記録があまりなく(かなり識字率は高くて羊飼いとかも落書きを残したりしているそうなんだが)、したがってその全貌がよくわからない。でも影響力はかなりあって、たとえば使徒パウロが例のダマスカスへの道中で改心したときのダマスカスはナバテア配下だったんだそうな。もともと多神教的な世界から、キリスト教を経てイスラムに支配され、やがてイスラムキリスト教のしめつけの厳しさから人が去るようになり、廃墟だけが残されたという。考古学的な資料から、こうした宗教観の変遷をあれこれ読み取るのは、各種遺跡の実態を見るのと並んで本書のおもしろいところ。

ぼくは遺跡や古代文明ものは好きなので、へえ、へえ、へーえ、と言いつつ楽しく読んだ。写真も豊富。ただ、個人的にはこの著者が、ナバテア文明に思い入れが強すぎて深読みしすぎているところがいささか閉口。たとえば

ナバテア人は生命の痕跡がわずかしかない外部世界に取り囲まれていた。視線を向けても反応しない生命の欠如した無機物の世界の日常的経験は超感覚的な存在を関知することへとかれらを導いた。ナバテア人の意識は人類と自然の生命の源泉となった領域、すなわち、生命力が存在し、彼らの感覚が目覚めさせられた実存的地平へ向けられた。

いやあ、そうだったのかもしれないけれど、そこまではわからないでしょう!

あと、ナバテア人の起源はイエメンで、それがレバノンあたりに移住してきたそうで、それを描いたのがソロモン王とシバの女王の遭遇だったというんだが、うーんちょっとすぐ納得する感じではないなあ。

訳者の解説は要領よいまとめになっている。別にナバテア文明の研究者ではないんだが個人的に入れ込んで、これも作品社に自分で持ち込んだ企画らしい。カラー写真だらけですごくコスト掛かっていて、3200円で元がとれるのかと老婆心ながら心配にはなる。古代文明ファンなら読んで損はない。



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フリン『36歳、名門料理学校に飛び込む!』:ちょっと変わったキャリア上の決断をした人の体験談。軽い読み物としては楽しい。レシピは面倒そうで……

36歳、名門料理学校に飛び込む!―リストラされた彼女の決断

36歳、名門料理学校に飛び込む!―リストラされた彼女の決断

リストラされた女性がふとしたきっかけでル・コルドン・ブルーに入り、いろんな体験をしていろんな人との出会いがありました、という本。そこに、いろいろ習った(のかな、創作かな)のレシピがはさまっている。ちょっと自分で作ろうとは思わないけど。

自分探しみたいな体験記としてはそこそこ。ものすごくおもしろい意外な事件があるわけではなく、ホントに日常生活。大プッシュする必要がある本ではないけれど、ちょっとした暇つぶしにはよいし、当然のことながら料理学校といってもホントにシェフ目指す真剣な人から腰掛け花嫁修業から自分探しからいろいろなんだ、という雰囲気はそれなりに伝わってくる。こういう学校に興味がある人は、感覚をつかむのに目を通してもいいんじゃないかな。



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田口『市民がつくった電力会社』:おもしろい。電力会社といっても、送配電会社だけど。

市民がつくった電力会社―ドイツ・シェーナウの草の根エネルギー革命

市民がつくった電力会社―ドイツ・シェーナウの草の根エネルギー革命

電力会社というから、最初は発電だと思ったんだよね。ディーゼル発電機でも入れたか、あるいは不安定な自然エネルギーでも入れたか、それをどうやって正当化しているのかなという意地悪な興味で手にとった。

でもここでの電力会社は発電は(まだ)やっていない。送電線(配電も込みみたい)を独占電力会社から買い取って、送配電事業をやっている。いまなら、電力自由化で電力会社にwheeling charge 払ってできる仕組みかもしれないけど、彼らがこの仕組みを始めた頃にはそんなことはできなかった。

ただ、電力会社というと、日本では垂直統合の発送配電込みで考えるので、それとはちがうのだ、ということを明示しておかないと、手に取った多くの人はだまされたように思うんじゃないのかなあ、と老婆心ながら思う。ぼくの印象だと、ほとんどの人は送電とか配電とかまったくわからず、線をつないであとは放っておけば勝手に電気がくるように思っている。だからその部分だけを持ってます、というので理解されるんだろうか、とは思う。

