サイード『オリエンタリズム』25周年記念版版序文 (2003)

オリエンタリズム』25周年記念版版序文 (2003)

エドワード・サイード

山形浩生

9年前の1994年春、私は『オリエンタリズム』のあとがきを書いた。これは自分で言った/言わなかったつもりのことを明確にしつつ、1978年に本書が出てから生じた多くの議論だけでなく、「オリエント」の表象についての作品が、ますますまちがった紹介や誤解にさらされる各種のやりかたについても強調した文章だった。同じ事が現在も見られるというのを、自分が苛立たしいと思うよりむしろ皮肉だと思ってしまうのは、歳を取ったしるしでもあるし、同時に年配となる道のりを通常は彩る、期待や教育的な熱意の必然的な衰えのしるしでもある。我が知的、政治的、個人的な導師2人、エクバル・アーマッドとイブラヒム・アブ=ルゴッド (この作品を献じた一人だ) が最近他界したことで、悲しみと喪失感がもたらされたが、同時に諦めと、ある種のこのまま進もうという頑固な意志も生まれた。別に楽観的になるという話ではまったくなく、むしろ私見ながら知的な天職を形作り、方向性を与えてくれる、継続的で文字通り果てしない解放と啓蒙のプロセスを信じ続けるということなのだ。

それでも、『オリエンタリズム』がいまだに世界中で議論され、36言語に翻訳され続けているというのは、私にとっては驚異の源ではある。現在はUCLAでかつてはイスラエルのベン・グリオン大学に所属していた親友にして同僚のギャビー・ピーターバーグ教授のおかげで、いまやヘブライ語版もあり、おかげでイスラエルの読者や学生の間にかなりの議論が引き起こされた。さらにベトナム語の翻訳がオーストラリアの支援を受けて登場した。僭越ながら、本書の主張を受けてインドシナの知的空間が開かれたようだと言ってもいいだろう。いずれにしても、自分の作品がこれほど幸せな運命をたどるなどとは夢にも思わなかった著者としては、本書でやろうとしたことが完全に死に絶えたりせず、特に「東洋」そのものの各地で続いていると書けるのは大いなる喜びだ。

その理由の一部はもちろん、中東、アラブ、イスラムはすさまじい変化、闘争、論争に油を注いできたからだし、これを書いている時点では、戦争も煽ってきたからだ。ずっと前に述べた通り、『オリエンタリズム』は根本的に、いやむしろ過激なまでに御しがたい状況の産物だからだ。『遠い場所の記憶 自伝』 (1999) では、自分が育った奇妙で矛盾した社会について述べ、自分と読者にパレスチナ、エジプト、レバノンで私を形成したと思う環境についての詳細な説明を提供した。だがそれは単なるきわめて個人的な記述で、1967年アラブ=イスラエル戦争後に始まった、長年にわたる私自身の政治的取り組み以前の話で終わってしまった。この戦争はいまだに続くその後遺症 (イスラエルはいまだにパレスチナ領土とゴラン高原を軍事的に占領している) が、アラブとアメリカ人の私の世代にとっては決定的だった闘争と思想の条件として続いているようだ。それでも改めて主張しておきたいのは、本書と、それを言うなら私の知的作業全般は、大学の学者としての生活で全体として可能なものとなったということだ。というのもしばしば指摘される各種の欠陥や問題はあれど、アメリカの大学——特に我がコロンビア大学——はアメリカにおいていまでも、思索と研究がほとんどユートピア的な形で行える場所として、残った数少ないところだからだ。私は中東については何も教えたことはない。訓練でも実践でも、主に欧米人文学の教師であり、現代比較文学の専門家だ。大学と、二世代にわたるトップクラスの学生や優れた同僚たちとの教育的な作業は、本書に含まれる意図的に思索的で分析された研究のようなものを可能にしてくれたし、その緊急性の高い現世的な言及はいろいろあれど、やはり文化、思想、歴史、権力についての本であって、単なる中東政治の本ではないのだ。これは当初から私の意図したことだし、今日の私にもそれはきわめて明白で、以前よりずっとはっきりしてきている。

