役に立つ研究とは、みたいな話だがまとまらない

昨日、『史記』の記述をもとに「知識人、昔から変わんねーなウププ」という小文を書いた。

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するとこれを見てツイッターで「昔の中国の儒学者は、いまの知識人とは役割ちがうんだよ、そんなことも知らないのかバーカ、いまの知識人は何も役にたたなくていいんだよクソが」という非常に建設的なコメントをしてくれた人がいる。えーと、これか。

前半はその通り、というか、あそこに挙げた大室幹雄『滑稽』のテーマはまさにそれ。当時の儒学者とか諸氏百家の「思想」というのは、「ぼくのかんがえたさいきょうの国家統治手法=儀礼プロトコル」であって、儒学者は純粋にお勉強学問をしていたのではなく、自分の国家統治ツールを売り歩く、現代でいえばビジネスコンサルタントだったのだ。

そこらへんは、ぼくが「滑稽」岩波現代文庫版につけた解説でも見てくださいな。

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というわけで、ご指摘たいへんにありがとうございます!

でも後半、役に立たなくていいという話は、かつて訳したフレクスナー『役立たずな知識の有用性』なんかでも言われていて、大いに賛成する一方で、ぼくは百パーセント額面通りに受け取るべきではないと思っている。役に立たないことなんていくらでもあるんだけれど、その中でこの役に立たない活動をなぜ特別扱いして「学問」なんて言わねばならないのか? ましてそれを、場合によっては公共的に支援しなくてはならないのか? 知らんがな、とうそぶくこともできるけれど、でもぼくは、それはどこかで問われるとは思う。

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さらに、役に立たなくていいんだ、と胸をはるのは結構な一方で、やる側として多少の知見なり見識なりを出せずに、何の研究、何の知識、何の学問なんですか、というのはある。そんなことを思ったのは、イギリスにジェームズ・ボンド研究の国際査読ジャーナルってものがあるのを知って、笑ってしまったからだ。

jamesbondstudies.ac.uk

もちろん日本も在野のガンダム研究だのウルトラマンの怪獣研究だのは大量にある。いずれも何の役にも立たない。それをみんなが真面目な顔で楽しくやるのはとてもいいことなんだけれど、やっぱそれが、単純なウンチクとトリビアの集積合戦から、もう一段高い「研究」と呼べるような抽象度に移行する水準というのはあると思うんだ。

そしてそういう少し高い抽象度に移ったら、それが使える場面も出るかもしれない。世の中で何か、ジェームズ・ボンドのあり方が課題になったとき(たとえばプーチンが、マティーニはステアとシェイクとどっちがいいかと言い始めて岸田首相が入れ知恵求めるとかさぁ、マクロンが来日したときに鬼滅作者に会いたがって断られたというニュースがあったけど、そのマクロンに鬼滅フィギュア贈るならどういうのがマニア的にささるか、とかさぁ)、それなりの知見は出せてしかるべきだとは思う。

いや、そんなことを期待して研究しろって言ってるんじゃないよ。でも、一応研究とかいうからには、そういう利用にもある程度は耐えられる必要はあると思う。

そして「役にたつ」というのはそんな実用的な話である必要さえないよ。往々にして「役に立つ」というと、それはかなり矮小化されて「お金儲けに使える」という意味に解釈されることが多い。あるいは、何か技術的な応用があるとか。でも実際にはそうじゃない。それは、何らかの社会的な関心/興味に応えることであるはずだし、またさらには新しい社会的な関心/興味を作り出すことであるはずだ。

一部の研究と称するものは、よく侮蔑的にオナニーと言われる。一部のヒッキーニート諸氏は、たとえば伊藤舞雪と葵つかさのどっちがぬけるか、というような「調査」を自分を実験台にして日々やっていたりするわけだが、確かにそれを「研究でございます」と言うのはちょっとはばかられるだろう。

でも、そういう「調査」をある程度集めれば、ある種の属性を持つ人々の嗜好に関する「研究」にもなるし、それがいままでわからなかったコーホートの属性を物語ることだってあるだろう。さらにはその研究が、FANZAプレステージさんにとってはビジネス的にも有益なものとなる場合は多かろう。

そういう幅を考えると、絶対に何が何でも役に立つべきではない、みたいな考え方も、選択と集中でとにかくビジネス的な収益につなげないとダメ、みたいな話も変で、基本は好きなことをやりつつも、その活動としての矜持があり、さらには絵空事半分でもそれが別の文脈に位置づけられる可能性みたいなことは、視界の端っこくらいにおいておいてもいいんじゃないか、とは思う。

うーん、まだ自分でもよくわからないな。たぶん社会的な関心に応えるとか、それを作り出すという話のところにポイントがあると思うんだが、まあそれはまたいずれ。