フエンテス『誕生日』:シャーリー・マクレーンに捧げられている時点で警戒するが、中身はバロウズ風ナボコフ。

すでに見切ったフエンテス。この作品も、難解と言われて、難解なのに/だから傑作とも言われているとか。

しかし実際にはかなり簡単な話で、ある家で起きた殺人だか一家心中だかのような事件があって、その死に至るまでの短い時間の中に、ありとあらゆる時空間のできごとが幾重にも折り重ねられているという小説だ。そしてその記憶がすべて解放される「誕生日」が死の瞬間でもあるというわけ。

幾重にも重なる出来事と記憶という意味で、これはナボーコフの小説と非常に近い書かれかたをしている。同時にその書き方は、ナボコフほどは構築的ではなく、断片羅列という意味ではバロウズっぽい。ぼくはかつて、『たかがバロウズ本』で、ナボコフバロウズが似ているという話を書き、ナボコフバロウズ風に書いて似たような効果が出せることを示したけれど、このフエンテスの小説はその逆をやっている。バロウズナボコフ風に書いているとでも言おうか。そういう小説。

その中には、愛あり現代文明あり古代のわからない妄想あり苦しみあり、いろいろ詰め込まれている。それは必ずしも脈絡があるわけではないが、ないわけでもない、というもの。そのつながりを細かく探っていくのも、まあ一興かもしれないが、たぶんあまり意味はなく、いろんなものが折り重なってくるのを味わって楽しめるなら楽しめるし、ストーリーとか意味を求めるなら、つらい。『アウラ』と並ぶ傑作と言われているそうだが、ぼくは『アウラ』のほうが多層化されていていいと思うなあ。

そして本書をいやーなものにしているのは、シャーリー・マクレーンに捧げられている、ということから訳者がなにやらニューエージを引っ張り込もうとするところ。こうした円環の時間や多層的、神話的な時間というのは、オクタビオ・パスなんかもよく言う話で、それをあれこれ引用するのは結構なんだが、シャーリー・マクレーンのインチキ本を本当に信じてそれが霊的現象が語られるきっかけになってえらかったとかほめたり、果てはこんなことを言い出す。

神秘主義ニューエイジは学問でないと眉をひそめる向きもあるだろうが、意外や意外、難解で意味不明な学術書と比べて、何倍もわかりやすかった。

そりゃそうだ。ニューエージはバカがわかったつもりになれるように書かれているんだから。問題はそのわかったことに何か中身はあるのか、ということなんだけど。で、訳者はそういうくだらんニューエイジ本を本書の記述の裏付けにしようとする。別にこの本はある神話的なイメージのためにそうした時間概念を使っているのであって、それを裏付ける必要なんかないんだけどね。そしてそんなインチキな裏付けを求めてしまうこと自体が、訳者か、フエンテスか、あるいはその両方の浅はかさと自信のなさを反映しているように思う。小説としての世界を持ち得ていたのに、それを卑しいニューエージの水準にまでこの訳者解説がひきずりおろしてしまっているんだ。たぶん朝日新聞の書評候補にもあがってくるだろうけど、絶対とりあげません。

繰り返し言ってるけど、そろそろ自分、「テラノストラ」読もうぜー。あとフエンテスはひょっとしたら変な高踏じみたおブンガクに走るより、通俗っぽいらしい Hydra Head とかのほうがいいんじゃないかという気もする。この二冊でフエンテスはもうやめ。

追記

「いまは直線的な時間をみんな生きていて、昔はみんな円環的な過去と現在が混然一体になった時間を生きていた」という妄言は、こういう言い方だとなんかかっこいい。でも実際には全然ちがう。フランク「時間と宇宙のすべて」にも漠然とは書いてあったけれど、昔は昨日と今日はほとんど同じだったのだ。円環的、というのは、今日も明日も、今年も来年も同じです、ということにすぎない。

