エゴサーチ: 富岡日記とSF業界の後編 redux

二年ほど前に、「エゴサーチ: 富岡日記とSF業界の後編」というエントリーを書いた。

cruel.hatenablog.com

さて、これは実は、もっと長いモノを書いていたんだけれど、それを査読してもらった人に、こんなものを公開してもだれも喜ばないと言われて、ひっこめて短縮版をブログに乗せておいたのだった。それに、どうせこれを読んでもあまりわかる人もいるまいと思ったこともある。

でも最近、藤田直也という評論家が、SF作家クラブの腐敗を告発するとかいうことをツイッターで言い始めつつ、急に腰砕けになる醜態を見せた。

togetter.com

その周辺のいろんな発言とかを見ているうちに、少しはこんな文も意味があるかと思うようになった。

さて、この藤田直也の一連の発言というのは、自分の個人的な恨みやら保身やらを、いかにも公共的な告発であるかのように見せかけて投げ散らすというどうしようもない代物だ。自分の利益にかなうときだけ公共性を持ち出すというのは、ぼくは卑しい行いだと思う。そしてそれについて最後まで面倒を見ることもせず、すべてうやむやで終わらせる。結局、それにより何ら公共的な議論や見識が深まることもない。何やら裏でごちゃごちゃ、気持ちの悪いことが進行しているんだな、というのがわかるだけ。そして、それをめぐってくだらない憶測、情報隠しと歪曲とそれに伴う各種の疑心暗鬼だけが広がる。

ぼくはそういうのは不健全だと思っている。そして、ぼくは各種の(利己的に見える)動きにも、通常はそれなりのもっと大きな背景があると思っている。人々をそうした、利己的に見える行動に駆り立てる力があると思う。それを理解しないと、各種の「告発」と称するものは、それ自体が単なる利己性に基づく場合であればなおさら、単なるレッテル貼りと目先の犯人捜しに堕し、単なるゴシップのネタでしかなくなる。

ぼくは前回の「エゴサーチ: 富岡日記とSF業界の後編」で、そのさわりをちょっと示した。でもそれをもっと詳しく書いたものを、ハードディスクの肥やしにしておくのももったいない。そして、ぼくは当時のSFファンダムの状況というのは、日本の文化史においてもちょっとは重要だったと思っている。その雰囲気を理解してもらう意味でも、多少の意義はあるんじゃないか。

というわけで、こんな文書:

大森望(とそれを敵視する人々)についてぼくが知っていた二、三のこと:1980 年代からの遺恨とは(v.1.3) (pdf, 500kb)

各種記述の根拠については、文中でそれなりに示したつもり。もちろんそのサンプル数が多いわけではないけれど、統計的に処理するような話でもない。でも、これに対する反証が出る余地もあるとは思う。そういうのがあれば是非ご教示いただきたい。

これに限らず、当時のファンダムの状況というのは、もっときちんと整理して記録しておくべきだとぼくは思っている。当時の各種ファンジンには、SFファンダム勢力図分析みたいなのがときどき出ていた。ああいうのを掘り出して提示しておくのも、決して無意味ではないと思う。少なくともいくつかあった大きな論争とかは。SF論争史とかいう本もあるけれど、その多くは当時の論争の当事者がまとめたりしていて、自分に都合の悪いものははずされたりしている。この文で挙げたような話は、たぶん多くの人は存在すら忘れているかもしれない。でも、そういうのがそれなりに意味を持つことも多少はわかってもらえるんじゃないか。