もともと反原発で始めたことだそうな。で、電力はノルウェー水力発電による電気を買っている。本書は、それが成り立つまでの結構長い闘いをこまごま描いている。記録としては非常におもしろい。何も知らない人々が集まって、付け焼き刃で勉強しつつ送電や配電のオペレーションをある程度やっているというのは大したもんだ。えーと、電験一種がいるのかな? いやそれじゃ足りないのか。

その一方で、こうした事例はここしかないとのこと。シェーナウの事例がそんなにすばらしいなら、他のところはなぜ同じことをしないのか? ぼくはそれが知りたいところ。上で述べたように、いまはそういう必要がないからなのかな? あと、結局これはでかい産業用途とかないからできている感じではある。興味深い事例なんだが、もっと調べないといけないし他の本との兼ね合いもあって、パス。でも、ささっと読めて悪くはない本。

(そういや今日のは二冊とも大月書店だな……)



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有象無象『ウォール街を占拠せよ』:少し時間がたった客観性皆無の、自画自賛「活動家」アジばかり。

なぜかうまくアマゾンの商品表示が出ないけど、ウォール街占拠本。しかも今頃出てきたということで、少し時間がたった段階での客観的なものの見方や反省、今後の展望とかについてある程度は包括的な視点が出ているのかと期待していた。

何もなし。

ぼくは『99%の反乱?ウォール街占拠運動のとらえ方?』というきわめて似た本を訳しているので、どうしても比較してしまう。そして、それ故のバイアスもあると思うので、なるべく本書についてはいい見方をしようと努力はしたんだが、無理! 中身は、『99%の反乱』とほとんどかわらず、頭に血の上った人が左翼「うんどー」ジャーゴンまみれにしてくれたせいで、かえってわかりにくくなっている。イベントやったとか、アーティストがきてアートパフォーマンスやりましたとか、ぼくはこうした運動において誇るようなことではないと思う。お祭りにすればするほど、一般人の(99%の!)普通の要求からは乖離するだけだし、ブラックパンサーのアンジェラ・デイビスを祭り上げたりして60年代過激左翼運動と結びつけようとするのは、ぼくはマイナスだと思っている。が、左翼の活動家は、ついに自分の春がきたとかんちがいしてはしゃぐばかり。

そして訳者は、ジャスミン動乱とギリシャやスペインの政府緊縮策反対デモと、このウォール街占拠が同じ流れの運動だと強弁するんだけど……明らかにちがうから。街頭デモすればなんでも仲間という安易な見方で何が達成できるの?

解説者の高祖という人物も(これ、公園で本読むだけの、破壊しないけど破壊する『革命』とかいうくだらない本の訳者だったね)、きちんと解説できずに思い込みでアジるだけ。解説になってない。このデモの基本にある不満は非常に重要なものだし、それに光を当てることはきわめて重要。でも、解説にはそれはできておらず、なんか話を大きくしようとして、あれもこれもとつなげるばかりで。結局わけがわからなくなっている。

一年前にこれが出たなら、まだ意味はあっただろう。でもいまになって? ウォール街占拠は一周年記念でこないだお祭りをやっていたが「同窓会みたいだった」とか。本書みたいに、運動がいまだに続いているとか終わっていないとか強弁するよりも、もう少し冷静に現状を伝えて、この運動の結果としてどんなことが出ているのかを説明してほしかったよ。活動家はよくかんちがいしているけど、重要なのは、デモとか抗議運動が続くことじゃない。それにより何が実現したかということなんだけど、その評価がない本を今読む意味はないと思う。しかも、2200円??!! 高いよ。

コメント:訳者の「事実にもとづく反論」

訳者がツイッターでこの記述に文句をつけているとのコメントをいただいた。こんな具合。

山形浩生氏の「書評」に対して、全て事実をもとに反論しました。氏の偏見と悪意に満ちた誤読が広まらないように、一連の反論ツイートの拡散をお願い申し上げます。

さて、本当に事実をもとに反論しているだろうか? ぼくは訳者の言い分はまったく妥当でないと思う。

【RT希望】「客観性皆無の」とありますが、この本はドキュメントでありノンフィクションです。基本的には、何が起こったかが淡々と書かれています。ウォール街占拠の前段階から強制排除後まで、そしてOWS内部の作業部会を扱ったものです。

