Executive Summary
アンダーソン『チェ・ゲバラ:革命的人生』はすごい伝記ではあるが、1997年の初版から2010年の増補版への改訂で、ゲバラがつかまるときに命乞いをしたという一節がなぜか削除されており、ネット上ではそれが政治的圧力によるのではと勘ぐる声もある。また、伊高の新書に出ている、彼の愛人と隠し子の話が一切触れられていない。アンダーソン本の執筆当時はすでに、その話はでまわっていたし、ゲバラ未亡人アレイダ・マルチも知っていたはず。なぜ噂としても触れられていないのかは不思議ではある。
チェ・ゲバラの命乞い&愛人隠し子と「ゲバラ伝」での削除
以前、アンダーソン『チェ・ゲバラ:革命的人生』(増補版、2010) を絶賛した。
そしてその絶賛はいまも変わらない。チェ・ゲバラの伝記としてこれ以上のものは今のところ出ていないと思う。今後、これ以上のものが出るとすれば、ソ連の南米工作の全貌が暴かれ、その中でチェ・ゲバラのオルグがどのように行われたかが暴かれるときぐらいしかないだろうとは思う。
ゲバラの命乞い?
だがこの伝記について、ネットでときどき悪口を見かけた。次のようなものだ。
Jon Lee Anderson's biography is the definitive one on Che. The Commies have been able to delete the sentence "“Don’t shoot. I am Che Guevara. I am worth more to you alive than dead” on page 733 from the digital versions of this book pic.twitter.com/qK8j07Ibui
— Pururavas (@pururavas19) 2020年6月14日
チェ・ゲバラがボリビアで捕まったとき「撃つな! オレはチェ・ゲバラだ。殺すより生かしておいたほうがお前にとって価値があるぞ!」と叫んだ、つまりは命乞いをした、という話だ。そして、それが何やら政治的圧力で削除された、という説となる。
さて、ぼくはこの本の紙版を持っていた。だからそもそも紙版にもそんな下りはないことを確認したので、このツイートの返答にもそう書いた。でも、この一節はその後もあちこちで見かけたし、一部の雑誌記事の見出しにまで使われていたので、このツイート者の捏造ではないのは確かだ。どこかの本か何かにあるはず。だから気にはなっていた。
そして先日、諸般の事情でこの伝記の初版を取り寄せて比べて見たところ、やっとどういうことなのかはっきりした。
この一節は、このアンダーソン本の初版 (1997, p.733) には含まれている。
でもいま出回っている増補版 (2010) には含まれていないのだ。
つまり、引用したツイートは、決してデタラメではなかった。デジタル版での削除ではなかったけれど、確かに初版と増補版の間で削除が起きている。そして、それについては何の説明もない。
これはいささか不思議ではある。チェが、自分はどうせ殺されないと高をくくっていたのは、この本の増補版でも書かれている。射殺するよ、と言われてかなり取り乱しそうな。だから、これが圧力をかけて潰すほどのものとは思えない。その一方で、なかなか印象的なせりふだし、普通は残すだろう。軍曹の後日の談話が信用できないと思った可能性はあるが、他にもそういう描写はあるし、不確かだと断りつつ置いておく手もある。完全に消した理由はさっぱりわからない。
ゲバラの愛人隠し子
あともう一つ、ゲバラ関連本をまとめて取り上げたとき、伊高『チェ・ゲバラ』(中公新書) を取り上げた。
さて、この本の中に、チェ・ゲバラが愛人や隠し子を持っていたという記述がある。これは、ある時期まではこの息子当人にも隠されていたのだけれど、彼が16歳だか25歳だかのときに実の父親について聞かされたそうだ。
この息子は1964歳生まれなので、つまり1980年か1990年頃には、この事実はすでに出回っていたということになる。伊高本によると、未亡人アレイダ・マルチもそれを知っていたらしい。というか、伊高ですら (というと失礼だが、すごい研究者というわけでもないのは事実) 耳にしたくらいの話だ。そしてその後、この息子自身があちこちで、ゲバラの息子としてインタビューに出たりしている。つまり極秘情報などではなく、公開されているし、隠そうという意図もないようだ。
ところが、1997/2010年に出たアンダーソン本には、これについての記述がまったくない。この本の恐ろしいほどの調査ぶりからすると、その噂が耳に入らなかったはずはないと思うのだが。他のいい加減な噂 (たとえば最後に中学校の先生とお話させてもらえたとか) については、注に書いてそれを否定する、という手順を踏んでいるが、これについてはまったく何もない。それ以外にも、他の各種伝記はおろか、ウィキペディアにもこれについての記述はまったくない。どういう事情でこれが黙殺されているのかはよくわからない。なんとなく、圧力があるのでは、という印象も受ける。
さて、他の人の話ならば、「ゲバラさぁん、隅に置けませんねえwww」「意外と人間くさいっすね」ですむのかもしれない。だがゲバラに関する限り、そうはいかないだろう。彼は自分の工業省で、不道徳な連中を叱責し、「自主」サービス残業/休日出勤を強い、矯正労働改造所に送って「自発的」奉仕労働をさせていたのだ。それは、ゲバラ自身が身持ちがかたく生真面目だったからだれも文句を言えなかった面が大きいらしい。それが実は裏で女を作り子どもを産ませていた、となるとラオガイ送りになった人たちはあまりに可哀想だし、ゲバラ自身の清廉潔白生真面目さという前提がかなり崩れてしまうのではないだろうか。
付記
こうしたものについて、はっきりと原因はわからない。命乞いについてのツイートで、政治的な圧力を勘ぐる見方もあることは述べた。そして、ゲバラが最後にアルゼンチンの政府転覆を企んでいたときの手先ブストスは、自分の手記の最後にアンダーソンの伝記について、自分のコメントが大幅に削除されたりしていることについて、政治的な圧力/取引があったのでは、と疑義を述べている。
確かにアンダーソン版の伝記は、完全に独立ではあるものの、キューバ革命の重鎮の実に多くにインタビューをしている。本来なら彼らにそうそう簡単にアクセスが得られるものではなく、また彼らが完全にありのままを打ち明けるとは考えにくい。キューバでは、外国人を自宅に招くことさえ問題視される (仕事で、お昼ご飯を (有料で) 出してくれた職場近くのおばさんは、密告され警告を受けた)。誰に会うか、何を言うかは政府がしっかり管理していると考えるべきだし、そもそも彼らに会う時点で何らかの公式筋との交渉はあったと考えるべきだろう。内容についても、すべて完全にニュートラルとは思わないほうがいいかもしれず、多少は情報源≃キューバ当局の意図も反映された部分もある可能性には留意すべきだろう。