Thomas Pynchon Inherent Vice

Inherent Vice

Inherent Vice

トマス・ピンチョンの新刊。雰囲気を味わってもらうために、冒頭部だけちょっと訳してあげよう。


舗装の石畳の下には、ビーチが! ――落書き、パリ、1968年5月

一、

彼女は横町を入って裏階段からあがってきた。昔いつもそうしていたように。ドクは一年以上も彼女を見かけていなかった。ドクだけでなく、だれも。昔はいつもサンダルに、花柄ビキニの下側、色あせたカントリー・ジョー&ザ・フィッシュTシャツだった。今夜の彼女は全身堅気衣装で、髪は記憶よりずっと短く、昔の彼女が決してしないと誓っていた格好だった。
「シャスタ、おまえか?」
「ラリってると思ってるようよ」
「その風体のせいだと思うぜ」
 二人は台所の窓から差し込む街灯に照らされて立っていた。カーテンなんかつけてもしょうがない窓だ。そして丘の下の方に波が当たる音に二人で聞き入っていた。ときには風向きがいいと、町中で波の音が聞こえる。
「助けがいるの、ドク」
「おれ、いまは事務所とかあるんだぜ? ホント昼間仕事とかそんなみたいな?」
「電話帳で調べて、ほとんどそっちに行きかけたの。でもそこで思ったんだけど、これが密会みたいに見えたほうが万人のためにいいって」
 やれやれ、今夜はロマンチックなことはなしか。ちくしょうめ。でもまだ金は入る仕事かもしれん。「だれかに見張られてるとか?」
「一時間ほど表通りで過ごして、見かけをそれっぽくしようとしてみたけど」
「ビールでもどう?」彼は冷蔵庫に向かい、中に入れてあるケースから二缶取り出し、一つをシャスタに手渡した。
「男なのよ」と彼女は言った。
 男だろうよ、でもそこで腹をたてちゃいけない。顧客がこんな具合に切り出すたびに五セントもらえたら、今頃はハワイだぜ。日夜クスリ決めて、ワイメアの波をディグして、いやそれよりかわりにだれか雇ってディグさせるか……「表世界の紳士ってわけかい」と彼はにらみつけた。
「そうよ、ドク。その人結婚してるの」
「で……金がらみか」
 彼女はそこにない黒髪をうしろに跳ね上げ、眉をたてた。それが何よ。
 ドクとしてはグルーヴィー。「で、奥さんは――おまえのこと、知ってんの?」
 シャスタはうなずいた。「でも奥さんも他にいるのよ。ただ、それが普通のアレじゃなくて――二人で何やら不気味な陰謀を企んでるの」
「ダンナの財産かっさらってトンズラね、うん、ロスあたりじゃそんなことも一度か二度はあったとか聞いてるけど。それで……おまえ、おれにズバリ何してほしいの?」かれは夕食を入れて持ち帰ってきた紙袋を見つけ、忙しくそこにメモを取るフリをした。というのも堅気女らしい制服、ノーメーク風に見えるはずのメークとかなんとかで、遅かれ早かれシャスタの得意とする有名な昔ながらの勃起が来るのは見えてたからだ。これっていつかは終わってくれんのかな、とかれは考えた。もちろん終わるとも。終わった。
 二人は居間に入って、ドクはソファに寝そべり、シャスタは発ったままで、何というかウロウロした。
「てゆーか、二人はあたしにも乗れっていうの。あの人が隙を見せたとき、というかそれに一番近くなったときに手が出せるのは、あたしだけだって言うのよ」
「隙って、ケツ丸出しで寝てるときね」
「わかってるじゃない」
「まだそれが正しいか間違ってるか迷ってるわけ、シャスタ?」
「それ以下よ」と彼女は、忘れがたいあの視線でかれをにらみつけた。「どれだけあの人に誠実であるべきかってこと」
「頼むからおれに聞かないでくれよな。そこらのありがちな連中が、そのクソ愛人にどれだけ借りがあるかならわかるが――」
「あらどうも、新聞の人生相談でも似たようなこと言われたけど」
「サイッコー。んじゃ感情ぬきにして、金を見ようぜ。そいつ、家賃はどんだけ払ってくれてる?」
