バルガス=ジョサ『ラ・カテドラルでの対話』:うー、長くて単調。

世界の文学〈30〉バルガス=ジョサ - ラ・カテドラルでの対話(1979年)

世界の文学〈30〉バルガス=ジョサ - ラ・カテドラルでの対話(1979年)

これもずいぶん長いこと本棚にあった本。話は、ペルー上流階級のボンボンが女の子目当てもあって左翼運動に入れ込んで家を出て結局ブルジョワ新聞記者になったところで昔の運転手に出会って、ラ・カテドラルという酒場で延々昔話をして、政治の裏の世界や爛れたご乱交について聞かされるというもの。

全体が酒場での対談をベースにしつつそこに過去の会話や光景が切れ目なく入ってくるのが何重にも続く構成になっていて、ある二人の会話に別の二人の会話が三つくらい交互に差し挟まれたりとか、かなり気をつけていないと、これがいつのだれのどこの話なのかわからなくなってきて、だんだんそれも疲れてくるうちに、いろんな話が渾然一体となってきて、それがある意味でペルー社会や都市の猥雑感それ自体を表現しているともいえる。

ただ……このものすごく長い話の全編がそれで貫徹されているので、非常に単調。描かれるのは暴力、貧困、悲惨、腐敗、挫折、そんなのばかり。全体が豊穣さにつながらずに、絵を描き終わる頃の絵の具の洗浄液みたいな緑がかった灰色の印象が後半はひたすら続く感じになる。その中で、聞き手の呆然とした感じやショックは表現されているんだけれど、それがあまり際立ってこないように思う。

訳者解説では、本書についてかなり厳しい意見で、この時点の著者の力量では十分に描き切れていないとか、成功しているといえるかどうか、とかなり論難している。でも、読み終わってみて訳者桑名一博の懸念はよくわかる。この前に発表された『緑の家』がもう少し多層化された時間の感覚を活かして厚みを出しつつ、緑の館という焦点を持たせるのに成功していたのに比べると、出来は二段くらい劣る。

著者の力量はわかる――というよりむしろ、これだけのものを積み重ねるだけの著者の体力・気力がわかる、というべきか。マチスモ批判みたいなことがよく言われるけれど、この体力勝負の小説自体がマチスモの発露そのもの、という感じ。こっちにももう少し体力のある大学時代とかに読んでいたら印象は変わったのかな?



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バルガス=リョサ『継母礼賛』:雰囲気の盛り上げかたは見事。計算高さも鼻につかないし、短かくてホッとする。

継母礼讃 (モダン・ノヴェラ)

継母礼讃 (モダン・ノヴェラ)

これをアマゾンで検索すると、関連書のところに継母もののエロ小説やらDVDやらがたくさん紹介されて閉口するんだけれど、基本的にはそれらとそんなにちがうわけではない。ケツのでかい継母と、その夫と息子との淫靡な関係が、各種の絵画をはさみつつ古代ギリシャっぽい王さまとケツでか王妃、そしてその家臣との関係や女神の幻想やベーコンの絵の変な顔などと重ね合わされる。

でも、もちろん凡百のエロ小説よりずっと豊かで、その性的な生暖かい夢想の感覚が、音楽や味覚やウンコやその他様々な感覚を喚起しつつ、倒錯的なひっかかりなども利用しつつ塗り重ねられて、とても濃密な雰囲気を作り出しているのは見事。三者の関係もその中で非常に危ういバランスを保っていて、全体が即物性に陥らないように貢献している。セックスそのものはほぼ描かれず、決定的な場面も直接は出てこないで、その前後の話だけで感覚を盛り立てていくことで、エロチックなのにエロじゃない小説になっていておもしろい。

