いま訳してる本ときたら……

もう次々に本を訳してまして、いまは意識の生成と心脳問題みたいな話の本をやっているんだが、心脳問題とかの本というのは絶対に面倒くさくならざるを得ない。どうして意識が生じるかを考えようとすると、外部からは意識があるかないかは今のところ漠然と推測するしかない状態で、一方自分は自分に意識があるかないか、たぶんわかるわけだけれど、でも意識が生じているかどうかを判断する時点ですでにそれを判断する意識を想定するしかなく、すると意識がどの時点でどうやって生まれたかは知りようがない。

さて、今回の本は、何やら画期的な枠組みなるものを持ち出して、ある心的状態は、ある脳の活性化状態と等価であるという仮定を置き、そしてあとは脳の状態がこうなっている、よって意識がある、みたいな話をしようとしているんだが……

それってインチキじゃね? 心的状態と脳の活性化状態が等価だと言った時点で、その活性化状態だとなんで意識があると言えるのか、といういちばんみんなの知りたい疑問を勝手に捨象しているではありませんか。ぼくはデネットクオリア否定論というのに基本的に賛成なんだけれど、こういうのを見ると、クオリアをもっとちゃんと説明してほしいな、なんて気分にもなってしまう。

まだ第一章でいきなりこれだからなあ。この先、脳解剖学とか神経とか進化の話を延々するらしいが、ここでこういう逃げを打ってあると、大山鳴動してなんとやら、最後に「はい、こんな脳活性化パターンができました。わー、これが意識なんですねー、意識の秘密解明!」とかいうトホホな自画自賛に終わるんじゃないかとびくびくもの。でも最後を先に読んでほんとにそうだと、一気に翻訳のモチベーションが下がるので、もしかしたら画期的な意識の解明が行われるかも、と期待して訳し続けるべー。1.5ヶ月で終える。



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山形浩生の「経済のトリセツ」 by 山形浩生 Hiroo Yamagata is licensed under a Creative Commons 表示 - 継承 3.0 非移植 License.