「全額」一瞬、昔ながらの目を細めた勝ち誇るような微笑が浮かんだように思った。
「かなりする家?」
「ハンコックパーク」
ドクは「キャント・バイ・ミー・ラブ」のサビを口笛で吹いて、相手が顔に浮かべた表情は無視した。「もちろん、受け取ったもの全部にちゃんと借用書は書いてるんだよな?」
「このクソ男、あんたがいまだにこんな根に持ってるって知ってたら――」
「おれ? 単にプロらしくしようとしてるだけだって。その奥様とツバメ、おまえが乗ったら分け前いくらくれるって?」
 シャスタは金額を挙げた。ドクは怒り狂ったヤク売人いっぱいの改造ロールスから、霧の中で時速百六十キロ、あの粗雑に設計されたカーブを全部すりぬけようとしつつ、パサディナ高速で逃げ切ったこともあるし、ロサンゼルス川の東の裏道を、自衛の武器としては借り物のアフロヘア用の櫛を股間にしのばせただけで歩いたこともあるし、ベトナム大麻をごっそりかかえて法務局を出入りしたこともあったし、そういう日々のおかげでもうその手の無謀な日々は終わったんだと思い込みかけていたが、でもいまやかれは再び本気で心配になってきた。「この……」慎重にいかないと、「このネタって、アダルト指定のポラロイド数枚とか、そんな話じゃないな。車のグローブボックスにヤクを仕込んでおくとか、全然そんな程度の話じゃ……」
 昔の彼女は、何週間もふくれっつら以上のややこしい表情なしに、何週間も過ごしたもんだ。いまの彼女は、実に重々しい顔要素の混合物をかれに向けていて、何を考えているのかまったく読み取れなかった。俳優学校で身につけた技かも。「あなたの考えてるのとはちがうのよ、ドク」
「心配すんな、まだ考え始めてもないから。他には?」
「わかんないけど、でもどうも二人は、あの人をなんかキチガイ病院にぶちこみたいらしいの」
「それって合法的に? それとも無理にかっさらうような?」
「だれも教えてくれないのよ、ドク。あたしはただのエサだから」思えば、彼女の声にこれほど悲しみがこもっていともなかった。「あなた、ダウンタウンでだれかとつきあってるんですって?」
 つきあってるって。まあねえ「ああ、ペニーのこと? 堅気のいい子で、秘密のヒッピーラブの刺激を捜し中で――」
「そしてイヴェレ・ヤンガーんとこの何か検事補かなんかでしょ?」
 ドクはちょっとそれを考えてみた。「あそこのだれかが、これを事前に阻止できると思うわけ?」
「こんな話を持ってけるところはそうそうないのよ、ドク」
「わかった。ペニーに話してみて、どうなるかやってみる。でそのお幸せなカップルたちは――名前とか住所とかは?」
 彼女の老愛人の名前を聞かされてドクは言った。「これって、あのいつも新聞に出てるミッキー・ウルフマン? 不動産業界の大物?」
 「この話、だれにもしちゃダメなのよ、ドク」
 「聞かざる言わざる、仕事のうちよ。電話番号でもおいてく?」
 彼女は肩をすくめ、眉をひそめて、番号を一つ渡した。「できれば絶対かけないで」
 「サイッコー。で、どうやって連絡すればいい?」
 「しないで。前のところからは引っ越して、手当たり次第に泊まってんの。聞かないで」
 彼はほとんど「ここなら空いてるぜ」と言いかけたが、実際は空いてなかったが、でも彼女が変わってないものすべて、あの本物のイギリスパブのダーツボードが馬車の車輪にかけてあるのとか、売春宿のつり下げランプでフィラメントの振動する紫のサイケ電球つきのやつとか、クアーズの缶だけでできたホットロッドの模型コレクションとか、蛍光式フェルトペンでウィルト・チェンバレンがサインしたビーチバレーボールとか、ビロードの絵とか等々を見回しているのを見て、そこに浮かんでいる表情が、どう見ても嫌悪と言わざるを得ないものだったので言わずにおいた。

(つづく、かどうかはわからん。山形浩生 訳)