ルイスのサイード批判:「オリエンタリズムの問題」

先日、エドワード・サイードの『オリエンタリズム』の1995年あとがきや、新装版への2003年序文を訳した。

訳しても読んだ人は、たぶんぼく自身以外はあまりいないと思う。長ったらしいし、テメーらみんな、度しがたい怠けものだから。が、読んだ人なら (そしてもちろんあの『オリエンタリズム』をまともに読んだ人なら) その中でこれまで「オリエンタリスト/東洋学者」どもが、無知と偏見まみれでイスラム世界を歪めまくり、実態とは似ても似つかないものに仕立て上げ、自分たちのイデオロギーにあうように歪曲して、植民地支配と軍事支配に都合良く描きだして列強の世界収奪と支配に奉仕してきた様子が描かれており、そしてその代表例としてバーナード・ルイスがやり玉にあがっているのをご存じだろう。特に、1995年あとがきでは、ルイスが『オリエンタリズム』やそれが引き起こした風潮に批判を述べた Islam and the West (English Edition) 所収の文に、嘲笑めいた物言いがついている。

こう言っても、君たちはその該当部分を読む手間をかけないだろう。引用しといてあげよう。

[ルイスの反論や批判] のすべては極度の一般化で宣言されており、個別イスラム教徒とイスラム社会ごと、イスラムの伝統や時代ごとの差についてはほとんど言及がない。ルイスはある意味で、もともと私の批判が向けられていたオリエンタリストのギルド代弁者を自認するようになったので、その手口についてもう少し紙幅を割く価値はあるだろう。彼の思想はやんぬるかな、その追従者や模倣者の間でかなり流行しているのだ。そうした連中の仕事はどうやら、西洋の消費者に対して怒り狂った、例外なく非民主的で暴力的なイスラム世界の脅威を警告することらしいのだ。

ルイスの冗漫性は彼の立場のイデオロギー的な裏打ちと、ほぼあらゆることをまちがって理解するという驚異的な能力をほとんど覆い隠せていない。もちろんこれらはオリエンタリストお馴染みの常套手段であり、そうした人々の一部はイスラムおよび非ヨーロッパの人々に対する積極的な侮蔑について正直になるだけの勇気を少なくとも持ち合わせていた。だがルイスはちがう。彼は真実を歪め、まちがったアナロジーを使い、ほのめかしを使うことで話を進める。そこに彼は、自分が学者の語り口だと思い込んでいる、全知の平静な権威という上辺をつけくわえてみせるのだ。典型的な例として、彼が私のオリエンタリズム批判と、古典的古代研究への仮想的な攻撃との間にあると論じるアナロジーを見てみよう。そんな攻撃はバカげた活動だ、と彼は断じる。もちろんその通りだ。だがオリエンタリズムとヘレニズムはまったく比較できない。前者は世界の地域丸ごと描き出そうとする、その地域の植民地征服の付属物であり、後者は19世紀や20世紀のギリシャの直接的な植民地征服についての話ではまったくない。加えて、オリエンタリズムはイスラムへの反発を示すものだが、ヘレニズムは古典ギリシャへの共感を示すものだ。

さらに現在の政治的瞬間は、人種差別的な反アラブ、反ムスリムのステレオタイプを煽るものだ (が古典ギリシャへの攻撃はない)。そのおかげでルイスは非歴史的で身勝手な政治主張を学術的な議論の形で行えるのだ。これはまさに古くさい植民地主義的なオリエンタリズムの最も信用できない側面を完全に温存する手口だ。したがってルイスの作品は、純粋に知的環境の一部というより、現在の政治環境の一部なのだ。

さて、これを読んでどう思う?

いろいろと罵倒は並んでいるんだけれど、具体的にルイスが何を言って、そのどこがまちがっているのか全然わからない。「ほぼあらゆることをまちがって理解」しているというなら、二つ三つ、例を挙げてもバチはあたらないと思うんだが、まったく何もない。これだけ長々と語る中で唯一出ているのは、比喩でギリシャが使われているが、ギリシャとイスラムとでは話がちがうぞ、という主張だけ。ふーん、それではルイスの反論の中では、ギリシャや古典研究との対比が主要な論点となっているんだろうなあ、とぼくは思った。ルイスってそんなつまらない批判しかしてないの? そしてそれ以外はなにかずいぶん尊大な上から目線での言い逃れしかなかったように書かれているけど……そうなの?

というわけでその反論を訳してみました。

バーナード・ルイス「オリエンタリズムの問題」(1982/1992)

まず……

なんだ、ギリシャや古典研究の話なんて、最初のわずか一ページしか出てこないし、ただのつかみで、本論とはまったく関係ないじゃないか!