それでも『オリエンタリズム』は、現代史の波瀾に満ちた力学に大いに結びついている本だ。このため本書の中で私はオリエントという用語も西洋の概念も、存在論的な安定性などまったく持っていないと指摘している。どちらも人間の活動で構築されており、一部は追認であり、一部は他者の同定となっているのだ。こうした至高のフィクションが、実に簡単に操作されてしまい、集合的情熱の組織に使われてしまうという点が、現代ほどあらわになった時代はない。恐怖、憎悪、嫌悪、よみがえる自尊心と傲慢——その多くは一方でイスラムとアラブ、反対側では「我々」西洋人に関わるものだ——の動員が、きわめて大規模な事業となっているのだ。『オリエンタリズム』冒頭は、レバノン内戦についての1975年の記述となっている。これは1990年に集結したとはいえ、暴力と醜悪な流血はこの瞬間も続いている。オスロ和平プロセスは破綻し、第二次インティファーダが勃発し、再侵略されたヨルダン川西岸とガザ地区パレスチナ人たちのひどい苦悶が生じた——そこではイスラエルF-16戦闘機やアパッチヘリコプターが、しょっちゅう無防備な文民たちに対し、その集合的な処罰のために使われているのだ。自爆テロ現象が登場して、それに伴う目をそむけたくなる被害も出ているし、それを最も赤裸々で黙示録的に示しているのは、もちろん9.11の出来事と、その後のアフガニスタンとイランに対する戦争だ。本稿の執筆時点で、英米による違法で承認されていないイラク帝国主義的な侵略と占領は続いており、その先に待っている物理的な荒廃、政治的な不穏、さらなる侵略は、まさに考えるだにひどいものだ。これはすべて、文明の衝突とされるものの一部で、果てしなく、終わりもなく、どうしようもないのだとされる。それでも、私はそうは思わない。

だが中東、アラブ、イスラムについての一般的理解が、アメリカでは多少の改善を見たと言いたいところではあるが、残念ながら、実際にはまるで改善していない。さまざまな理由から、ヨーロッパの状況はずっとマシのようだ。アメリカでは、態度の硬化、屈辱的な一般化や勝ち誇ったような常套句の掌握の硬化、粗雑な力の支配が、異論を唱えるものや「他者」に対する単細胞的な侮蔑と組み合わさったものの発達と歩みをあわせて、イラクの図書館や博物館の収奪、簒奪、破壊を引き起こしている。私たちの指導者たちとその知的傀儡たちが理解できないのが、歴史は黒板とはちがってきれいに消し去れないということ、「我々」が自分の未来をそこに書き付けて、私たちの人生のあり方を、その劣った連中に従わせたりはできないほどきれいには消せないのだ、ということだ。ワシントンなどの高官が、中東の地図を書き換えると言うのをよく耳にする。まるで古代社会や無数の人々が、ビンに入ったピーナッツのように振り回せるとでも言うようだ。だがこれは「オリエント」についてしばしば起きたことだ——これはあの半ば神話的な構築物で、18世紀末のナポレオンによるエジプト侵略以来、お手軽な形の知を通じて作用する権力により、これがオリエントの性質であり、それに応じた対応が必要だと主張するために、数え切れないほど何度も再構築されてきたものなのだ。歴史の数え切れない堆積プロセスは、無数の歴史やめまいがするほど多様な人々や言語や体験や文化を含むものだが、そのすべてが脇に押しやられるか無視され、バグダッドの図書館や博物館から奪われた、無意味な断片へと刻まれた宝といっしょに、砂山に投げ込まれてしまったのだ。私の議論は、歴史は男や女によって作られたものであり、同じようにそれをばらして書き換えることもできる、ということで、それは常に各種の沈黙や省略が伴い、形が押しつけられ歪曲が容認されることで、「私たちの」東洋、「私たちの」オリエントが、「私たち」の所有し方向づけられるものとなれるのだ、ということなのだ。