今日も明日も、同じように喰って働いて寝るだけ。今年も来年もやることは同じ。自分のやってることは親のやってきたことと寸分同じ。たぶんお隣さんのやっていることとも大差ない。その意味で、自分と他人の区別もあまりない。だからプライバシーなんてものもあまりない。ニュースもメディアもネットもないから、新しい刺激はまったくなし。たまに村に二流の歌舞伎役者がきました、なんてことが5年たっても画期的な出来事として、尾ひれはひれをつけて繰り返しかたられる。ガキはたくさん生まれてたくさん死ぬから生も死も日常茶飯事。その意味では、まったく同じ日々の繰り返しの中に、生も死も含まれていて、その歌舞伎役者訪問なんてことが「神話的」な出来事になるわけ。それがしつこく繰り替えされてみんなの共通の体験となり「ワシはその役者をこの目で見た!」なんていうじいさんが、英雄扱いされたりするようになる。あるいは「ワシはその役者を見たというじいさんの話を直接聞いたんじゃ!」なんていう連中の話がご大層なものとして珍重される。

それが神話の時間だ、と言いたいなら、それはそれでいい。そしてそれについて妄想をたくましくして、何か同じ繰り返しの中に(本当は個別性のある)いろんな人や事件がたくさん詰め込まれた世界を妄想するのもかまわないし、それがラテンアメリカ文学と呼ばれるものの魅力だったりする。そうやって詰め込まれたものが、少しずつ大きな流れの中で変動し、消えてしまう、というのが『百年の孤独』の一つのテーマだ。でも、それを本当の世界にもってきて、そっちのほうが豊かで詩的で人間本来のあり方で、というような妄想はやめてほしいんだよね。そしてそれはニューエージ的なチャネリングだの、転生リンネだのとはまた別の話なんだし、それをいっしょくたにするようなこともやめてほしいのだ。



クリエイティブ・コモンズ・ライセンス
山形浩生の「経済のトリセツ」 by 山形浩生 Hiroo Yamagata is licensed under a Creative Commons 表示 - 継承 3.0 非移植 License.

松谷『ギャルと不思議ちゃん論』:労作ながらジャンル内だけに閉塞

ギャルと不思議ちゃん論―女の子たちの三十年戦争

ギャルと不思議ちゃん論―女の子たちの三十年戦争

サブカル内での棲み分けや派閥の抗争、重なり具合に関する、半ば自虐的、半ばナルシスティック、半ば自己参照的な論というのはたくさんある。おたくとナードとギークとジョックとゴスとパンクとチア系といじめっこといじめられっ子の相互力学は、アメリカの高校ドラマの永遠のテーマだ。

なぜそれがドラマのテーマとして成立するかというと――そのドラマの想定視聴者は全員、その力学内に身をさらしたことがあるからだ。だからそれを戯画化し、誇張し、細部を捉え、定式化すると「ああ、あるある」「そう、ああいうヤツ、いたよねー」という共感の基盤となる。

でも、それは基本的には意匠だ。ドラマがドラマとしておもしろくなり、それなりの一般性を持つようになるのは、その意匠をとっかかりとして、もう少し一般性のあるテーマに触れられるときだ。そして優れたドラマは、すべてそれを実現している。

Big Bang Theory: Complete Fourth Season [DVD] [Import]

Big Bang Theory: Complete Fourth Season [DVD] [Import]

で、本書は、ギャルと不思議ちゃんというサブカル内での棲み分けの話をする。個別にそれを採り上げず、生態系的に考え、その二つの区分それぞれの内部の変遷を、それが置かれた環境とこの二つの派閥の相互力学としてとらえようとする。それはそれで、おもしろい。

が……本書はそこから一般性のあるテーマに発展しないのだ。そのサブカル内の派閥描写で終わってしまう。こんなことがありました。戸川純が出てきて、きゃりーなんとかが出てきて、あれもあり、これもありました。そして最後のまとめは:

ギャルと不思議ちゃん――そうした本書のコンセプトも、今後どのように推移するかはわからない。コギャルの誕生からそろそろ二〇年を迎えようとする時代、ギャルは縦にも横にも分化し、他の属性と結びついたりしている。きゃりーぱみゅぱみゅの存在によって不思議ちゃんも目立ってきているが、彼女が戸川純のような強力なアイコンであり続けるかはまだ未知数だ。

しかし、これからも女性は続く――。(p.339)

要するに、いろいろありました、今後どうなるかはわかりません、ということ。では、あなたのこのいろいろ調べた労作によって得られた洞察というのはなんだったのでしょうか? ある視点を元にこれまでのものを並べてみました。おしまい。それではぼくは読者として、単なる徒労感を感じるしかない。

