- 作者: 西村清和
- 出版社/メーカー: 勁草書房
- 発売日: 2012/03/14
- メディア: 単行本
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上のアマゾン商品紹介を見ると単著に見えるが、いろんな人の論文集。以前、編者のプラスチックの木云々の本を論難したので、本書にもまったく期待していなかったが、思ったよりまとも。とはいえ、書評に値する本ではない。多くの論文は、そのテーマをきちんと実証的あるいは広がりをもって考えればモノになるのかもしれないが、現実世界の話を前半の枕に持ってきたら、あとはすぐに本の世界に閉じこもって概念操作に終わってしまうものがあまりに多い。
さらに、本当は編者が序文で、いったいこれは本全体としてどんなことを意図しているのか、そしてその全体の構想にそれぞれの論文がどう貢献しているのかを説明すべきなんだが、それがない。風景とか日常とか環境とかいったあたりの美学の話にはいろいろあります、というんだけど、それだけでは話がとっちらかっておしまいだ。その中でどういう切り口を考えて見たのか、という論集としての構築性がまったくない。今後の展望も何もない。
で、これに科研費がついたんですか? 文部省さん、いいの?
第1章:風景の美学
崇高の美学みたいな話やトゥアンの風景論やら風景のとらえ方をあれこれ並べてある。それで?
第3章:地方色の問題
人は旅行に行くと「旅先が観光客だらけだった」と自分が観光客の一人であるのを棚に上げていうけれど、なぜ他の観光客がいるといやなのか、というような問題。結局風景とかはそこにある物理的な実体だけでなく、受け手の認識や期待とも関係して意味づけが行われるから、という話。そうですか。
第4章:都市景観の相対性理論
高速道路からの眺めとかが都市の景観としておもしろいという話。それはあるだろう。でも、そこから論者はヴィリリオの話や映画談義などくだらない文化論に移行して実際の景観の話をやめてしまってがっかり。この話をするなら、Kevin Lynch & Donald Appleyard The View from the Road が60年代にすでに高速道路からの移動景観について、実際にその景観体験を描くための記号まで考案して、遥かに緻密な議論をしている。が、言及なし。いまは手に入れにくい本とはいえ、景観や都市イメージ論なら一大先駆者のリンチの本だし、学者なら不勉強のそしりはまぬがれないのでは。
第5章:庭園の道具
桂離宮のちょっとした屋根小屋が、機能的な意味だけでなく美的な意味も持っている、という話から、その特殊性をトマソンやデュシャンと比べる話。まあ議論はわかる。もう少し機能性と美の関係を詰めてくれれば……
第6章:森林美学の歴史と射程
森林美学なるものの、内外での歴史をたどる。歴史のお勉強としてはOK,最後の提言はつまらない。この提言を出すには、審美的によい森林がよい生態系サービスを提供する、という裏付けがいるけど、それがないでしょう。
第7章:都市公園の美学的問題
公園機能のおさらいをして、今回の震災で公園が安全機能を果たせなかった、でも芸術は公園の安全性を確保するのに役割が果たせるそうな。が、あの津波で公園が安全機能を果たせなくて責められるいわれはない。芸術的になんかすれば、津波の被害がとどめられたとでも? で、公園はその他いろんな機能を果たせるよと羅列しておしまいで、その中にあまり論理性なく芸術の話が出てくるが、論旨とあまりうまく関係づけられていない。
第8章:生活場所としての人工地盤
ル=コルビュジェが使いたがった人工地盤の話をして、そこから唐突にヴェンダース映画の話でデファンスの話をして、そこから人工地盤の身体性なるものを勝手に言いだし、そしてそれを実際の人工地盤に活かすのが重要というんだけど、なんで? たまたま著者が映画で注目したからって、それが重要ってことにはならんでしょうに。
第9章:旅の世紀としてのイギリス一八世紀
観光旅行が生まれて旅行記や旅行物語が人気を博するようになった。その歴史をたどったもの。それだけ。
第10章Souvenier
観光旅行には土産物がつきもの。でもsouvenier はみやげ物とはちがうんだという話をして、souvenier にまつわるいろんな概念をあれこれ並べる。souvenierは記念品的なものだがみやげ物は食い物が多いとか。ふーん。あまりぴんとこないが、まあちがう面もあるでしょうねえ。でも著者が言うよりは重なる面も大きいと思うよ。
第11章映像による都市イメージの生成と変容
岩井俊二のラブレターに描かれた小樽像が、ありがちな小樽の運河を使っていないことを指摘して、映画の中のイメージと実際の都市との関係を考えようという。本書の中で、論点としてはおもしろい部分もある論文。あと二、三歩ふみこんでくれれば少し読めるものになったかもしれない。
第12章:数寄と遊芸
最近は芸術概念が広がってきてだんだんアマチュアの活動も芸術的に理解されてきて、それはかつて日本の文化でも見られたことで、参加的な芸術への移行が、という。まあそうですねえ。
第13章:雰囲気的景色観と雨境
日本人はことのほか雨を好んできていろんな芸術に登場させてきた、景観もいろんな形で描いてきたという。書き手の嗜好の表明としてはわかるが、それで? エッセイとしては楽しく読めるが、論文ではない。
第14章:生活に浸透するアート
いろんな災害や支援活動で芸術が使われましたと言う事例紹介。で、それは何か役にたったのか、という検証なし。で、アートの役割が大きく変わってきてそういう他人の危機につけこんで己の活動を広げるのがアートになったんだと。「社会がアートを必要としている分、社会はアートをケアする責務がある」。何威張ってんだよ、いけ図々しい。人々は何らかのアート的なものを求めるかもしれない。でもそれは、カラオケ大会や盆踊りや自分での各種活動でも担保できるかもしれない。なんでアーチスト様のパフォーマンスやらのご指導を受けねばならんの? 勝手にドヤ顔で支援しろというのは太い考え。
第15章:掃除ポイエーシス
汚れとか穢れとか、それに対する過剰な清掃とか、一方で浄化のアレとか、整理されない論考。いろいろありますね。
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