繰り返しておくべきだろうが、「真の」オリエントを私が持っていてそれを支持するというのではない。だがその地域の人々が、自分たちが何であって何になりたいかというビジョンのために闘争する力や才能にはきわめて敬服している。現代のアラブやイスラム社会について、その後進性、民主主義欠如、女性の権利不在をめぐる攻撃があまりに大量で計算高い激しさを見せているので、近代性、啓蒙、民主主義といった概念が、居間に隠されたイースターエッグのように、見つかるか見つからないかの、単純で完全に合意されている概念ではないのだというのを人々はつい忘れてしまう。外交政策を掲げて語り、本当の人々が実際に語る言語について生の概念が欠けた (あるいはそもそも何の知識もない) 、お粗末な広報官たちの息をのむような無頓着ぶりは、アメリカ権力がそこに自由市場「民主主義」のインチキなモデルを構築できるような不毛な風景を作り上げる。そして彼らは、そんなプロジェクトがジョナサン・スウィフトのラガド島大学 (訳注:『ガリバー旅行記』に登場する、空理空論と訳に立たない研究を弄ぶ衒学的な学術機関] 以外には存在しないのではという疑念をかけらほどもみせないのだ。

また私が実際に議論しているのは、他の人々や時代についての、理解や共感や魂胆なしの慎重な研究から得られる知識と、自己追認や対立関係や明確な戦争という全体的なキャンペーンの一部としての知識 (そう呼べるものならば) とにはちがいがある、ということだ。なんといっても、共存と人道的な地平拡大のために理解しようという意志と、統制と外部への拡大のために支配する意志と、統制と外部の支配のために支配する意志との間には、深遠なちがいがあるのだから。選挙で選ばれたわけでもないアメリカの高官小集団 (彼らは臆病タカ派と呼ばれている。だれ1人として従軍経験はないからだ) が引き起こした帝国主義戦争が、世界支配と安全保障統制、希少資源と関連した、まったくのイデオロギー的理由 から、荒廃した第三世界専制主義国に仕掛けられたのに、それが学者としての使命を裏切ったオリエンタリストたちによってその意図を偽装され、煽られ、正当化されたというのは、まちがいなく歴史上の知的危機の一つだろう。ジョージ・W・ブッシュ国防総省国家安全保障会議に大きな影響を与えたのは、バーナード・ルイスやフォアド・アジャミのような人々だ。彼らはアラブやイスラム世界の専門家で、アメリカのタカ派がアラブの精神だの何世紀にもおよぶイスラムの衰退といった傲慢不遜な現象について、アメリカの権勢だけがそれを逆転させらるなどと考えるのを支援してきたのだ。今日、アメリカの書店はイスラムとテロ、イスラムの暴露、アラブの脅威、ムスリムという危険といった見出しをがなりたてる、貧相な書き殴りだらけとなっている。そのどれも、こうした「我々」のわき腹に刺さったひどいトゲである、こうしたひどい風変わりなオリエント人たちの核心を突いたと称する専門家たちに吹き込まれた知識を有するふりをした、政治的な煽り屋たちが書いたものだ。そうした戦争を煽る専門家に伴って、世界のCNNだのFoxニュースだのがいたるところにあり、さらには無数の宣教師や右翼のラジオ司会者たち、さらに無数のゴシップ誌や一般誌までが、すべて同じ裏付けもないでっちあげや、あまりに粗雑な一般化を繰り返しつづけて「アメリカ」を外国の悪魔に対してけしかけている。

あれほど欠点だらけで、ひどすぎる独裁者 (部分的には20年前のアメリカ政策が作り出した存在ではある) がいても、もしイラクが世界最大のバナナやオレンジの輸出国だったなら、まちがいなく戦争はなかっただろうし、忽然と消えた謎の大量破壊兵器をめぐるヒステリーもなかっただろうし、教育水準の高いアメリカ人ですら、ほとんど知らないような11,000kmも離れた国に、莫大な陸海空軍を輸送することもなかっただろう。このすべては「自由」の名の下に行われたのだ。そこにいる連中が「自分たち」とはちがって「我々」の価値観を評価していないという、見事に組織された感覚——本書で私がその生成と流通を記述したオリエンタリスト的ドグマのまさに核心——がなければ、戦争などなかったはずだ。