『ラ・カテドラルでの対話』の後では、この短さと全体の経済性はホント救いに思える。著者も、この次の『官能の夢』の筆ならし的な気軽さで書いているようで、重すぎず楽しく読める。バルガス=ジョサは、なんというかこれまで読んできた大作はどれも、自分がすごく好きで読んでいるという気はしない。ラ米作家の重鎮だからということで義務的に読んでいる感じ。力量も技法も問題意識も小説としての完成度もわかるんだけど、でもちょっとソリがあわないのだ。それはフリア&シナリオライターのようなユーモア系のものでもそうで、なんというか、ちょっと計算高い気がするのね。頭で「こんなことやろう」と計算して、あとは体力勝負でそれを計算通りガシガシ積み重ねる感じ。詩的な輝きで小説が魔術的に、著者の計算とはまったく別のところで紡ぎ上がってしまったような軽やかさや、作者自身も意図せず異様なところにいきついてしまったような驚きはないと思うのだ(たとえばドノソ『夜のみだらな鳥』は、作者もあんな話に仕上がるとは思ってなかったと思う)。本作も、結構そういう計算高さはあるんだけれど、それがそんなに鼻につかない。

一方で、こうしたエロ官能をちりばめた高踏的な小説が、フランス書院的なエロ小説や AV がたくさんあるときに果たす位置づけというのも少し考えてしまうところ。エロを避けてエロチックだけを求めるのはなぜ? そこまで盛り上げたんなら、やれば? それが『ラ・カテドラルでの対話』でも感じたもどかしさにもつながっている。これはガルシア=マルケスが、『わが悲しき娼婦たちの思い出』なんかでやったのと似たようなところがあって、ある意味で著者自身の体力の衰えからくる不能を反映しているのかな、とうがった見方もしたくなるんだが、どうだろうね。



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カプシチンスキー『皇帝ハイレ・セラシエ』:淡々とした側近の談話で紡がれる皇帝の晩年。おもしろさは太鼓判だが時代背景とその後の歴史は予習必須。

皇帝ハイレ・セラシエ―エチオピア帝国最後の日々

皇帝ハイレ・セラシエ―エチオピア帝国最後の日々

うーん。実におもしろいんだが……

これは発刊当時は、どういうふうに読まれたんだろう。皇帝独裁が終わり、軍政から社会主義政権になる過程で粛正前の密告合戦が始まった頃に原著は出ている。いま、アジスアベバに行くと Red Terror Museum がかなり最近に建設されていて、その後の社会主義時代の状況がいかに恐ろしかったかが結構如実にわかる。

本書が取材されて書かれたのはちょうど軍政の終わりくらい。本書は、軍政の恐ろしさと皇帝時代のひどい状態をあわせて描くことで、その後の粛正と弾圧の恐ろしい社会主義政府にお墨付きを与える機能を果たしたんじゃないか。

本書は、エチオピア最後の皇帝ハイレ・セラシエの側近たちにインタビューして、それをそのまま淡々と載せ(たように見える。もちろん、実際にどのくらいの編集と脚色があるかはわからない)宮廷内の権謀術策とその中での皇帝自身のかなり異様な行動、さらにはそのインタビューされた側近たちのほとんど中世的な国民観や君主観(皇帝の末路が見えたとき、星が凶兆を描き出したのです、とか)を浮き彫りにしてくれる。その意味で非常におもしろい本。でも、上に書いたような、それが当時果たした機能についてはちょっと考えさせられるものがある。ハイレ・セラシエ皇帝は、イタリアの侵略を撃退して独立を守った英雄でラスタファリアンの神だし、上に述べたその後の社会主義政府の惨状を経て、いまではノスタルジックに回顧されてしまっているし……

談話の記録だから、さらさら読めるし、独裁者の不思議な生活や行動原理がうかがえて大変おもしろい。著者は例の池沢文学全集にも『黒檀』が収録され、文学性のあるノンフィクションの書き手としては一流で、その手腕は本書にも活かされている。ただ、少し上のような時代背景はおさえておかないと、「皇帝ってとんでもないやつだったんだなあ」だけで終わってしまうと(いやとんでもなかったんですけど)、全体を見損ねる点があることに関しては注意。ちなみに翻訳は 1986 年に出ていて、その後のエチオピアについてもう少しきちんとした情報を提示して本の理解促進に貢献することもできたはずなんだが、そういう努力が見られないのは残念。ちくま文庫に入ったときには、そこらへんの配慮はあったんだろうか(ぼくはオリジナルのハードカバーで読んだので)。

