なんだか先週で、東京ではいろんな劇場でブレードランナー2049が公開終了になってしまっているようで、うーん、残念きわまりない。とはいうものの、一方でまあ仕方ないか、という気もする。
ぼくは映画や小説について、予備知識なしで見ようとは思わない。オチがとか、ネタバレとかいうので騒ぐのは愚かしいと思っている。事前の情報をなるべく遮断して白紙の状態で見たいという気持ちはわからないでもない一方で、まあ完全に白紙で見るのはどうしたって無理なんだし(そもそもその映画を見に行こうと能動的に思う時点で色はついてるよね)、いろんな人の見解で事前にあれこれ想像するのもきらいではない。
ということで、今回のやつについてはいろんな人の意見を事前に見た。で、ご存じの通り、ブレードランナー2049は、評論家ウケは大変よかった。長いけれどすばらしい、続編のプレッシャーを見事にはねかえし、独立した作品として云々、さすがビルニューブ等々。
その一方で、なげーよ、意味分かんねーよ、前作マニアしか見ねーよ、というご意見もあったけど、こちらはバカっぽかったのであまり真剣にはとらえなかった。ぼくは「シカリオ」(えーと、邦題は『ボーダーライン』か)と『メッセージ』を見てビルニューブ絶対支持だったし、外すわけがないと思い込んでいたせいもある。
だけどアメリカでの公開直後、かつてNetscapeの名物開発者だったジェイミー・ザヴィンスキーがきわめて否定的な感想をネットに挙げていて、ぼくはあれ、と思ったのだった。
かれの批判というのは、これがあまりに前作に依存しすぎていること。なんかあれやんなきゃ、これやんなきゃというチェックリストを律儀にこなしているだけで、金のかかったファン映画みたいだという。うーん。同様の感想は、他にも何人か比較的鑑識眼を信頼している人からもきかれた。
そして自分で見終わって、ぼくは絶賛派の人々の言うことも、罵倒派の人々の言うことも、どっちもたいへんよくわかるので、ちょっと困っている。場面のていねいな作り方、出し惜しみしつつ観客の期待を盛り上げるやり方、冒頭の太陽光発電のビジュアル等々、ビルニューブだねえ、いいねえ、というのはあった。そしてテーマも頑張ってた。Kと、ジョイと、ラブの部分で人間とAIとレプリカントのちがいをテーマとしてあれこれ追求していた部分はよい感じだった。
特にジョイの部分はよくて、いろいろあって彼女が破壊されたあとで、街頭CMの巨大なジョイの映像が、Kに話しかける。そのときに使われるせりふは、最も親密だったはずのジョーという名前も含めて、Kと関係を築いていたはずのジョイとまったく同じ。
それは、Kにとってどういう意味をもつのか。ひょっとしたらそれは、単純に自分のジョイちゃんを思い出す契機だったのかもしれない。でもひょっとしたらそれは、「自分の」ジョイだと思っていた存在、それが自分だけに向けて言っていると思っていたせりふが、結局はAIのパターンでしかないことを認識させられる悲しい瞬間だったのかもしれない。だからこそ、あの瞬間にKの決意のすべてがある。かれはそこで(革命軍の指示にさからって)デッカードを助けようと思う。自分にとっての大義、生まれてきたものには魂があるのだという考えに奉仕するべく。
そしてラブのかっこよさは圧倒的で、やっぱ彼女はレプリカントのあるあり方を代表し、それを実現しようとする存在としてこの映画を生かすものとなってはいる。彼女がもっと活躍してくれていれば……
一方でこれが長くて退屈な部分もある映画だということも、否定できないと思う。なぜそうなったかといえば、全体に真面目すぎて、いろいろ説明しようとしすぎているせいだと思う。別に画面に出さなくていいものを出してしまい、せりふでいろいろ説明しすぎているせいだと思う。そして同じ事かもしれないけれど、前作を意識しすぎ。前作と関係ないところは、とてもいいのね。でも前作とつなごうとする部分が非常に苦しいしくどい。
その最たるものは、レイチェルの復活シーン。復活して、「ちがうよ」と言われてすぐに殺されておしまい。デッカードが新生レイチェルを見てもっと迷うのでない限り、話としても場面としても不要な寄り道だったと思う。そして、ジャレッド・レトが聖書の引用したりする場面(いやジャレッド・レトの場面すべて)は、もったいつけているだけで、エンジニアリング的な課題が倫理道徳的な問題と衝突する厳しさを殺していたと思う。もっとレプリカント増やしたい、そのために自力繁殖させたい――そういうエンジニアリング/テクノクラート的な合理主義だけでつきすすむほうが怖かったと思う。出荷品を殺しちゃったりして、お客さんにどう説明すんのよ。
そのもったいの付け方も、ジャレド・レトはがんばってるんだが、かれのメソッドアクティングっていつも頑張りすぎでうっとうしいんだよねえ……
ついでに、レイチェルがダメならすぐに強制労働って、社長さんあんたバカですか。「え、何言ってんですか。お子さん見つけても殺したりしませんよお。どうして生きてるかってのがまさに私の知りたいところなんですから。希望の星ですよ。なんでそれを殺したりするもんですか」とだまして(というか、ホントにそのほうが筋が通ってると思う)時間をかけて懐柔すればすむ話じゃないですか。んでもって、まだ半信半疑のデッカードをおもてなししつつ、ラブ様を警備役につけておくと、デッカードを娘とあわせようとするKがやってきて、それとストレートに対決させればいいんじゃないですか。あの暗い海の戦いはちょっと見にくかった。
娘も実際に出てくる必要なかった。ホント、ラストで実際に会わなくていいじゃん。あの場面、あられもなくて下品だろ。建物に入ってくだけにしとこうよ。娘がなければレプリカント革命軍もいらない。出てきても何もしないなら無駄でしょう。実はおまえじゃないんだというのは、他にいろいろ気づかせる道はある。すると娼婦レプリカントは普通の娼婦役でかまわなかった。エルビスもいらない。ラブ様は異様にかっこよかったので、もっと活躍してほしかったし、ミサイルの場面は唐突だから削るか、あるいはバトルでもっと衛星を活用する場面を増やして有機的に使ってほしい。ミサイルがなければ孤児院の場面もいらないでしょう。馬を見つける口実くらい他にあるでしょう。
それとLAPD署長は、なんで人類守護の変な使命感に燃えちゃうの? 不自然だからやめようよ。うちの近所の牛込警察署長さんは、あんな面倒な話を自分一人でなんとかしようとは思わないよ。前作では、デッカードに仕事を出す署長かなんかは、ホントに下卑てて、でもそれが人間っぽくてよかったんだよね。署長は何も気がつかずにのほほんとしていて汚職にでもいそしみ、ウォーレス社が常に警察のシステムもモニタして一方的に気がついたことにして、署長は何もわからないまま、悲しい小役人としてあたふた殺されるとかのほうが感動的だと思うな。
と、大幅に刈り込むと全体で2時間くらいの映画になったんじゃないかな。主要なテーマは全部残る。風景も全部残る。ジョイちゃんの場面も残る。ビルニューブっぽいところも全部残る。それで公開し直してみたら、すっきりしてわかりやすくて、もっとヒットするんじゃないかなあ。
追記
あー、そうそう、人によってはネタバレと思うような内容も入ってるから、そういうの気にする人は注意してね。
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