だからマレーシアとインドネシアを征服したオランダや、インドとメソポタミア、エジプト、西アフリカのイギリス軍、インドシナ北アフリカのフランスが雇った専門学者と同じ部局から、ペンタゴンホワイトハウスへのアメリカの顧問たちがやってきて、同じクリシェや、同じ侮蔑的なステレオタイプや、権力と暴力の同じ正当化 (結局のところ、連中は力しか理解できんのですよ、というのが、大合唱の中身だ) が今回も繰り返された。こうした手合いにいまや、イラクでは民間軍事企業や熱心な起業家どもの大群が加わって、教科書や剣法の執筆から、イラクの政治生活や石油産業の再編まですべてが託されることになるのだ。あらゆる帝国はすべて、その公式発言では自分たちが他の帝国とはまったくちがっていて、自分の状況は特別であり、自分たちは啓蒙し、文明化し、秩序と民主主義ともたらし、武力を使うのは最後の手段としてだけなのだ、と述べてきた。そしてさらに悲しいことだが、常に優し博愛的な帝国について気休めの言葉を語る、忠実な知識人たちの大合唱が常についてきて、最新の文明化ミッションがもたらした破壊と悲惨と死を見ている自分自身の目という証拠を信じるべきではないとでも言うようなのだ。

帝国の言説に対する、まさに米国的な貢献というのは政治技能の専門特化された専門用語だ。アラブ世界には民主主義ドミノ効果こそが必要なのだなどともったいぶって言うためには、アラビア語ペルシャ語も、フランス語すら必要ない。戦闘的で悲しいほど無知な政策専門家たちは、ワシントンDC都市圏内しか世界の経験を持たないくせに、「テロリズム」やリベラリズムについての本を量産したり、イスラム原理主義アメリ外交政策や、歴史の終焉についての本を繰りだしてみたりして、そのすべてがその正しさや考察や本当の知識などまったく意に介さず、注目と影響力をめぐってしのぎを削っている。重要なのは、それがどれだけ効率的で才覚あふれるものに聞こえるか、さらにだれがそれを真に受けそうか、ということでしかない。この「要するに」的本質主義の最悪の面は、あらゆる濃密で苦痛に満ちた人々の苦悶が捨象されてしまうということだ。記憶と、それと共に歴史的な過去は、よくある一蹴するほどの軽蔑をこめたアメリカの表現「You're history」 (訳注:おまえはすでに過去の遺物だ、の意味) で見られるように、消し去られてしまう。

刊行から25年たって『オリエンタリズム』は再び、現代の帝国主義がそもそも終わったのか、それとも二世紀前のナポレオンによるエジプト侵入以来、オリエントでずっと続いていたのか、という問題を提起するものとなった。アラブやイスラム教徒たちは、被害者意識と帝国収奪へのこだわりは、現在の責任を逃れようとする手口にすぎないのだと言われ続けてきた。おまえたちは失敗し、おまえたちは道をまちがえた、と現代のオリエンタリストたちは言う。これはもちろん、V・S・ナイポールの文学における貢献でもある。帝国の被害者たちが悲嘆に暮れ続けている間に、彼らの国はゴミクズとなる、というわけだ。だが、これは帝国の侵略についてなんと浅はかな計算であることか。帝国が「劣った」人々や「従属人種」の人生に、何世代にもわたってもたらしたすさまじい歪曲を、いかにあっさりと軽視することか、帝国が、たとえばパレスチナ人やコンゴ人やアルジェリア人やイラク人の人生に入りこんできた長い年月の連続に直面するのをいかに避けようとすることか。我々は、ホロコーストが現代の意識を永久に変えてしまったことを公正にも容認する。なぜ帝国主義が行ったことやオリエンタリズムが行い続けていることについて、同じ認識論的な変化を認めようとしないのだろうか? ナポレオンで始まり、東洋学の台頭に続き、さらに北アフリカ征服へとつながって、その後ベトナム、エジプト、パレスチナでの似たような活動として続き、さらに20世紀の間に石油と湾岸諸国、イラク、シリア、パレスチナ、アガニスタンの支配権をめぐる紛争となったものを考えよう。そしてその対極として反植民地ナショナリズムの台頭から、短命な自由独立を経て、銀地クーデーター、内紛、内戦、宗教原理主義、不合理な闘争、最新の「現地人」どもに対する妥協無き残虐性を考えよう。こうした段階や時代のそれぞれは、他者に対する独自の歪曲された知識や、独自の還元主義的なイメージ、独自の論争に満ちた難問をつくり出す。