これは、ぼくが松原の中国建築評論研究本今和次郎研究の本についての話でも述べたことだ。あるいはこの「ヒトはなぜ微笑むのか」でも、なぜ微笑むのか考察しました、でも結局なぜそれがだいじなのかとか、それがわかると何が言えるか、というのはまったくまとめられない。あるいはこの「ニューロポリティクス」でも、いろんな政治的な判断を下すときに脳内の活性化部位を調べてみました、ちがう部分もあるようです、という手法の話はできる。でもそれがどうした、という話はまったくできない。日本人ってサーベイ論文とかは得意なんだけどさ、サーベイでも羅列だけで終わって、結論(と提言)がない論文とか報告書とかを平気で書くんだよね。それと同じものが、この松谷の労作でも見られる。ギャルと不思議ちゃんは相互に影響しつつ生態ニッチを形成しています。はい、そりゃそうでしょう。でも、それを一応実証的に確認したのはよいことです。それで? それはどういう一般性を持つ知見を与えてくれるんですか? 本書はそれが全くない点で、実に日本人的だ。これは悪口。いっしょうけんめいやりましたから、意味があるかどうかはわからないけど、いっしょうけんめいのとこだけ評価してください、という上目遣いの本になりはてている。

これはもちろん、ぼくがそういうのと無縁だったこともあるだろう。ぼくはギャルでも不思議ちゃんでもなかったし、その力学の中にはいなかったから、本書に描かれているようなものを「ああそうそう、あったよねー」と懐かしく思えない。だから本書を十分に楽しめないのかも知れない。でも、その中にいた人しか楽しめないのであれば、ぼくは本としての価値はないと思う。あと、ぼくは自分の関心あるものないもの含め、いくつかの雑誌を定点観測して定期的に無理してでも買って読んでいるので、一応キューティーもスプリングも、ケラ!も(ちなみにぼくは、ケルアックと書いてケラと読ませるのがすっげー違和感あって――が閑話休題)キャンキャンも見てはいる。この中で書かれている話題もだいたいわかる。決してその内容面についていけないわけではないし、またその部分の分析や調査は、力作だと思うしご苦労だなとは思うし、高く評価する。

でも、結局本書は、いろんな時代のいろんな意匠や流行のキーワードを並べただけに終わる。ギャルママに森ガール、DQNネームにナゴムギャルですか。ありましたねえ。で、それがどうしたの?

松谷は、リサーチャーだと著者紹介に書かれている。で、確かに本書はリサーチャーの仕事だけあって、リサーチは立派だ。でも、結局リサーチャーどまり。惜しいなあと思う。松谷の書いたものは昔からいくつか読んでいたように記憶しているし、おもしろい視点もあったと思う。でも、その視点を彼は結局一般化できず、本書の段階ではまだ内輪での内輪意識慰撫にとどまっている。

もちろん、無理に一般化しようとして無残な結果に終わった本もたくさん見ているので、知っている領域のことをまず堅実に抑えようとするのは一つの見識ではあると思う。でも、その見識をどのように外に出すか? その意味で、松谷の次の本を(あるなら)ぼくは期待して見ようと思う。そしてこの本は――ぼくは書評には採り上げません。



クリエイティブ・コモンズ・ライセンス
山形浩生の「経済のトリセツ」 by 山形浩生 Hiroo Yamagata is licensed under a Creative Commons 表示 - 継承 3.0 非移植 License.

へーリング&シュトルベック『人はお金だけでは動かない』:行動経済学や幸福研究などの成果紹介で、数多い類書から傑出はしていないが、よくまとまっている。

人はお金だけでは動かない―経済学で学ぶビジネスと人生

人はお金だけでは動かない―経済学で学ぶビジネスと人生

最近たくさん出ている、行動経済学や幸福研究などの知見を使って、人間が必ずしも金銭欲得ずくの完全合理的に動くわけではないという話をあれこれ紹介した本。かなり多くのトピックをカバーしていて、そうした本の中では決して悪いものではない。要領もいいと思う。こうした本を読んだことがなければ、手に取ってみても損はない。よい本だと思う。

