ハンフリー『ソウルダスト』:意識の話はむずかしいわー。

ソウルダスト――〈意識〉という魅惑の幻想

ソウルダスト――〈意識〉という魅惑の幻想

うーん、意識やクオリアの話はどうしてもウダウダしくなってしまうなあ。ハンフリーにしてもそうだ。

ハンフリーは、ブスやバカがなぜいまだにいるのか、なぜ淘汰されていないのか、というのに対して、そのほうが進化的に有利だから、という身もふたもないがおもしろい説を述べていて、ぼくは進化生物学者の中でもとても好きだ。

そのハンフリーが、意識やクオリアの謎に挑むのが本書。なぜ意識やクオリアがあるのか?

この質問はむずかしい。スイッチを押すと「痛い」と録音が流れる機械は作れる。でも、機械は本当に痛みを感じているわけじゃない(だろう)。でも隣のやつを針でつきさすと「痛い」というし、たぶん痛みを感じているはず。でも、どっちも信号が流れてそれに対する反応だ。片方は「痛み」(のクオリア)があって、片方はないとなぜわかる? 厳密にいえば、わからないんだけどね。そして自分が、ここに信号が流れると「痛い」のだとどうやって証明できる? これもできない。

で、ハンフリーは、意識やクオリアは一種の自己参照的な系から生じるカオスアトラクターなんだというんだが、それで話がわかったようなわからんような。が、ハンフリーはそこから話をずらして、なぜ意識やクオリアなんてものがあるのか、という話をする。そして、その答は冒頭に述べたものと同じ。

進化に有利だったから。生存に有利だったから。

意識――自意識や命や自己愛やクオリアや等々――があれば、その個体は自分が感じたり生きたりすることを喜ばしいことだと思って、もっとそこに投資を行い、防衛を行い、生き残り安くなるのだ、だから意識はあるのだ、という話だ。哲学的ゾンビは、そういうことをしないから、同じ回路で同じ刺激反応を持っていても死んでしまう。だから意識があったほうがよいじゃあございませんか!

そして人は、「自分」の意識をまわりにまで投影できる。ここらへんは、ラマチャンドランの幻肢なんかの話が活用されるわけだ。己の魂の粉(ソウルダスト)をまわりにふりかけることで、周囲まで自分の意識化するのだ、だからこそ、あたりを包む世界は輝きいとおしく思える。自分の一部だからだ、少なくとも意識はそう思うからだ、と。そしてそれは、肉体だけでなく時間的なものにも適用される。

さて、イメージはとても美しいし、読んでいて人生のすばらしさ、いとおしさが感じられてきていい本だとは思う。宗教や死後の生命という発想への固執の話とか、すごくぴんと来る。が……

やっぱごまかしだと思う。まず、これでは意識の説明にもクオリアの説明にも十分になっていない。哲学的ゾンビだって、刺激に対する反応はすべて同じはずなんだから、生存から見てもまったく同じ生存機会があるはずでは? それは哲学的ゾンビの定義をこっそり変えているではありませんか。

意識とは何か、何かそこに意識の本質みたいなのがあるのか、と考えるのはあまり深入りせずに、それがあると生存上何かいいことあるの、という観察できることに視点を移そうぜ、という行動主義心理学みたいな発想は、いい結果をもたらすかもしれないとは思う。が、本書の話では、ぼくはやっぱりずっと首を傾げっぱなしではあった。そしてよく考えて見たら、そうした操作的になんとかするための枠組みの中で、操作的に観察できない「意識」「クオリア」を想定すること自体が、議論として少し破綻していないだろうか?

紹介したいかなとも思ったんだが、そのはぐらかされた感じがひっかかって、最終的にはやめた。悪い本じゃないし、いろいろ意識の本質とか読んできた中では、ある程度まで正面きって勝負しようとしていて、いいところまで行っているとは思うんだけど……



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