オリエンタリズム』における私のアイデアは、人文学的な批判を使って闘争の領域を広げ、もっと長い思想のシーケンスと分析を導入し、ラベルと敵対的な論争に我々を収監しようと血道をあげて理解と知的交換よりも好戦的な集合アイデンティティを目指る、難問的な思考停止の怒りの短い爆発に置きかえることだった。私は自分のやろうとしていることを「人文主義 (humanism)」と呼んだ。これは高踏的なポストモダン批評家たちによる、侮蔑的な一蹴にもかかわらず、私が頑固に使い続けている用語だ。人文主義というとき、私はまず何よりも精神を縛るブレイクの手錠を解体して、省察的な理解と本当の開示のために精神を歴史的かつ理性的に使えるようにする、ということを意味している。さらに人道主義は他の解釈者や他の社会や他の時期との共同体の感覚に維持されている。つまり厳密に言えば、孤立した人文主義者などというものはいないのだ。

これはつまり、あらゆる分野は他のあらゆる分野とつながっているということで、我々の世界で起こることはどれ一つとして、孤立した外部の影響からすべて逃れたものなどであったためしがないということだ。残念なことだが、文化の批判的研究がこの主張の正しさを示せば示すほど、そうした見方の影響力は減るように見えるし、「イスラムVS西洋」といった領土的に還元主義的な極端主義が支配的となるようだ。

我々の中で、状況の力により実際にイスラムと西洋に関わる形で複数的文化生活を生きる者たちとして、私は昔から自分たちが学者や知識人として行うことに、特別な知的・道徳的責任が伴うと感じてきた。具体的な人間の歴史や体験から心を引き離して、イデオロギー的なフィクションや形而上学的な対立や集合的情熱の領域へと導く、還元主義的な定式化と抽象的だが強力な考え方を複雑化および解体するのは、我々の義務なのだと私は確かに考えている。これは別に、不正や苦しみの問題について語れないということではない。ただそれをやるときには常に、しっかり歴史や文化、社会経済的な現実に根差した文脈の中で行うべきだということだ。我々の役割は議論の領域を広げることであり、そのとき主流の権威に従って制限を設けることではない。私は過去35年の人生の相当部分を、パレスチナ人たちの民族自決権支持に費やしてきたが、そのときも常にユダヤ教とたちの現実にも十分な注意を払い、迫害とジェノサイドの面で彼らがどれだけ苦しんできたかに配慮するよう試みてきた。何よりも重要なのは、パレスチナイスラエルの平等をめぐる闘争は、人道的な目標、つまり共存に向けられるべきであり、さらなる弾圧と否定を目指すべきではないということだ。偶然ではないが、私はオリエンタリズムと現代の反ユダヤ主義が同じルーツを持つと示している。したがって、独立した知識人たちが常に、中東やその他の場所であまりに長いこと幅をきかせてきた相互の敵意に基づく、還元主義的に単純化された制約的なモデルに変わる、別のモデルを提示するのがきわめて必要性の高いことだと私には思える。

今度は、私の研究において極度に重要だった、ちがう別のモデルについて話をさせてもらおう。文学の分野における人文学者として、私は40年前に比較文学の分野で訓練を受けたが、その分野の主導的な発想は18世紀末から19世紀初頭のドイツにさかのぼるものだ。その前に私は、ナポレオンの哲学者で文献学者ジャンバッティスタ・ヴィーコのきわめて創造的な貢献について言及しなければならない。彼の思想はこれから名前を挙げるドイツ思想家を先取りし、後に影響を与えているのだ。そうしたドイツ人学者はヘルダーやヴォルフの時代に属し、後にゲーテフンボルトディルタイニーチェ、ガダマー、そして最後に偉大な20世紀ロマンス語文献学者エーリッヒ・アウエルバッハ、レオ・シュピツァー、エルンスト・ロベルト・クルティスへとつながる。いまの世代の若者たちには、文献学という発想そのものが何かとんでもなく懐古的でカビの生えたものを示唆するが、実は文献学は解釈技芸の中で最も基本的で創造的なものなのだ。私にとってそれがきわめて見事に体現されているのはゲーテイスラム全般、特にハーフェズへの関心で、それが『西東詩集 (岩波文庫)』の著述へとつながり、それがゲーテの後の世界文学、つまり世界のあらゆる文学を交響楽的な全体として研究し、各作品の個別性を温存しつつ全体を見失わない形で理論的に理解できるようにすることについての思想へとつながったのだった。

