小熊『社会をかえるには』:大風呂敷広げといて結論は小学校レベル。

社会を変えるには (講談社現代新書)

社会を変えるには (講談社現代新書)

本書の主張は非常に単純で、社会を変えるためには、ちゃんと自分なりの発言をして声をあげ、デモとかにも参加したりしましょう、ということ。

それだけのために、なんでこんな分厚い本(500ページ以上)が必要なのか。まず最初の部分では社会の現状説明なんだけれど、高度成長期から始まってオイルショックでポスト工業社会で、という話。ここで読者が受け取るメッセージはつまり、社会というのは経済に依存する、ということだ。社会を変えるには経済を変える、という話なのか……と思うと、後半になって延々原発の話になるんだけど……

それって関係なくね? いや、著者自身がそれは関係ないことを指摘しているんだ。原発がなぜやめられないかというと、原発が経済成長の象徴だと思う人がいるからだ、という珍妙な議論が出てきて、でもいまは原発と経済成長は関係ないからこの議論は無意味だ、という (p.52)。さて、ぼくは寡聞ながら、そんな人を見たことはない。むしろその逆のほうが多い。原発をやめろという人は、原発が経済成長の象徴だと思っていて、原発をやめれば経済成長もやめなきゃいけないと思っている人が多いようだ。原発を止める為に、経済成長至上主義を見直しませんか、なんてことを主張したりする。でも、この二つは関係ないというのは事実。だったら、いまの社会の話をするのに原発がどうだろうと関係ないんだけど。

次は、日本の学生運動や社会運動の話。おさらいとしてはいいけど、それに基づいて現状をまとめるという部分がさっぱりまとまっていない。過去の学生運動はなぜダメだったか、社会運動がなぜ力を持たなかったかという話はわかるが、それで? 小熊は、いまの社会運動というので、官邸前の反原発デモみたいなのを想定している。でもかれらは別に過去の学生運動を参照しようとかしているわけじゃないし、特にまとまりがあるわけでもないから、「べき」論しても意味ないのでは?

で、次は各種思想のおさらい。民主主義がどうしたとか自由がどうしたとかいう話になるんだが、科学の話があまりにひどい。

ニュートン錬金術の話でなにやらくだらないことを述べるんだが(pp.280-283)、物理学と錬金術はどっちも不変のものを求めるからニュートンが両方やっていたのはわかるんだって。へー、錬金術って、金が変わらないって話じゃなくて、何かを金に変えるって話なんですけど。金が本当に不変だったら錬金術なんかできないじゃん。それに当時の錬金術というのは本当に絶対確実アホダラ経だったのか、それともそれなりに(今よりは)権威があるものだったのか? それでそこらの評価ってちがうでしょうに。ほんと頼むから山本義隆とか読んでくれ。かなりピンとはずれだから。

その果てに、ハイゼンベルク不確定性原理があるから科学には絶対はありえなくなった、なんて話をマジにやる(pp.339-341)。ホント、この手の話はポストモダン時代の、ゲーデルで理性の限界とかいう話で散々ばかにされて、いまどきやる人はいないと思ったんだけれど……不確定性原理は、一方では「ここまでは厳密に言える」というのを示すものでもあるんですよ。

なぜそんな話が? かれは、科学絶対主義はもういまでは通らないから科学万能主義(とそれに頼った工業社会)はもうダメと言いたいからなんだが、スケール感無視した妄言では何の意味も無い。

 
そしてこれだけ大風呂敷を広げといて、結局何なの? みんなでお話して、主張はちゃんと発言し、行動で示して、というだけのこと。そうすれば社会は変わるよ。と。

でもそれって、別にポスト工業社会関係ないでしょ。科学やハイゼンベルグも関係ないでしょ。革マルや中革や六〇年代安保運動も関係ないでしょ。結局、あれこれこの本で積み重ねてきた話って全然意味なかったじゃん。小学校でぼくはこんな話は教わっているよ。


そしてぼくが本書にあまり感心しないのは、経済のことをあまり考えてないこと。ホモ・エコノミクスってのは、貨幣の獲得だけ考える個人なんだって (p.284)。かなーりちがうぞ。さらに社会学者の常として、社会というのは何やら社会学で扱えるような「力」で動くもんだと考えてしまう。ここ数十年の社会の停滞は、工業社会のいきづまりとかいう社会的要因から生じたと思ってしまい、金融政策の影響だとはまったく考えない。それではぼくはあまり何も変えられないと思う。ぼくは上部構造は下部構造に依存するというマルクスかなんかの主張を信じているもんで。

さらにいうなら、いまデフレの日本の状況とか、同じくデフレのヨーロッパの社会状況とかが、大戦前のデフレのアメリカや金本位制のヨーロッパの状況ときわめて似ているということは、本書で大仰に取りざたされている、ポスト工業社会といった枠組みでのとらえ方が本当に有効なのか、という点について大いに疑問を抱かせるものではある。その手の議論に基づく本書の社会学というのは、結局は表層的な現象論に過ぎないんじゃないのか? 実は本書の第1章における、そうした枠組みに基づく社会分析というのはまったく意味をもたないんじゃないのか? ぼくはこの可能性がかなり高いと思っているのだ。そこからも、長ったらしい本書のご託の意味合いというのは、ぼくから見ればかなり疑問だと思わざるを得ない。

 

ついでに、p.53で負債とか資産とかあれこれ聞いたふうなことを言ってるんだけど、明らかにバランスシートってもんがわかってないね。大きな問題ではないし、言いたいことはわからないでもないが、それでも主張のあぶなっかしさを示すものにはなっている。

ちなみに、ぼくは本書の主張は、小学校で習った程度のもので、小学校以上のものではないと思っている。楽しくデモに参加するのが行動? ぼくはピクニック気分のデモはピクニック以上の影響はないと思っている。それが完全に無駄ではないかもしれない。でも、なんとなくデモがあるだけではだめで、それをきちんと声に変える仕組みはいるだろう。一方でぼくの思う社会の変え方は昔こんなあたりの議論で述べた。むろんこれも弱い。But, I don't try to cash in on it by making a bloated pointless book.

というわけで、分厚いくせにその分厚さが基本的な議論の厚みにまったく貢献していない。その分厚い理屈にしても、特に科学っぽいあたりあまりにピント外れで有害無益。そして結論も目新しくもなんともない。こういう本を読んで、いまの反原発デモの人たちは自分たちが肯定してもらえたような気分になれて嬉しいのかも知れないけれど、でもぼくは無意味な本だと思うのでパス。ほんとはこういったあたりを書評で批判できればいいんだろうけどね。



クリエイティブ・コモンズ・ライセンス
山形浩生の「経済のトリセツ」 by 山形浩生 Hiroo Yamagata is licensed under a Creative Commons 表示 - 継承 3.0 非移植 License.