- 作者: アンナ・カヴァン,山田和子
- 出版社/メーカー: 国書刊行会
- 発売日: 2013/01/22
- メディア: 単行本
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アンナ・カヴァンの作品は、しばしばカフカ的だと評される。抽象的で正体不明な人々。何を裁いているかもわからない裁判。何かはわからないが強大な権力を持ち、自分を抑圧する組織。何のために収容されているのかもわからない収容施設。その中で主人公「私」はなすすべもなく翻弄され……
その不安、悲しみ、絶望をカヴァンは描く。だが、一方でカヴァンの作品は奇妙な感傷に満ちている。不当な抑圧に怒り悲しむ自分は、単に無力なだけではない。憎み、軽蔑しているはずの抑圧者に、自分は依存している。それどころか、むしろ積極的に協力して自主的にかれらにとらわれているのが自分自身なのだ。主人公は、実は自分でもそれを知っている。誰かの助けなど期待できないことははるか昔に悟った。ときに雄々しく抵抗と脱出を夢想したところで、自分がそれをやりぬく意志も気力もなく、安きに流れるのを知っている。その自覚に伴う自嘲、諦念、そして時に妙な安堵感までがそこにはある。
それが一見単純に見える物語に、突き放したドライな印象をも与えている。彼女の作品、特に後の長編は、ときに散漫で私的な恨み言に流れてウェットになりすぎる。だが、彼女が作風を確立した本書では、それが見事なバランスを保っており、ぼくはこれが彼女の最高傑作だと思っている。
本書にあるのは、後悔と絶望と己の見え透いた弁明だ。やろうと思ってやらなかったあの作業。明日こそ本気を出すと思いつつしぼんでしまったあの決意。それも、誰が止めたわけでもなく、自分自身の尻込み故に何もできなかったという悔悟と絶望。そして、再び「明日こそは」と思いつつも、自分がそれをやらないこと、自分が再び逃げること、状況は決して変わらないことを、本書は諦めとともに淡々と語る。
一言で、あなたたちは本書に自分自身の逃れがたい弱さを見いだすことだろう。(2013年3月3日掲載、朝日新聞サイト)
コメント
本書を読んで、カヴァンが正直だとか言っている人はたぶんだまされやすい人だと思う。非常に悲劇的なのに本書がつきはなしたようなドライさを持っているのは、基本的にカヴァンが実は余裕かましているからなのだ。彼女は、自分自身の悲しさとかつらさとかをつきはなしていて、それは自分が実は進んでそこにいるのだというのを自分でも知っていて、したがって自分(そして他人)の苦悶や孤独や幽閉の苦しみを実は冷笑しているから、でもある。
文中にときどき出てくる鳥――自分だけに見える鳥――だけは、他のかなり計算された書き方とはまったく浮いた描かれ方で、違和感があるとともに、何か切実さがある。そういう部分がカヴァンの作品に一点だけ色彩を与えていて、ぼくはすごく好きではある。
なお、実際のカヴァンはとっても嫌で独善的なやつで、バロウズが述べたように「ジャンキーは次の一発がどこからくるかしか考えていない」というのを地で行くような人だったみたい。
なお、途中まではこんな文にしようかと思っていたんだけれど、書きかけてうまくいかなかった。
ヒッキーたちよ、メXXラたちよ。これは君たちの本だ。君たちのための本、ではない。でも君たちの本だ。世間におしつぶされ、手も足もでない無力感の本。その世間――それは自分の家族であり、世間に怒りを感じつつももはやその理由も相手の正体もどうでもよくなっている。「なぜか」「やつらが」。だいじなのは相手ではない。主役は自分だ。気弱で何もできず、何もできない自分に対するもどかしさだけがそこにある――そしてもっともどかしいのは、実は自分は何もできないわけではなく、単に何もしないだけなのだということを、自分でも知っているからだ。明日こそは、今度こそは、次こそは――でも明日も今度も次も実は何も起こらないことを自分は知っている。自分こそが自分の牢獄であり、アサイラムだ。本書はそうした自分を描き、さらにその自分の欺瞞を見抜いている自分自身を描き、そしてその二重の出口のなさを知っている自分をさらに描く。これは君たちの本なのだけれど、でもそこに鳥がときにいて
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