が…… この手の本をすでに読んだことがあれば、「またか」という部分が多々ある。最後通牒ゲームで、人は自分が損をしても不公平(だと感じる)を拒否するので、完全合理的ではありません、人はお金が増えても幸福が増えるわけではありません、等々。

おもしろいネタとしては、テレビ報道は世論にどのくらい影響を与えるかとか、IMFウォール街の使いっ走りというのが本当か、とかいう話(本当だそうです)、あと最後にある統計分析についての警告。レヴィットの有名な「中絶の合憲判断がアメリカの犯罪低下をもたらした」という研究は実は統計処理がまちがっていて、ちゃんと統計分析をやりなおすと、成り立たないことがすでにわかってるんだって!!(p.276)*1 知らなかった。

ヤバい経済学 [増補改訂版]

ヤバい経済学 [増補改訂版]

これ、増補版でちゃんと説明してあったかなあ*2

個人的には、幸福研究のところは少しおもしろい。ブータンの「国民最大幸福(GNH)」追求というのをほめそやす人がいる。でも、ブータンはそれを実現するために、実際には何をしてるんだろうか? GNHはすばらしい、日本も経済発展重視から幸福重視へ、とか主張する論説で、ぼくは幸福向上の具体的な施策とは何か、という話を読んだことはほとんどない。さて、何をすればいいの? ブータンの王さまはかけ声以外に何をやってるの?(注:本書にはブータンの話は出てこないが、日本では定番なので)

幸福に関する各種の見方を総合すると、幸福度を上げるために政府ができることはほとんどない。「幸福の研究を実用的に応用する余地はほとんどなくなる」(p.44)。こないだ日本でも、なにやら幸福の指標を作るとかいうバカな活動が始まったそうなんだが、でもそんなのはまったくやるだけ無駄だ、ということ。ちなみにぼくはこれは言い過ぎで、幸福度を上げるためにできることはちゃんとあると思う。でも、その結論は(指標なんか作らなくても)わかり切っている。

人は要するに、絶対的な収入や地位の水準で幸福を感じるんじゃない、という話。自分自身の力(と思っているもの)でどのくらい収入や地位が向上したかという達成感が幸福に果たす役割が大きい。それも絶対的な達成だけでなく、まわりと比べたときの相対的な達成度からくるものが大きい。そして、いったんある水準を達成してしまうと、すぐに慣れてしまい、その収入や地位そのものからは幸福が得られなくなってしまう。だからこそ、GDPや健康や寿命その他と幸福度とを相関させて国際比較を行ってもあまり意味のある結果は出ない。でも、政策でいじれるのはそういうものだけだ。社会への帰属感を高め、自分が何か有益な活動をして必要とされている、という自己意識を高めることは、幸福に大きく関連してくる。だから不景気を改善して、みんなが就職できるようにして、自分の働きに応じて給料上がるとかそういうのを実現すれば幸福はだんだん高まる。でもそれは新しい指標なんか作るまでもない。

で、カーネマンの研究では、結局満足をあげたり不幸を減らしたりするための最高の手法は、鬱病治療の改善(と通勤時間の短縮)なんだって。えー、カーネマン本にそんなこと書いてあったっけ。読み返さないと。

そしてもう一つ、幸福追求というのは、それ自体自己否定的なところがある。幸福を求める人は、自分が十分に幸福ではないと思っているわけだ。でも、そう思うこと自体が不幸を増す。

 
成功とは、望むものを得ること。
幸福とは、得たものを望むこと。
――匿名


足を知る、自分が持っているもので満足する――それが幸福の秘訣でもある。宗教の多くがそれを主張する。多くのものを求めず、いまあるもので感謝しろ、と。この世では夢を持つな、と。

それがある意味で幸福の本質でもある。ハックスレー「すばらしき新世界」の野蛮人が、不幸になる権利を求めたとき、それは同時に進歩の権利を求めたわけだ。そしてそれは、各種のユートピア/ディストピア小説すべてに通じるテーマでもあるんだけれど。