さらにイスラム世界は西洋に怒り狂ってるなんて話も一切出てこない。半民主主義だの暴力的だのいう話もない。伝統や時代ごとの差はないどころか、そうした時代ごとのヨーロッパとの関係変化を見ろ、というのが大きなポイントじゃないか。サイードが何やら文句を言っているとおぼしき話は、何一つとして登場しない。サイードはこの批判をきちんと読んだの? 雑誌版にしても単行本版にしても? なんか、最初の部分しか見なかったんじゃないか、と思われても仕方ない。

ルイスの文章は長いから、あんたらもどうせ読まないだろう。まとめておくと

  • ギリシャ人が、古典研究はギリシャを貶め支配する西洋の陰謀だと言ったらみんなバカげていると思うはず。でもサイード『オリエンタリズム』一派の主張はまさにそれと同じ。
  • ヨーロッパのイスラム/アラブ研究は、イスラム帝国に脅かされていたときの防衛策が起源。だから「オリエンタリズム/東洋研究」がアラブ支配のツール、という見方はそもそも変。
  • だからイスラム研究の相当部分は、ヨーロッパを侵略したペルシャやオスマントルコについての研究。ところがサイードは、まったく恣意的にそれを全部対象から外している。ヘブライ研究も完全に外す。
  • ヨーロッパのアラブ研究では、ドイツの貢献が最大。でもドイツはアラブ圏侵略をほぼ行っていない。ここからも「オリエンタリズムはアラブ侵略のツール」というのがウソなのは明らか。サイードはそれをごまかすため「ドイツは何の貢献もしていない」とウソをついてこれも対象から除外。
  • 事実関係のまちがいがあまりに多すぎていい加減だし性的妄想は異常なほど。
  • 研究者への批判も、その実際の研究は無視して言葉尻をとらえた勝手な妄想で、その判断基準は政治信条やイデオロギーだけ。学問的に無意味。
  • 現代についても「アラブ研究はすべて欧米主導でアラブ自体による研究がない」と見下すが、そんなのいくらでもある。
  • 結局、欧米の素人たちの反米イデオロギーで珍重されているだけ。本当の専門家や、擁護しているはずのアラブ圏ですらまったく評価されていない。

基本的に、異論があるとか、見方が疑問というレベルではない。すべてデタラメに等しい本、という評価だ。

さて、これに賛成するかは読者の勝手ではある。ただし、これを受けたサイードはまったく反論できなかった、という点には留意しよう。「ギリシャは比喩として不適切!」もっと本質的な批判がたくさん行われているだろうに。紙幅がないから、というにしてもこの中の一つや二つくらいは言及できるのでは? 上の引用部分は1000字以上あるんだよ。そしてそれをせずにひたすらあてこすりと罵倒だけ。中身には触れず、語り口がどうしたとか。

ちなみにこのルイスの批判の中でも、サイードは事実関係の批判にすらまともに答えず自分の文を直すこともせず、逆ギレするだけ、というのは指摘されている。その通りらしいね。そして中身に触れずに態度が〜とかしか言わない、というのもまさに指摘されている通り。

さらに……

その「ギリシャのアナロジーはまちがっている!」という部分も、よく考えると変だ。知識は権力だ、知ろうとすること自体が攻撃と抑圧の手段だ、というけれど、アラブについて知ろうとするのは権力で帝国主義の手先だけれど、ギリシャについて知ろうとするのは権力ではなく帝国主義の手先ではない、というなら、そのちがいはどこにあるの? 「反発」か「共感」か、ということだそうだけど、それならサイードのような面倒な分析はいらないのでは? さらにそれを判定するのが、結局その後 (あるいは現在) 何らかの植民地化や弾圧や武力制圧があったかどうか、という点なら (サイードは上に引用した批判でそう述べているよね)、結局その「知の権力」なんてのを見ても意味はなく、その後の具体的な行動だけが問題であって、サイード的な「読み」って単なる後知恵でしかないのでは?つまりギリシャがアナロジーにならない、というサイードの主張自体、『オリエンタリズム』的な読解の無意味さを自ら告白しているに等しいのでは?