すると、今日のグローバル化した世界がここで述べてきたような嘆かわしい形の一部でまとまるにつれて、我々がゲーテの思想が明示的に避けるべく構築されていたような、一緒の標準化と均質性に近づいているかもしれないという認識には、かなりのアイロニーが感じられる。1951年に発表された「世界文学の文献学」という論考で、エーリッヒ・アウエルバッハは戦後期の冒頭にまさにこの論点を挙げた。これはまた冷戦の始まりでもあった。彼の偉大な本『ミメーシス――ヨーロッパ文学における現実描写〈上〉 (ちくま学芸文庫 ア-5-1)』は1946年にベルンで刊行されたものだが、アウエルバッハが戦時亡命中に、イスタンブールでロマンス言語を教えていたときに書かれたもので、ホメロスからヴァージニア・ウルフまで西洋文学に表象された現実の多様性と具体性の証言となるよう意図されていた。だが1951年のこの論考を読むと、アウエルバッハにとってこの偉大な著書は、人々がテクストを文献学的に、具体的に、繊細かつ直感的に、ゲーテイスラム文学理解において支持したような理解を支持すべく何カ国語かを見事に操って解釈できた時代へのエレジーだったのだと感じられる。

言語と歴史の能動的な知識は必要ではあったが、決して十分ではない。それは機械的に事実を集めただけでは、たとえばダンテのような作家がどういう存在だったのかを把握する適切な手法にならないのと同じだ。アウエルバッハやその先人たちが語り、実践しようとしていた文献学的な理解にとって最大の要件は、その時代と著者の観点から書かれたテクストの性に共感的かつ主観的に入り込むもの (eingefühling) だった。世界文学に適用された文献学は、別の時代は別のちがった文化に対する疎外と敵意ではなく、懐の広さと、こう言ってよければ歓待をもって使用された深い人文主義的精神を伴うものだ。だから解釈者の精神は積極的に、その中に異質な他者の場を作る。そしてこの、本来は異質で遠い作品の場を創造的につくり出すことこそが、解釈者の文献学的使命の最も重要な側面なのだ。

こうしたすべては、もちろんドイツでは国家社会主義により軽視され破壊された。戦後には思想の標準化、そして知識のますます大きな専門特化は、次第にこの種の彼が代表していた探究的で永続的に探索するような文献学研究の機会は次第に狭められたとアウエルバッハは悲嘆にくれて記しているし、そしてやんぬるかな、1957年のアウエルバッハの死以来、人文学研究の思想も実践も、その視野も中心性も縮小してしまったのだった。文献研究に基づく書籍文化と、かつて人文学を歴史的な分野として維持してきた全般的な精神的原理は、ほぼ消えうせた。本来の意味での読みのかわりに、今日の我々の学徒はインターネットとマスメディア上にある断片化された知識にしばしば気を取られている。