その意味で、幸福を追求する施策にはもう一つあり得る。期待を下げることだ。これ以上はよくならないからあきらめよう、これで満足しようと思わせることだ。お前らはもうダメだと思わせることだ。いまの三〇年デフレ不況は、実はまさにこの状況を作り出している。日本の研究で、ニートで失業していて将来の見通しも暗い若者があまり不幸でないことに驚く研究が最近あった。でも、そういうもんだと思ってしまえば――人はそれでも幸福でいられる。

みんな失業し、あてもなく、希望もなく、病気して、飢え――それでも人は幸福でいられる。そういうものだと思わせれば、GNHは上がる。ぼくはそういうものだとは思わないから、これが不幸だと思う。でも、そう思わなければいけない理由は、必ずしもない。ブータンがこんなことをしているとは、もちろん思わない。が、意外と日本は、そういう意味での幸福追求の先駆、なのかもしれない。

 

が、これは本自体の話とは離れた。これは本書の中の10ページほどの部分からぼくが勝手に妄想をふくらませただけで、本書がここまで過激なおもしろい議論をしているわけではない。ちょっとぼく的にはありがちかな、という気がするのでパス。あと、原著ドイツ語からの直接訳ではなく、英語からの重訳――とはいえ、英訳著者たちは当然英語はできるし、そんなに気にする必要はないと思う。いい本だと思うのでこの手のテーマに興味があってまだあまり類書を読んでいない人は是非どうぞ。



クリエイティブ・コモンズ・ライセンス
山形浩生の「経済のトリセツ」 by 山形浩生 Hiroo Yamagata is licensed under a Creative Commons 表示 - 継承 3.0 非移植 License.

*1:Foote, Christopher and Christopher Goetz (2008): "The Impact of Legalized Abortion on Crime: Comment," in: Quarterly Journal of Economics, Vol 123, pp. 407-423.

*2:はてブokemosコメントによると:「中絶と犯罪の話、ググってみるとレヴィットとドナヒューは改めて分析しても有意な関係があると言ってますな http://goo.gl/3lhmN ただ、その結論を否定してる研究もあってhttp://goo.gl/bFhEj よく分からんすな。」とのこと。こういう政治的な思惑のからむネタは、結局結論がはっきりしないのでアレだ。これは、中絶反対論者は中絶肯定に使われるのが嫌なので否定したがるし、他の犯罪根絶方法を支持する人も否定したがるし。これだけでなく、死刑と犯罪率との関係とか、ほんと議論が醜くなっていやー。

石川『超心理学』:研究するだけ無駄そうにしか思えない。

超心理学――封印された超常現象の科学

超心理学――封印された超常現象の科学

テレパシーとか透視とかテレキネシスとか、いろいろ実験が重ねられて、なんかあるかもしれないような、とはいえビリーバーでもないけど頭から否定してかかるのはよくない、という本。はあ、そうですか。

著者は真面目にあれこれライン実験とかガンツフェルトなんとかとかフォローして、統計的に有意な結果が出ている、という。でも、社会心理的に複雑な要因があれこれとやらで、うまく行くときはいってるみたいだが、いかないときはいかなくて、という。まあそこまではいいよ。でも、結局いまの物理や科学の通念には反する話だから、なかなか研究する人も出ないのが困りもので、だからまともな研究者が数百人しかいなくて、という。おやおや、それはかわいそうに。でもこうした個別実験の不安定さはは量子物理の観測問題のせいかもしれず、だから物理学の進歩で解明されるかも……とか言い出すんだけど、おいおい、それは待ってくれよう。真面目にやってるつもりなら、こんなわかってもいないことを得々と言わないでほしいのよね。

懐疑論者に対しては、限られた事例だけ見て否定しないでくれ、というんだけれど、それを言うなら限られた事例だけで肯定するのもアレでしょう。そしてわかったからといってすごくおもしろいことができるわけでもなさそうだし。研究者が出ないのは、既存物理学と対立するから、ではないと思う。わけのわからん常温核融合とかは、研究者が集まるじゃん。少なくとも今の方向ではまったく成果が期待できないくらい、まともな学者ならわかるからだと思うよ。ちなみに、ミーム/心脳問題ライターとして高名なスーザン・ブラックモアは、実は超心理学で博士号を取ったこの分野バリバリの研究者だけれど、いつまでやっても何も成果が出ないのにうんざりして、あるとき分野ごと否定するに至り、心脳問題とか脳科学のほうに関心を移した。本書を読んでいると、それが正しい道のような気がするのだ。