さて、このルイスの文章、とても良いことが書いてあるし、もう少しうまくやればもっとサイードの問題点が万人にわかったと思う。ただねえ。その書き方があまりに冗長。

まず、メインの論点であるサイードの話にくるまでに、「オリエンタリズム」という用語をめぐる歴史や学問史の話が延々続き、全体の4割を占めている。国際会議や百科事典のはなしはこんな細々と語る必要がまったくないもので、「冗漫」で衒学的とみられてもしかたない。また記述も、古いイギリス式の上品な記述が多すぎ。読者にかなりの知識を想定していて、ほのめかしだけで意味が伝わると思っているらしき部分が実に多いんだけど、ごめん、このぼくを含めて読者は無知ですんで。そしてあまりに細かいところ (プリンストン大学の学部構成の歴史やら、国際会議の委員にだれがいたとか) にばかりページを割いて、本当におもしろい部分は下品だと思ったのか注にまわしてしまうとか。そしてそれが、単行本収録の加筆修正でむしろ悪化している。*1当事者として、言いたいことがありすぎて整理し切れてないんだよな。惜しい。

本当なら、まっ先に以下の部分を挙げればよかったと思うなあ。pdfのpp.16-17の注の部分。

私 [ルイス] は「革命」を指す(中略) 現代アラビア語で最も広く使われている用語を紹介した。

「古典アラビア語の語幹th-w-r は、立ち上がる (たとえばラクダに乗って)、動揺し興奮したりするという意味で、ひいては特にマグレブ用法では、反逆する、という意味となる。これはしばしば小さな独立主権領土をつくり出す、という文脈で使われる。たとえばコルドバのカリフ国解体後11世紀スペインを支配した、いわゆる党王 (party kings) などはthuwwar (単数形は tha'ir) と呼ばれる。名詞 thawra の最初の意味は興奮だ。(後略)」

この定義は、その形式も内容も、標準的な古典アラビア語辞書に従ったもので、アラビア語の語彙用法に馴染みがある人物であれば、すぐにそれとわかるはずだ。政治でラクダのイメージを使うのは、古代アラブ人にとっては自然なことだった。

ところがサイードはこの一節をまったく別の形で理解した。

「ルイスが thawra をラクダの立ち上がり、それも一般に興奮をもった立ち上がりと関連づけているのは (そして価値観のための闘争と関連づけていないのは) 、彼にとってアラブ人がほとんど神経症の性的な生き物以上のものではないことを、いつもよりもずっと広範な形で示唆している。彼が革命を表すのに使う単語や節のすべては、性的な意味が満ちている。乱れる、興奮、立ち上がる。だが彼がアラブ人に割り当てるほとんどは「悪い」性的な意味だ。結局のところ、アラブ人は真面目な行動など執れないので、その性的興奮はラクダの勃起なみの気高さしか持ち合わせていないというわけだ。革命のかわりに出てくるのは暴動、小さな独立主権領土 (訳注:「小さな」はpettyで、特に最近のアメリカ英語では「ケチな/セコい」という意味で使われることが多いため、サイードは勝手に悪い意味を読み込んでいる) の設置、さらに興奮、ということはつまりアラブ人どもは交合するどころか前戯、自慰、膣外射精しかできないと言うに等しい。ルイスは無邪気に研究者ぶってみせるし、何やらお高くとまった表現をしてみせるが、彼の含意しているのはそういうことなのだと私は思う」(pp. 315-316).

どこをどう読んだらこんなすさまじい解釈が出てくるんだ!特に最後あたりの自慰とか膣外射精とか、いったい何の話?

こんなおもしろいネタを、だれも読まない注に入れておくなんて、なんともったいない。これをまず出せば、サイードが明らかに欲求不満の頭おかしいヤツなのはすぐわかるだろう。そのあと、本質的な批判だけを集中させて、それ以外の話はまた別のところでやり、長さを半分にしぼれば……

(あと、文中で「反オリエンタリズム」というのが出てきて、『オリエンタリズム』という本に反対しているのか (つまりルイスの立場)、それともオリエンタリズムという思想学問に反対しているのか(つまりサイードの立場) わかりにくいんだよなー)

ちなみに、サイードが反米だから支持されたというのはかなり本当だと思う。たぶん彼は、2022年のウクライナ侵略について、チョムスキーにも増してロシアを支持したはずだと思う。

*1:サイードのドイツ無視がシュワブの影響ではないかという長い仮説が加筆されているけれど、仮説にすぎないし、またそうだったとしても議論の本筋には関係ないので、話の見通しが悪くなっているだけ。またシュレーゲルに対するサイードの皮肉も、多くの読者は「えーとシュレーゲルって何した人だっけ」レベルだし、またそこで言われていることの正否も判断できない。ところがそれを説明した部分を、単行本収録時に削除してしまっている。説明しないでもわかるはず、ということなんだろうが、いや説明しないとわかりませんから。