もっとひどいことだが、教育は非歴史的にセンセーショナリスティックな形で遥か遠くの電子戦争に注目し、視聴者に外科手術的な制度の感覚を与えつつ実は現代の「クリーンな」戦争が生み出すひどい苦しみと破壊を隠してしまうマスメディアがしばしばばらまく、ナショナリストや宗教的正統教義に脅かされている。「テロリスト」というレッテルで、人々を煽り怒らせておくという全般的な目的が実現されている未知の敵を悪魔化する中で、メディアのイメージはあまりに多くの関心を集め、ポスト9-11期が生み出したような危機と不安の時期にそれが利用されてしまう。アメリカ人とアラブの双方として私は読者のみなさんに、比較的少数の国防総省にいる文民エリートたちが、アラブとイスラム世界全体についてアメリカ政策のために形成したような単純化された世界観を過小評価しないようにお願いしなければならない。それはテロ、予防的戦争、一方的レジーム変化——そして市場で最も膨れ上がった軍事予算に裏付けられたもの——が、政府の全般的な主張を追認するだけの「専門家」なるものを生み出す役割を己に課したメディアによって、果てしなく貧窮する形で議論される主要な思想となっているような見方だ。

人間は自らの歴史を作り出さねばならないという世俗的な概念に基づく省察、論争、理性的な議論、道徳的な原理は、アメリカや西洋の例外主義を賞賛し、文脈の重要性を軽視し、他の文化を嘲笑的に見下すような抽象的な思想により置きかえられた。読者は、私が一方では人文主義的な解釈と、一方では外交政策との間であまりに多くの唐突な切り替えを行いすぎるというかもしれないし、空前の力を持ち、インターネットやF-16戦闘機を持つ現代技術社会は、ドナルド・ラムスフェルドやリチャード・パールのような侮れない技術政策専門家により指揮されねばならないのだ、と言うかも知れない (このどちらも実際の戦闘はしない。戦闘はそれほど幸運ではない男女に任されるからだ)。だが本当に失われたものは、人間の生の密度と相互依存性の感覚だ。これは方程式に還元できるものではないし、無関係なものとして一蹴できるものでもない。戦争の言語ですら極度に人間性を失わせるものだ。「我々はあそこに乗り込んでサダムを倒し、その軍隊をきれいな外科手術的攻撃で破壊し、みんなそれがすばらしいことだと考える」とある女性議員は全国テレビで語った。チェイニー副大統領が2002年8月26日にイラク攻撃計画について、硬派めいた演説ししてみせたとき、イラクに対する軍事介入を支持した中東「専門家」としてたった一人引用したアラブ学者が、毎夜のようにマスメディアへの有料コンサルタントとして登場し、自分の人民への憎悪と己の出自糾弾を行っている人物だったというのは、我々が生きている危うい時代の明確な症例だと私には思える。さらに彼はその活動において、アメリカの軍やシオニストのロビーから支援を得ている。こうした trahison de clercs (訳注:知識人の裏切りの意味) は、まともな人文主義が国威宣揚主義やニセの愛国主義へと劣化してしまう症例だ。

これは世界的な論争の片側だ。アラブとムスリム諸国でも、状況はまるでマシとは言えない。ロウラ・ハラフが見事な『フィナンシャル・タイムズ』論説 (2002年9月4日) で論じたように、この地域は、アメリカが社会として本当にどんなところかをまるで理解していない安易な反米主義に陥っている。政府は自分たちに対するアメリカ政策にほとんど影響を与えられないため、自分たちの国民を弾圧して抑えるのに注力し、それは人類の歴史や発展についての世俗的な思想が失敗と不満と、暗記だけに基づくイスラム主義、他の競争力を持つ世俗的知識と思われたものの殲滅と、現代的言説の一般的に不協和的な世界において思想を分析してやりとりする能力の欠如に支配されている社会を開くのにまったく貢献しない恨み、怒り、無力な呪詛をもたらすだけだ。イスラム的イジティハードの驚異的な伝統が次第に消えうせたのは、現代における大きな文化的悲劇の一つであり、その結果として批判的な思考と現代世界の問題についての個人的な格闘はあっさり消えうせた。正統教義とドグマがかわりに支配している。

だからといって、文化的な世界は一方では好戦的なネオ=オリエンタリズムへと後退し、一方では全面的な拒絶主義へと退行したと言うのではない。最近のヨハネスブルグにおける国連世界サミットは、いろいろ制約はあれ、実のところ共通の世界的な協調のための広大な領域を明らかにし、その環境、食料不足、先進国と途上国とのギャップ、保健、人権に関連した詳細な作業は、しばしば上辺だけの「一つの世界」という概念に新たな緊急性を与える、新たな集合的支持者たちの歓迎すべき台頭を示している。だがこうしたすべてにおいては、私が当初に述べた通り、世界が本当に相互依存してまともな孤立の機会などどの部分にもないという現実にもかかわらず、だれもこのグローバル化した世界における驚異的なまでに複雑な統合など知り得ないということは認めねばならない。