本書でも、なぜこの著者は、超心理学を解明するのに、物理学の発展に期待するわけ? 本書を読む限り、超心理学自体を観察しようとしても、結局いろいろ試行をしたら統計的に有利なものもありました、程度の話にしかならないし、それ以上はまったく何の成果も期待できそうにないじゃないか。それを判断できない時点で、まず研究者としてのセンスはないと思う。それ以上分け入ろうとしたら、物理学なんかじゃなくて、意識とか精神とか心とか、その「超」のつかないものから明らかにしないと話が進まないんじゃないの? そして意識や心脳問題もまだまだむずかしそうだし、そっちで何か成果があがるかどうかもわからん以上、超心理学のほうまで話が進むには何世紀かかるやら。著者は、(世界に数百人しかいない)超心理学の研究の火を消すまじ、と意気込むけど、消せば? 脳や意識がモデル化できたら、そのおまけで超心理学もなんか出るかもしれないから、それまでもっとまともなことやってたら? と素人としては思うわけでございます。まして新聞の書評に採り上げたい本ではないなあ。

(追記:上に出るカバー写真のストライプがチカチカして、いやー!!)

さらに追記:
ちょっとググってみたら、超心理学会というのがあるんだが……そこで予知とかの公開実験なるものをやっているんだけど、なんだか恣意性のかたまりというかなんというか。こんなお地蔵さんの写真と送電鉄塔の写真とで、なにやらどうにでも解釈できそうなモガモガした書き取りとが、一致したよい予知ってことにされちゃうのお??? こんなので統計的に有意とか騒がれましてもねえ。というわけで信用がた落ち。この程度かよ。



クリエイティブ・コモンズ・ライセンス
山形浩生の「経済のトリセツ」 by 山形浩生 Hiroo Yamagata is licensed under a Creative Commons 表示 - 継承 3.0 非移植 License.

小熊『社会をかえるには』:大風呂敷広げといて結論は小学校レベル。

社会を変えるには (講談社現代新書)

社会を変えるには (講談社現代新書)

本書の主張は非常に単純で、社会を変えるためには、ちゃんと自分なりの発言をして声をあげ、デモとかにも参加したりしましょう、ということ。

それだけのために、なんでこんな分厚い本(500ページ以上)が必要なのか。まず最初の部分では社会の現状説明なんだけれど、高度成長期から始まってオイルショックでポスト工業社会で、という話。ここで読者が受け取るメッセージはつまり、社会というのは経済に依存する、ということだ。社会を変えるには経済を変える、という話なのか……と思うと、後半になって延々原発の話になるんだけど……

それって関係なくね? いや、著者自身がそれは関係ないことを指摘しているんだ。原発がなぜやめられないかというと、原発が経済成長の象徴だと思う人がいるからだ、という珍妙な議論が出てきて、でもいまは原発と経済成長は関係ないからこの議論は無意味だ、という (p.52)。さて、ぼくは寡聞ながら、そんな人を見たことはない。むしろその逆のほうが多い。原発をやめろという人は、原発が経済成長の象徴だと思っていて、原発をやめれば経済成長もやめなきゃいけないと思っている人が多いようだ。原発を止める為に、経済成長至上主義を見直しませんか、なんてことを主張したりする。でも、この二つは関係ないというのは事実。だったら、いまの社会の話をするのに原発がどうだろうと関係ないんだけど。

次は、日本の学生運動や社会運動の話。おさらいとしてはいいけど、それに基づいて現状をまとめるという部分がさっぱりまとまっていない。過去の学生運動はなぜダメだったか、社会運動がなぜ力を持たなかったかという話はわかるが、それで? 小熊は、いまの社会運動というので、官邸前の反原発デモみたいなのを想定している。でもかれらは別に過去の学生運動を参照しようとかしているわけじゃないし、特にまとまりがあるわけでもないから、「べき」論しても意味ないのでは?

