2月20日に上げたエントリーで指摘した、増田悦差によるぼくのジェイコブズ翻訳に対するまちがった因縁記事が、修正された。該当する部分は削除され、その旨のコメントも最後についている。
素早い対応、感謝します。
一応、放置しようと思いつつも、このままだとNTT出版も可哀想かも、と思って連絡窓口に指摘をしておいたんだけれど、三日ほどで対応してくれたことになる。
Having said that... こうして直されてしまうとおもしろくないので、言わないままにしておけばよかったかなー。
都市って自由放任ではできないのよ
で、ついでだから中身についてもコメントしておく。増田の主張は、ジェイコブズは都市計画すべてを否定していた、自由放任の都市がすばらしい云々、というもの。
これがとっても浅はかで馬鹿な主張だというのは、都市というもの――特にここで問題にされているような大都市――を考えればすぐにわかる。
だって、高密で人が居住するためには、各種インフラ、たとえば上下水道必須ですよ。上下水道が民間の自由放任だけでできた例は、たぶんほぼないよ。井戸や、せめて浄化槽ですんでいるレベルの小さな町くらいならなんとかなるかも。でもちょっとでも大きくなれば、そうはいかない。
ジェイコブズは都市の見事な自立的秩序を示すために、「歩道のバレー」という有名な描写を使う。ジェイコブズが当時住んでいたマンハッタンのグリニッジビレッジでは、歩道を店主がはき、通勤者が使い、子供が遊び、買い物客が通り、見知らぬ人が迷子になり、それを住民が助け、あれやこれやと常時人が通って様々な活動が入れ替わりたちかわりあらわれる。それが都市の活力をうみ、そしてそれ自体が治安を守る監視装置となる。そうしたジェイコブズの描写を見て、都市の自律性に感嘆し、お役所の安易な都市計画に舌打ちしてみせるのは、まあ多くの人々の常道だ。
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が、そこから都市計画すべてが不要だ、という結論は出てくるだろうか? はやい話が、その舞台となった歩道は自然にできたの?都市計画があったからこそその歩道が設置されたんだよ。ジェイコブズの歩道のダンスは、マンハッタンの都市計画があって、それを前提に初めて成立している。
ジェイコブズだって、その程度はわかっている。彼女は、完全なトップダウンによる計画――各種ニュータウン的な計画やブルドーザー型都市計画――に反対しているのであって、増田が言っているような公共的な介入すべてを否定してるんじゃない。
だが、ルドフスキーの賛美する非計画性は、だれも他人の行動を操作しようとせず、大衆が自分たちの都合に合わせて住むところ、働くところ、買いものをするところ、飲み食いするところ、遊ぶところを重層化させた、文字どおりの非計画性ではない。当人はそんなものがこの世にあり得るとは思っていないし、あったら自分の繊細な美的感覚にはとうてい耐えられないような猥雑な街路になるだろうと思っている。
うん、ぼくもそう思っている。それも「自分の繊細な美的感覚にはとうてい耐えられない」どころか、現代日本人の大半の美的感覚に耐えられないものになると思う。当の増田を含め。だって、実際そうなってるもの。ぼくは世界各地のスラムにもでかけている。それは「大衆が自分たちの都合に合わせて住むところ、働くところ、買いものをするところ、飲み食いするところ、遊ぶところを重層化させた、文字どおりの非計画性」の発露だけれど、決していいものではない。
ものすごく時間をかければ、そういうのもあり得るかもしれない。イタリアの一部の都市や、イスラム都市のカスバなどは自然発生的な集積から、おもしろい空間が数世紀かけてできあがってきた(ちなみにそれをがんばって指摘してきたのが、増田がけなせたつもりでいるバーナード・ルドフスキーだ)。でもそれがあらゆるところにあてはまるだろうか。ぼくはそうは思っていない。
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「だれも他人の行動を操作しようとせず」と増田は書く。でも都市計画は、そして建築そのものは、すべて他人の行動を何らかの形で操作する行動だ。壁を作れば、それは人の動きを制限する。ドアを作れば、それは人の動きをそこに集約させる。そしてレッシグが指摘するように、それ(アーキテクチャ)はあらゆる規制制御の力中でもっとも強く、最も強引で、最も有無をいわさないものだ。その認識がない人は、建築や都市計画について語らないほうがいいと思うのだ。そういう人々のいう「都市計画」とか建築というのは、単なる意匠のことだったりする。あるいは「願わくば、人を集める「こと」が、いい芝居、感動的なコンサート、安くてうまい露店や洒脱な大道芸であって」といったような、きれいなお店とかお芝居とか、そんなのが「都市」とか「都市計画」だと思っている。
でも都市計画は、その大道芸が行われる場所をどう確保するかとか、その「こと」で集まってきた人のウンコをどうするかとか、そもそもその人々はどうやって集まってくるかとか、そういう部分の話だ。そういうものが自然にできていると思っている増田は、そもそも都市のなんたるかがわかっていない。自由放任の都市を夢想する増田は、その「自由放任」に思えるものが、実はそれまでの計画による空間その他に規定された制約の結果なんだということをまったく理解できていない。
これは、経済そのものについても言える話だ。自由放任すれば経済すべてオッケーなんてことがあり得ないのは、そろそろ明らかなはずなんだけどね。本当に自由放任すれば、独占、汚職、価格操作、ギャング活動、公害、その他あらゆる被害が出る。市場がきちんと機能するための制度がないと、自由放任では話が進まない。自由放任の旗をふる人の多くは、自分たちがいかに不自由かに気がつくだけの想像力がないだけで、あらゆる人が自分と同じお行儀良さを保ってくれると無根拠に想定してしまっているんだけど、そんなことはないのだ。
前に『たかがバロウズ本。』で書いた通り、お金/経済にしても、言語にしても、それはぼくたちを解放してくれるものであると同時に、制約するものでもある。建築や都市計画もまったく同じだ。ある都市にやってきて、そこが自分をちがう形で制約するのを感じる――それと同時に、その制約が別の可能性を実現させてくれることにも気がつく。その自由と不自由両方を、同時に、同じモノとして感じることが都市体験なんだけれど、増田はその不自由のほうにまったく気がついていない。
確かボルヘスの小話(千夜一夜物語かなんかから採ってきたと称するものだった)に、こんなのがあった(『続審問』、だったかな?)。昔、あるところに王様がいて、巨大な迷路を作った。砂漠の国のスルタンがその国を訪ねて迷路見物を所望すると、王様はそのスルタンを迷路にほうりこみ、スルタンはそこを脱出できず三日三晩さまよい、半死半生の状態で引っ張り出された。
その数年後、スルタンはその王国を襲って滅ぼし、王様を拉致する。そして、迷路のお礼に自国の迷路を体験させてやるという。王様は、砂漠の真ん中につれてこられて放置され、そのままのたれ死んだとさ。
- 作者: J.L.ボルヘス,Jorge Luis Borges,中村健二
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迷路は、完全に人為的な計画空間だ。砂漠は、完全に自由放任の空間だ。さて、本当に自由放任がよいんだろうか?