Thomas Pynchon Inherent Vice結末

Inherent Vice

Inherent Vice



(承前

 「ターン・オン、チューン・イン、ドロップ・アウト」モーゼルを持った片目男がウィンクしてみせた、残っているほうの目だ、ということはつまり男は両目をつぶったことになるのか、それとも片目男のウィンクもまたウィンクといえるのか。顔中が腫れ上がりほとんど視界のない自分はどうだろう。すべての闇にはウィンクが潜み、笑いとユーモアが隠されているのだろうか。それが黄金の牙団の語っていた荘子のサトリか。そしてその闇が笑っているのは、この自分なのか。
 「サイッコー。このおれが最後のオチになるとはね」そう言おうとしたが、口も腫れあがり、歯もほとんど折れた状態では、要領を得ないうめき声があがっただけだったが相手が理解したような表情を浮かべたとのは気のせいにちがいない。シャスタもおれを笑っているのか。あの晩、久しぶりにおれの部屋にきたとき彼女はすべて知っていたのか、あるいは知らなくてもそれはすべて一連の長いカルマの糸にからめとられ、つながって彼をこの車の中に導き、そしてその糸がいまとぎれようとしている。顔をつたう液体が血なのか涙なのかも、彼はもはやわからなかった。
 「これで最後だ、ドク。スマイル、それも I は二乗でな」と片目男が言うと同時に、腕に針が感じられ、とつぜん痛みは去り、すべてが極彩色につつまれて直立する虹の生えた草原が広がった奥にエメラルド色の都が、そうあそこを目指せばいいのかおれの求めた、すべてがそこにあるのか路はどこだれんがの道は――だがそのとき彼方で轟音が鳴って緑の都の塔が二本崩れ去るとともに世界のすべてが徐々に薄れ、霧に包まれやがてあたりは真っ暗となり、彼は霧が晴れるのを待ち、いつまでもいつまでも、だがそれは決して晴れることなく、かれは闇の中を這いずり続ける。

(完)*1



クリエイティブ・コモンズ・ライセンス
山形浩生の「経済のトリセツ」 by 山形浩生 Hiroo Yamagata is licensed under a Creative Commons 表示 - 継承 3.0 非移植 License.

*1:長いことご愛読ありがとうございました! トマス・ピンチョン先生の次回作にご期待ください!