で、次は各種思想のおさらい。民主主義がどうしたとか自由がどうしたとかいう話になるんだが、科学の話があまりにひどい。

ニュートン錬金術の話でなにやらくだらないことを述べるんだが(pp.280-283)、物理学と錬金術はどっちも不変のものを求めるからニュートンが両方やっていたのはわかるんだって。へー、錬金術って、金が変わらないって話じゃなくて、何かを金に変えるって話なんですけど。金が本当に不変だったら錬金術なんかできないじゃん。それに当時の錬金術というのは本当に絶対確実アホダラ経だったのか、それともそれなりに(今よりは)権威があるものだったのか? それでそこらの評価ってちがうでしょうに。ほんと頼むから山本義隆とか読んでくれ。かなりピンとはずれだから。

その果てに、ハイゼンベルク不確定性原理があるから科学には絶対はありえなくなった、なんて話をマジにやる(pp.339-341)。ホント、この手の話はポストモダン時代の、ゲーデルで理性の限界とかいう話で散々ばかにされて、いまどきやる人はいないと思ったんだけれど……不確定性原理は、一方では「ここまでは厳密に言える」というのを示すものでもあるんですよ。

なぜそんな話が? かれは、科学絶対主義はもういまでは通らないから科学万能主義(とそれに頼った工業社会)はもうダメと言いたいからなんだが、スケール感無視した妄言では何の意味も無い。

 
そしてこれだけ大風呂敷を広げといて、結局何なの? みんなでお話して、主張はちゃんと発言し、行動で示して、というだけのこと。そうすれば社会は変わるよ。と。

でもそれって、別にポスト工業社会関係ないでしょ。科学やハイゼンベルグも関係ないでしょ。革マルや中革や六〇年代安保運動も関係ないでしょ。結局、あれこれこの本で積み重ねてきた話って全然意味なかったじゃん。小学校でぼくはこんな話は教わっているよ。


そしてぼくが本書にあまり感心しないのは、経済のことをあまり考えてないこと。ホモ・エコノミクスってのは、貨幣の獲得だけ考える個人なんだって (p.284)。かなーりちがうぞ。さらに社会学者の常として、社会というのは何やら社会学で扱えるような「力」で動くもんだと考えてしまう。ここ数十年の社会の停滞は、工業社会のいきづまりとかいう社会的要因から生じたと思ってしまい、金融政策の影響だとはまったく考えない。それではぼくはあまり何も変えられないと思う。ぼくは上部構造は下部構造に依存するというマルクスかなんかの主張を信じているもんで。

さらにいうなら、いまデフレの日本の状況とか、同じくデフレのヨーロッパの社会状況とかが、大戦前のデフレのアメリカや金本位制のヨーロッパの状況ときわめて似ているということは、本書で大仰に取りざたされている、ポスト工業社会といった枠組みでのとらえ方が本当に有効なのか、という点について大いに疑問を抱かせるものではある。その手の議論に基づく本書の社会学というのは、結局は表層的な現象論に過ぎないんじゃないのか? 実は本書の第1章における、そうした枠組みに基づく社会分析というのはまったく意味をもたないんじゃないのか? ぼくはこの可能性がかなり高いと思っているのだ。そこからも、長ったらしい本書のご託の意味合いというのは、ぼくから見ればかなり疑問だと思わざるを得ない。

 

ついでに、p.53で負債とか資産とかあれこれ聞いたふうなことを言ってるんだけど、明らかにバランスシートってもんがわかってないね。大きな問題ではないし、言いたいことはわからないでもないが、それでも主張のあぶなっかしさを示すものにはなっている。

ちなみに、ぼくは本書の主張は、小学校で習った程度のもので、小学校以上のものではないと思っている。楽しくデモに参加するのが行動? ぼくはピクニック気分のデモはピクニック以上の影響はないと思っている。それが完全に無駄ではないかもしれない。でも、なんとなくデモがあるだけではだめで、それをきちんと声に変える仕組みはいるだろう。一方でぼくの思う社会の変え方は昔こんなあたりの議論で述べた。むろんこれも弱い。But, I don't try to cash in on it by making a bloated pointless book.

