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小田嶋『友だちリクエストのなんとか』:恥ずかしいだけの本

友だちリクエストの返事が来ない午後

友だちリクエストの返事が来ない午後

小田嶋隆は、かつて別冊宝島なんかでもよく書いてたことからもわかる通り、ちょっとひねくれた偏狭な視点をもって極論の放言でウケを取りつつ、たまにそのひねた偏狭な視点が、世間的に声の大きい議論の歪みや盲点をうまく突くことがあるので重宝されていたライターではある。その点で、かれは内田樹と同じ種類の物書きだ。内田も、街場とかおじさんとか、本来はあまりシャープな視点を持っていないと思われている立場が、逆説的に鋭いつっこみを入れられるというのを売りにして出てきた。

この手の物書きは、自分がひねた視点のマイナーな存在であり、基本的には底の浅い放言をしているという立場をわきまえていればおもしろい。道化みたいなもんですな。でも、いくつか世の中に対してうまい突っ込みを入れてヒットがいくつか出ると、こういう人々はときどきかんちがいを始める。自分の当初の立場だったのを忘れて、自分がなんかえらいと思い始める。隅っこから石を投げてるのがおもしろかった存在が、なんかスポットライトの真ん中で光を浴びて芸が張れるように思い始める。

世間に対してえらそうな口がきけたのは(そしてそれがおもしろかったのは)その人がひねた存在として憎まれ口を叩いているんだという前提があればこそ。そして、だからこそ、偏狭でサンプル数の少ない視野の狭い知見をもとにあれこれ言っても、それがその視野の狭さ故におもしろがられる。ところが、それを忘れて胸を張って世間を見下して説教できると思い始める。何やら世評が評価されたから、自分の狭い視野というのは実は狭くないんじゃないか、と内心で思い始める。そして最近――というかここ10年以上――の内田樹のように、自分の特殊なスタンスが優位性をもたないどころか、単に偏狭な無知ぶりを露呈するだけの場面にまで、いっちょまえの口がきけるように思い始める。

小田嶋隆の最近のエッセイはこの段階にきていると思う。小田嶋の文はもちろん、自分はいかにダメで大した知見はなくてあまり考えてなくて云々という自虐ネタをたくさんからめる。当人はたぶんそれで、自分がもとのひねた偏狭ぶりについての自覚を維持しているつもりなんだと思う。でもいまや、それはむしろ逃げ場を確保しているだけなのね。

で、本書はそのさらに先に進んで、小田嶋隆が自分の狭さを一般論的に肥大させると、みんなが感動して賛成してくれると思い込んでしまったとおぼしき、夜郎自大な卑しい一冊になっている。

フェイスブックの友だち機能に愚痴をたれ、まわりの連中と話してみたら1人になるのを恐れているので、最近はオレみたいな一匹狼がいないのではとか言うんだけど、そりゃあんたと話をするような人間はそもそも一匹オオカミじゃないだろー。会社では友だちできないとかいうんだけど(作れるやつは間抜けなんだって)、普通にできますが? 地元での接触もないので地元でも友だちできないと言うんだけど、じゃあ地元で接触増やす活動したら? とにかく、自分の不活動と無能ぶりを一般化して、友だちとは〜 友情とは〜 仲間とは〜なんて言ってみせて、それが感動的だと思っているところがほんと度しがたくて卑しい。

学校時代は人間関係があり各種活動を共有していたから友だちができた。社会に出てからはそれがなくなったから男は友だちができないというんだけど、それは「できない」ではなく「作ってない」だけだ。己の怠慢を一般化して、それが常態であるかのように言いつのり、そこから何やらナルシスティックに昔のつきあいをふりかえる。これはそういう本だ。

そしてその一方で、実は本書は友だちを普通に作れている人――いや別に「友だち」でなくたっていい。いろんなレベルのいろんな人間関係でいい――をねたましく思っている。自分は人付き合いが好きではなく、1人でいるのが好きだ――それはそれで結構。楽しく1人で過ごしてくれればいい。ぼくもそういう楽しみはわかる。でも本書は、そういう爽快さはない。小田島の文は、実はそれに不安だかなんだかを覚え、なんかそういう人間関係があったほうがいいんじゃないかと思っている。たぶん寂しくなってきたんだろう。でもそれをあんまり認めたいとは思っていないので、会社で友だちをつくる人間を間抜けと呼び、フェイスブックでやりとりをする人々を軽薄で強迫観念で云々とけなしてみせ、己の怠慢を正当化する――醜悪で卑しい本だと思う。

もちろん世間には、そういう怠慢を共有し、それについての弁明を求めている層もいるだろう。だから本書が受け入れられる下地も多少はあるんだろうね。でもそれは、本書が卑しい読者にアピールする卑しい本だというだけだ。昔の小田嶋は、その卑しさを自覚できて、それを自虐ネタにできただろう。でもいまの小田嶋は、自分がとても深遠な人生哲学を述べているつもりでいるようだ。

こういう評を読むと、小田嶋の文は「いや自分はそんなことは自覚している、自分なんて大したことないライターで〜」とか弁明をするかもしれない。「逃げ場を確保している」と書いたのはそういうことね。でも内心、かれはそう思っていないと思う。それでも自分が立派な視点を持ち立派なことを言える存在だと思っているらしい。それを示すものとして、たとえば本書で、かれがスティーブン・キングを引用するところがある。

スティーブン・キングが『スタンド・バイ・ミー』の最後に書いた文を引用する。(中略)


「私は、あの12歳の時に持っていた友人に比べられるような友人を、その後、二度と見つけることができなかった。くそっ、そんなこと、誰だって無理に決まってるじゃないか」


まったくもってスティーヴの言う通りで、年齢を重ねてから、子供時代と同じような友だちを作ろうと思っても、そんなことは誰にもできない。(pp.22-23)

スティーヴ……小田嶋はいつの間にやら、自分がスティーブン・キングをファーストネームでため口たたける存在になったつもりでいるらしいことがよくわかる。もちろん、小田嶋隆が十分その資格を持つ立派な物書きだと思う人はいるだろう。ぼくはそうは思っていないので、この下りを読んで驚いた。この傲慢なぼくですら、ポール・クルーグマンの発言紹介で「ポールは〜」とか、ウィリアム・バロウズについて書くときに「ビルの作品は〜」なんて書いたことはないのに。スティーヴ、ですか。でもひょっとしたら、どこかで会ってお友だちになっているのかもしれませんね。うらやましい。そうだとしたらごめんなさいね。あるいはすっごくアメリカナイズされていて、会って十秒後にはあらゆる人間をファーストネームで呼ぶ、そんな習慣がついているのかもしれませんね。でもそうでないなら…… 本書は、そういう段階にいる書き手による本だ。