最後に述べたい論点は、「アメリカ」「西洋」「イスラム」といった、ニセの統合するお題目の下で人々を寄せ集め、実はかなり多様な大量の個人について集合的なアイデンティティを発明しようとする、ひどい還元主義的な紛争は、いまほどの力を持ち続けてはならないし、反対されねばならず、その殺人的な有効性は影響力と動員力を大いに減らされねばならないということだ。我々はいまでも、人文教育の遺産である理性的な解釈能力を使えるのであり、伝統的な価値観や古典に戻るよう促す感傷的な敬虔さではなく、世界的な世俗言説という積極的な行動としてそれを行えるのだ。人間の主体性は探究と分析の下にあり、それは理解し、批判し、影響し、分析し判断するという理解の使命なのだ。何よりも批判的な思考は国家権力や、何やら公認の敵に対して進軍する連中に加われという命令に従属したりはしない。でっちあげられた文明の衝突ではなく、我々は省略されたりまともでなかったりするどんな理解方式が可能にするよりも興味深い形で、重なり合い、お互いに拝借しあい、共存する文化のゆっくりした共同作業に集中する必要がある。だがそうしたもっと広い認知のためには時間と辛抱強く懐疑的な探究が必要であり、それを解釈の共同体により支えねばならいが、これは即時の行動と反応を要求する世界では維持がむずかしい。

人文主義は人間の個人性と主観的な直感の主体性を中心としており、受けとった思想や承認済みの権威に基づくものではない。テクストは私が現世的な形と呼んだ様々なものの歴史的領域で生み出されて生きている。だがこれは決して権力を排除するものではない。というのもその正反対で、私が本書で示そうとしたのは、最も難解な研究にすら権力のほのめかし、覆瓦化が存在するということなのだ。

そして最後に、最も重要な点として、人文主義こそは人類史を歪め破壊する非人道的な手法や不正に対する、唯一の、そして敢えて言うなれば最後の抵抗なのだ。我々は今日、すさまじく勇気づけられる民主的なサイバー空間という場に後押しされている。それは圧政者や正統教義の以前の世代が夢にも思わなかったような形であらゆる利用者に開かれている。イラク戦争開始前の世界的な抗議は、別種のニュース源から情報を得て、この小さな惑星上で我々を結びつける環境敵、人権的、リバータリアン的な衝動を明確に感じている、世界中にまたがる別のコミュニティの存在がなければ不可能だった。啓蒙と解放の人間的、そして人文的な欲望は、この世のラムスフェルドたち、ビン=ラディンたち、シャロンたち、ブッシュたちからやってくるすさまじい反対の力にもかかわらず、そう簡単には先送りにできない。『オリエンタリズム』は、人間の自由への長く、しばしば邪魔される道において居場所を持っていると私は信じたい。

 

E.W.S. ニューヨーク、2003年5月


訳者コメント

某所で言及されていたので、ついでに訳してみました。タイトル通りの代物で、もっと『オリエンタリズム』の総括的な中身かと思ったら、アメリカのイラク侵攻けしからん、もっと多面的な理解を〜という話を延々繰り返すだけの代物になっていたのでがっかり。が、途中までやって無駄にするものいやだったし、最後まで仕上げました。文中に出てくる1995年版のあとがきのほうが中身があるが、この文章の3倍もあるので、まあもう少し暇になればね。今後、平凡社ライブラリーのものが改版されることはないと思うので、公式に訳されることは当分ないと思う。どっかの雑誌のサイード特集などで訳されることはあるかもしれないし、すでに訳されているかもしれないが、ぼくのほうがうまいに決まっているので調べるつもりもない。

cruel.hatenablog.com

なお原文は、冒頭に挙げたPenguin Books版のAmazonにおける試し読みで全文見られます。