というわけで、分厚いくせにその分厚さが基本的な議論の厚みにまったく貢献していない。その分厚い理屈にしても、特に科学っぽいあたりあまりにピント外れで有害無益。そして結論も目新しくもなんともない。こういう本を読んで、いまの反原発デモの人たちは自分たちが肯定してもらえたような気分になれて嬉しいのかも知れないけれど、でもぼくは無意味な本だと思うのでパス。ほんとはこういったあたりを書評で批判できればいいんだろうけどね。



クリエイティブ・コモンズ・ライセンス
山形浩生の「経済のトリセツ」 by 山形浩生 Hiroo Yamagata is licensed under a Creative Commons 表示 - 継承 3.0 非移植 License.

ペルッツ『夜毎に石の橋の下で』

夜毎に石の橋の下で

夜毎に石の橋の下で

ペルッツは、昔かの名作『第三の魔弾』を読んで、七〇年代くらいのラテンアメリカ作家だとばかり思い込んでたんだよね。それが20世紀初頭の東欧作家とは意外や意外。

で、これはそのペルッツのかなり後期の作品……と書くことにどこまで意味があるのやら。狂王ルドルフ二世に、大富豪のユダヤ人商人、その妻、その財産、ユダヤ教司祭に天使、そのそれぞれの運命が本人すら気がつかないほどかすかに、だが多様な形でからまりあい、そのかすかなからみあいが、それぞれの人生を大きく変えている――読むうちにそれがだんだん明らかになってきて、そして冒頭の短編に出てきた司祭の謎の行動がやがて解き明かされるとともに、すべてのパズルの駒がおさまって、大きな悲しい絵ができあがる――そしてその絵も、もはや語り手が語る時点ではすべて過去のものとなり、これまたかすかな痕跡が残るばかり。

ラノベに代表される下品な小説みたいに、なんかいちいちでかい事件が起きて、いちいち主人公が「うぉぉぉ」とかわめいたり爆発が起きたり、ラスボスが出てきて「ふっふっふ、実は我こそは」とか説明してくれたりしない。説明がむずかしい本で、とにかく読んで、としか言えないし、ある程度の辛抱と頭のバッファがあって、いろんな宙ぶらりんの糸口を宙づりにしておく能力がないと、それがだんだんとつながって大きな輪になるおもしろさあは感じられないだろう。こういうのをうまく説明できたらな、とは思う。最近、小説系があたりが多いので、それをまとめてとも思ったけれど特に共通点もないのでそれもむずかしいし。

でも、静謐でありつつ運命の残酷さとそのはかなさみたいなのをゆっくり感じたい人にはお勧め。夏よりは冬に読みたい小説だと思う。



クリエイティブ・コモンズ・ライセンス
山形浩生の「経済のトリセツ」 by 山形浩生 Hiroo Yamagata is licensed under a Creative Commons 表示 - 継承 3.0 非移植 License.

マコーミック『世界でもっとも強力な9のアルゴリズム』:世界で、というのは誇大広告だなあ。

世界でもっとも強力な9のアルゴリズム

世界でもっとも強力な9のアルゴリズム

世界で最高! うーん、すべてコンピュータやネットによく出てくるアルゴリズムなんだね。それでもソートアルゴリズムとかもよく使うし、もっと広く考えればあれもこれも、と思って見たのだけれど、あまり地味なのはない。

が対象。

うーん、どれも重要だけれど、世界でもっとも強力というのは誇大宣伝だろう。コンピュータやネット関連ではよく出てくるので、お目に掛かる機会は多いし、原題の「未来を変えたアルゴリズム」というならまあわかるんだが。

アルゴリズムの説明自体はそこそこわかりやすいとは思う。チューリングの、計算不可能性の説明とかはかなりの難題をそこそこうまくさばいているし。知らないよりは知っていたほうがいい。その一方で、一般人は(著者も認めるとおり)知ってどうなるわけでもない。その意味で、アルゴリズムからもう少し広がるような感じもないのは残念。いろいろあります、おもしろいですね、という感じ。ちょっとわざわざ書評にとりあげる本ではないと思った。

昔ならブルーバックスとかでありそうな本で、知的好奇心のある高校生とかに読んでほしい感じ。悪い本じゃないし、ささっと読める。ほんと、ブルーバックスで千円なら、というところじゃないかな。



クリエイティブ・コモンズ・ライセンス
山形浩生の「経済のトリセツ」 by 山形浩生 Hiroo Yamagata is licensed under a Creative Commons 表示 - 継承 3.0 非移植 License.