たとえばこんなのを見てみよう。

「より最近では、POCのめんばーたちが、一一月初旬のスポークス・カウンシルで、かれらが特権、無視、レイシズムと認識したものに知して互いに立ち向かったときに、軽視され、沈黙を強いられていると感じたことがあった。こうした緊張と困難は、より大きな世界に存在する権力構造と抑圧の多層性を反映したものだった。OWSが異なる世界を築き上げようとする一方で、スポークス・カウンシルは、より公正で公平な世界を目指すための運動だった。(p.148)

基本的に何が起こったか淡々と記述しているわけではないのがわかると思う。やったことに対して常にこうしてイデオロギー的な着色をしつつ記述されているのは明白。ぼくはこれは客観的な記述だとは思わない。ある立場を強く打ち出した、当事者としての主観的な記述だと思う。したがって、訳者のツイートは反論になっていない。

【RT希望】『ウォール街を占拠せよ/はじまりの物語』に、そのような場面はほとんどありません。「イベントやったとか、アーティストがきてアートパフォーマンスやりましたとか、ぼくはこうした運動において誇るようなことではないと思う」。

でも、そうした場面はある。それどころか「占拠運動と芸術」(pp.181-192) という一章丸ごと割いてこの話をしているじゃないか!! したがって、これは反論になっていないどころか、訳者は自分の訳してる本を読んでるのか、という疑問すら抱かせる。ちなみにここは本そのものよりは、この手の動き自体についての苦言ではある。10ページに載っている公園の平面図で、アートに割かれている部分が全体の1/5-1/4くらいに達していることに注目。

「ボキュパイ」の章にアンジェラ・デイヴィスのスピーチが引用。そこに訳註をつけました。それをこのようにねじ曲げています。「ブラックパンサーのアンジェラ・デイビスを祭り上げたりして60年代過激左翼運動と結びつけようとするのは」

ねじまげてはいない。スピーチを引用してデイヴィスのご威光を利用しようとしているのは明らか。それについている訳注というのは、単にデイヴィスの簡単な紹介をしているだけで、こうした60年代左翼活動との関わりについてなんら注意を喚起するものではない。したがって反論になっていない。

【RT希望】「頭に血の上った人が左翼「うんどー」ジャーゴンまみれにしてくれたせい」。これまた意味が全くわからない。私は山形浩生氏よりもはるかに年下なので、そのそも左翼ジャーゴンがどういったものなのかもわからない。

わからないんなら反論とはいえませんね。ちなみにわかる人は、上で引用したPOCがどうしたとかいう文で味わってください。

【RT希望】ウォール街占拠の前段階から強制排除後まで、そしてOWS内部の作業部会を扱ったものなのですが、山形浩生氏の本とは全く異なります。なのに「きわめて似た本を訳しているので」とは一体何を意味する言葉でしょうか?

そんなこと質問されましても。世間的には、どちらもウォール街占拠について当事者が書いた実録本でしかない。ジャーナリストが書いたものと、実際のオルグ屋たちが書いたもの、という差はあるけれど、それは一般的には大きなサトは見なされない。だから「きわめて似た本」なんですよ。

【RT希望】『ウォール街を占拠せよ/はじまりの物語』の序文(原文の翻訳)に「私たちがこの本を出版しようとしている二〇一一年一二月はじめ」とあり、原著が出版されたのは今年2/9。それから翻訳に半年はかかるはずで、「いまごろ」ではない。


それはそちらの能力の問題。本には話題性があり、旬というものがあるのだ。ウォール街占拠が話題になっていたのは、昨年半ばくらいだ。原著が今年の頭に出たのは、話題性としてギリギリ。それをいま邦訳として出すのは、出版としてはタイミングを逸している。翻訳に半年もかけるようではだめ。この程度なら一ヶ月で訳して夏前に出さなくては。それができなかったのは、訳者として原著に対する責任を果たせていないので恥じ入るべきだろう。立派に「いまごろ」。


というわけで、いずれの反論もまったく妥当性はないと思う。RTしてくださいね。



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