だがそれを抜きにしても、権力のあり方についてのいろんなさりげない洞察は示唆的。

宮殿は凡人の巣窟であり、二流の人たちの集まりであったことを、ここで思い出さなくてはいけない。危機が迫ると、そのような人々は脳味噌を失い、自分の命をつなぐことしか考えなかった。凡庸は危険である。我が身の危険を感じると残忍になるからだ。(p.181)

大きな間違いはそこにありました。如何なる動きも認めるべきではなかったのです。何故なら、我々は静止した中でのみ存在し続けることが出来たからです。動きがなければないほど、それは長く確実に続くのです。(p.189)


これを震災後の政府や日銀に……まあそれは本書のあれというよりは個人的なアレだけど。



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バルガス=リョサ『小犬たち/ボスたち』:あぶなげない中短編集。社会問題に拘泥せず、着想の展開と書くこと自体の喜びで書かれている。

 なんだかツイッターを見ていると、今日はバルガスリョサの誕生日なの?(追記:ちがった。先月末じゃん!) 記念でもう一冊。バルガス=ジョサ唯一の短編集(いまでもそうなのかな?)「小犬たち/ボスたち」。これもずいぶん昔から持っているなあ。

 どの話もかっちりまとまっていて危なげがない。アイデア/ エピソードを中心に話を盛り立てていく。で、特に『ラ・カテドラル』や『緑の家』の社会派的なこだわりがないので(もちろんそれを敢えて読み取れといえば可能だし、訳者あとがきは「小犬たち」についてそれをやっているんだが)、重苦しさがなく、小説それ自体の楽しさが出ていて悪くない。それでもやはり、計算高い感じはするんだけど。

 あと、本書の訳者解説はおもしろい。ガルシア=マルケス論(ちなみにバルガス=ジョサは、ガルシア=マルケスをおそらくはキューバ政権を巡る見解の相違からぶん殴ってるんだって)の中で、かれは小説の意義について、

 実際の現実を修正し、偏向し、あるいは廃棄し、小説家の想像する虚構を現実によって置き換えようとする試みなのである。(中略)小説を選ぶその根底にあるのは生に対する不満感であり、一つ一つの小説はひそかな神殺し、象徴としての現実の殺害に他ならない。

 と述べているそうな。ぼくはこれに驚いた。これは完全な虚構世界に遊びたがるナボーコフであったり完全ファンタジー派やコルタサルなんかのほうがこういうことを言いそうな気がする。それに対して『ラ・カテドラル』や『緑の家』や『フリア』でも、ぼくはジョサが現実を否定して虚構を据えようというようなことを考えているようには思えなかった。むしろ醜い現実をありのままに、ノンフィクションよりリアルに描き出すための文学、というようなことを考えていそうだと思っていた。

 私は文学の素材は人間の幸福ではなく不幸なのであり、作家は禿鷹のように死肉を喰らって十分生きてゆけるのだという受け入れがたい事実を認識しはじめたのだった。

 そしてその不幸のネタは、ペルーブルジョワ階級の醜さで貫かれているというんだが、そういうあんただって立派なブルジョワじゃん、とぼくは思ってしまうのだ。そしてこのあとがきによれば、学校時代にいじめに会った(らしい)のがブルジョワ社会への怨みの原因だそうな。すると社会正義に燃えたかに見える小説も一方ではバルガス=ジョサ個人の怨み節なんだなあ、と思えてしまう。今まで知らなかったことではあるけれど、これまたぼくが、バルガス=リョサの小説があんまり好きでない理由に貢献しているんだろうとは思う。

 でも、この短編集は、もちろん不幸をネタにしたものもあるんだけれどそうでないのもあり、あり得たかもしれない他のバルガス=ジョサをかいま見せてくれる。



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