丸山『深海魚雨太郎の呼び声』:言い訳がましい石川淳みたいでぼくにはあんまり。

深海魚雨太郎の呼び声〈上〉

深海魚雨太郎の呼び声〈上〉

なんか野性的な生命力の権化のような太郎が生まれ落ちて捨てられても、成長しうだうだ、という話ではあるんだが、なんか石川淳狂風記』や『荒魂』のオープニングをやたらに引き延ばしたものを読んでいるかのような印象。突然生まれ落ちる主人公の赤ん坊が、海の生命力を、みたいな非常にありきたりな発想もつまらないし、またそれ(および太郎君)のアンチテーゼ的に入れられる非常に浅はかな現代社会や世相批判みたいなもののあられのなさもいや。

石川淳なら、その舞台がたとえば都市のゴミ捨て場であり、戦後の焼け跡であり、そうした子供が社会の周縁部で生命力をもって生き延びるというイメージにもリアリティがあったと思う。それが小説としてのリアリティをも支えていた。そこに現代文明批判的なニュアンスがあっても、石川淳はこれほど恨み言めいた書き方はせず、単純にバカにして軽視するのが常で、同時に彼らもまたそれなりの知恵や存在感もあり、しかもそれに対する反社会を口走るものもまた否定されて、単純な文明否定や社会批判に陥らないもう少し周到な図式があった。

同じような発想として村上龍『コインロッカーベイビーズ』もまた、いまの社会へのアンチテーゼやそれを見返す視線をきわめて上手に描き出していた。そして、それをもう一段克服したところに解放がある。

深海魚雨太郎の呼び声〈下〉

深海魚雨太郎の呼び声〈下〉

でも、どこかもわからぬおとぎ話の南の島で生命力ある子供が生まれまして、というのには、それだけの力はないとぼくは思う。それは著者のものほしげな妄想ファンタジーだ。その「自然」とかいうのも、きわめて抽象的な理念型にとどまっていて、いかにも都会人の妄想するおきれいな自然だと思う。結局、隠者や世捨て人文人は、その隠者ぶりを都会人に対してアピールすることでのみ生きられる、という中世中国以来の変わらぬ伝統。そしてこの本は、上下二巻かけて『狂風記』『コインロッカーベイビーズ』なら上巻三分の一までのような話で終わってしまうんだけど、どうよ。ちょっと脳天気すぎませんこと?

書き出しを読み始めたときには、少し期待したんだけれど、だんだん間延びする。それでも、書き方は少しおもしろく、あちこちに光るものはあるし、デビュー作でなら結構いいので、今後に期待ってところかな。でも、デビュー作じゃないからなあ。



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