『史記』に学ぶべき知識人の役割とは

Executive Summary

司馬遷『史記』に登場する焚書坑儒は、儒者どもが体制批判したせいだとされるが、実は穴に埋められた儒者たちにもそうされる十分な原因があったのかもしれない。かつて儒者を厚遇していた始皇帝だが、封禅の儀式のやりかたに結論を出せず、しかも後から揚げ足をとって悪口を述べた儒者の役立たずぶりに呆れた可能性がある。

これは二千年以上の時をこえた現代であっても、儒者=知識人の役割について何かしらの示唆を与えるものかもしれない。いやあ、古典って本当にすばらしいですね。


落合『殷』を読んでちょっと興味が向いて『史記』を実際に読み始めておるですよ。

一応歴史記録で話は淡々と進むし、本紀ではなぜか各種エピソードが何度か繰り返されて、続きを読んでいるつもりが話が戻っていたりして面食らうし、おもしろいからみんな是非読みなさい! というような本ではないのは事実。ぼくも意地と酔狂で読んでいるけれど、二度は読まないだろうなあ。

でも各種のノベライズ本のような講談小説じみたおもしろさを期待しなければ、なかなか楽しい部分も多い。いろいろ後の各種おはなしの元ネタもたくさん出てくるし。

やっぱ最初のほうで意外だったのは、酒池肉林で有名な、殷の紂王。酒と女に溺れていたんだから、さぞかし色ボケ暴飲暴食の、デブで暗愚の凡帝なんだと思ってたら「天性能弁、行動敏捷、見聞に聡く、素手で猛獣をたおし、悪知恵があって讒言も言い負かし、白を黒と言いくるめられた」そうな。すごいじゃん!

さらにご乱交を諌めた家臣を「おまえのような聖人の胸には7つの穴があると聞いているが、確かめてやる」と言ってそいつの心臓取り出して眺めてみたとか、最後は周の武*1の攻撃を受けて滅びるんだけれど、そのとき鹿台にあがり、宝玉で飾った服をまとって火に飛び込んで自害とか。北斗の拳のもとネタですか、という感じ。ドラマ作るべき。

あとは、かの九尾の狐が玉藻の前になる(そしてナルトに入る)以前の姿だった褒姒ちゃんが出てきたりすると、おおここにおいでなすったか、という感じではある。

が、閑話休題。しばらく読み進めるうちに、昔大室幹雄の名著『滑稽』で言及されていた、秦の始皇帝の話が出てきてとても懐かしかったと同時に、現代にとってもそれなりの教訓がある話だなあ、と思ったのです。

秦の始皇帝というと、もちろん焚書坑儒で有名ではあり、その後の歴史記録を担ったのは儒学者どもなので、うらみつらみもこめて始皇帝はなにやら反知性主義 (悪い通俗的な誤用の意味で)の暴虐非道な暴君であり、そのために国が滅びたような書き方をされることが多い。史記は基本的に、あらゆる皇帝、ひいては国の興亡は、その君主がどれだけ儒教的な徳を積んでいるかで決まる、という立場だから。一応、儒者が体制批判をしたので始皇帝が怒って焚書坑儒に乗り出した、というのが公式のお話だ。

が、実は秦の始皇帝は、決してそんな無学なバカではなかった。若き聡明な君主でもあった始皇帝は、当初は儒学者もたくさん雇っていたのだ。

でも、それがなぜ豹変して儒学者を皆殺しにするほどになったのか? もちろん自分の政策を批判されたせいもあるだろう。(ここらへんの話は後で始皇帝の話を読んで別に書きました。ご参照アレ)

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でも、どうもその前段がある。実は、秦の始皇帝が儒学者とからむ記述は『史記』で他にもある。「封禅の書」という部分だ。上のちくま学芸文庫版だと、第2巻に出てくる。そしてそれは、知識人の役割、という点でなかなか示唆的だ。

興味ある向きは実際に読んでほしいけれど、中国の支配者たるもの、中原を制するにあたっては、封禅の儀式というものをやらねばならない。『史記』の「封禅の書」の冒頭にも、封禅の儀式やらないで、何の支配者か、何の帝か、と書かれている。秦の始皇帝も、それは十分に承知していた。そしていろいろがんばった挙げ句、天下統一と建国の成果もあげたし、ここらで本格的に皇帝となるぜ、と思った始皇帝は、伝統に従って泰山で封禅の儀式をやろうと思ったわけだ。

が、戦乱の世でもあって、長いこと封禅の儀式なんかやった人はいなかったので、やり方がわからない。そこで、手下の儒学者どもに、そのやり方を相談した。ところが儒学者どもは、あれはちがう、これは簡便法で本当はこうあるべきで、とか相争うけれど 、まったく結論が出ない。

でもって頭にきた始皇帝は「あいつら、ごちゃごちゃ議論するばかりで全然結論でないじゃん」と見捨てて、自分でやり方を調べて、独自に儀式を行った。そして、もちろんその中身は儒学者どもになんか教えなかった。

するとその帰りに、始皇帝は嵐にあった。すると儒学者どもはいっせいに「ほれみろたたりじゃ、オレたちにあいさつしないで儀式なんかやるから」と一斉に悪口を言い始めた。

大室幹雄は、これと焚書坑儒との直接の因果関係について『史記』には明記されていないけれど、でもおそらく無関係ではないだろうね、という指摘をしている。

要するに当時の知識人たる儒学者どもは、ごちゃごちゃ身内であーだこーだと、細かいどうでもいいことで議論するばかりで、必要なときに使える知見を一切出せなかったくせに、部外者が自分なりに工夫して実践したら、一斉に結託して揚げ足取ってケチつけるだけだった。なんかどこかで見覚えある光景ですね。

だから始皇帝は「こいつら役に立たないどころか、ウザイだけのクソじゃん」と判断したわけだ。そんな連中、無駄どころかかえっていないほうがマシな穀潰しじゃん。そしてそんな連中が古い話を持ち出して自分の政策を批判するとかいう生意気な真似をするなら、積極的に始末しようぜ、と思ったらしい。

結局のところ要点は簡単な話。

  • 紀元前から、学者どもの役立たずな重箱内輪もめ体質はまったく変わっていないこと

  • 学問も必要なときには多少の役には立たないと、いずれ穴掘って埋められるぞ。

ある意味で始皇帝は、正しい意味での反知性主義(象牙の塔の現実離れしたインテリどもなんか要らねえ!)の非常に立派な実践者だった、ということだ。そして一方の儒学者=知識人は、ここから何かしら考えるところがあってもいいのではないか、とも思う。焚書坑儒から数千年たったこの21世紀にあってもね。

ちなみに落合淳思は、酒池肉林も焚書坑儒も、たぶん創作だよ、というようなことを指摘している。

もちろん、『史記』にある通りの形で起きたとは思わないけれど、たぶんその元ネタみたいなことは、歴史のどこかで起きていたんだろうとは思う。

というわけで、いやあ、古典って本当にすばらしいですね。それではみなさん、サイナラ、サイナラ。(史記はまだ先が長いんだよなー。全部読むのか、オレ)