チャンドラー『長いお別れ』英米版の差

以前訳したチャンドラー『長いお別れ』は、いろいろご指摘も受けてかなりミスも直ったのはうれしい限り。

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で、それにからんで、次の本を流し読みしていて、ちょっとおもしろいことに気がついた。

この本で、村上春樹訳での脱落箇所の指摘がある。ところが、ぼくが自分の手元の原文電子版を見ても、該当する文章がない。以下のp.69の注参照。

レイモンド・チャンドラー『長いお別れ』山形浩生訳

また、上の本でも指摘されていることだが、村上春樹は訳者あとがきで、「bars で首をくくる」という部分について、それはあまりにも変だと述べて、悩みに悩んで barns=納屋にしたというとても長い説明をしている。確かに手元の原書電子版では bar だ。ところがイギリス版では、くどくど悩むまでもなく barns になっているのだという。山形訳ではp.229参照*1

その村上の解説でも、この本は誤植その他が多くてチャンドラーが怒ったということが述べられている。上の bars/barns はそうだろう。文章の脱落もそういうミスではないかと思っていた。

ところが上の本でさらに、女の子がリーバイスのジーンズを履いているという村上の訳文の原文が trousers だと書かれ、勝手にリーバイスにした村上は勇み足では、と述べられている。でもこれもぼくの手元の電子版では levis になっている。pdf版ではp.153.

trousers を誤植で levis にするというのはあり得ない。これはアメリカ版では levis になっていて、イギリスではみんなリーバイス知らないよね、ということで trousers にしたんだろう(付記:どうもイギリス版のほうが先にあったらしいことから見て、これはアメリカ版で具体的イメージを出しやすいように変えた、という順番かな)。特にこれはリーバイスというブランドを述べているのではなく、小文字になっていることからもわかるとおり、ジーンズ一般を指しているわけだ。

すると、これは英米版で意図的に差があるということになる。上の bars/barns はたぶんただの誤植だけれど、上の文章が一つ抜けているのは、そういう意図的な削除 (または加筆) なのかよくわからないところ。ちがう箇所がこれだけなのかはよくわからない。そんなことこそ、暇な研究者がチマチマ調べて一覧表作ってほしいところなんだが、そういうきちんとしたインフラ整備の論文をだれか書いていないものだろうか。っつーか、書けよ(怠慢な学者なんかがやる/できるわけないので、自分でやりました。付記参照)。かつてケインズ『平和の経済的帰結』をやったときには、英米版で通貨をポンド→ドルに変換して、固定レートの時代だからほぼ影響はないんだがあまりに機械的なので「一、ニ万ポンド」が「二、四万ドル」になったりしてちょっと変だ、というのは指摘したことがある。でも『長いお別れ』の改訂はもう少し細かそう。

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清水俊二と田口俊樹はどうもイギリス版をもとにしている。村上春樹は、アメリカ版を元にしている。ただ清水は、アメリカ版だけにあるはずの部分も入っているように思える (彼はいろいろ省略するので判断がむずかしい) ので、ひょっとすると英米それぞれ複数のバージョンがあるのかも知れない。ベースにしたテキストは明記しておいたほうがいいねー。あとちょっと英米版取り寄せて、気になるところは比べないと(比べた。付記参照)。オンライン版、kindle版でいろいろ出回っているものは何がベースかもよくわからないし、雑にオンラインのテキストをそのまま流し込んでいるだけのやつも多いようなので。めんどー

引き続き、お気付きの点があればご指摘いただけると幸甚。ダウンロードがめんどくさければ、以下のadobeサイトでコメントいただくことも可能。

チャンドラー『長いお別れ』山形浩生訳 adobeサイト版

付記 (2026/03/08)

両方のPBをスキャンしてOCRにかけ、結果をdiffにかけたところ、英米綴りの差以外に10ヶ所くらい大きめの差があった。

特に大きめなのが、20章に出てくるアイリーンとマーロウのやり取り。マーロウが彼女のキスを奪う少し前。

'May I have just one puff?'

'Sure. I thought you didn't smoke.'

'I don't often.' She came close to me and I handed her the cigarette. She drew on it and coughed. She handed it back laughing. 'Strictly an amateur, as you see.'

この赤字の部分はイギリス版にしかない。が、これは編集ミスとかではない。ここで'I don't often.' で、たまにはタバコを吸うというのをアイリーンに言わせてしまうと、25章で彼女がタバコをふかしているのを見たときにマーロウが驚く理由がなくなってしまう。このため、ストーリーの整合性のためには、この赤い部分はないほうがいい。だからこれをイギリス版で加筆したとは考えにくい。すると、イギリス版が先にあって、そこからアメリカ版にするとき削除したということだろうか? となると上のp.69 一行抜けも、編集上の深い考えあってのことなのかもしれない。

邦訳の中では、田口俊樹訳(創元推理文庫)はイギリス版をもとにしており、この部分も含まれている。

一覧表を作った。理由が推定できるものは推定を書いたが、根拠はなく単なる憶測。

Raymond Chandler "The Long Goodbye" 英米版原書の主要な相違点
章/翻訳pdfページ アメリカ版 イギリス版 備考
3章/p.20 What I don't get is why a guy with your privileges would want to drink with a private eye. What I don't get is why a guy with your privileges would want to drink with a down-at-heel private eye.
6章/p.40 Because if they had made any kind of job of it they would have found Terry Lennox's car keys An expert search would have turned up the car keys. turn upの探して見つけるという意味での用法が、米語で不自然に思われたか?
7章/p.42 Gregorius looked at me finally. Gregorius looked at me sadly. グレゴリウスは強面なので「悲しげ」は変だと判断されたか? Sadlyは同じ場面のグリーンに使用済みで、英版で混同されていた可能性もある
11章/p.68 The best of everything, the best food, the best drinks, the best hotel suites. The best of everything, the best food, the best drinks, the best clothes, the best hotel suites.
11章/p.69 I got connexions in Mexico that could have buried him for ever. buryが埋葬されるという意味に誤解されるのを懸念したかな?
14章/p.92 tall young man tall man ヴェリンジャー自身ではなくアールのほうだと明確にしたか?
19章/p.122 tall young man tall man 2ヶ所。一貫しているので誤植ではない
20章/p.134 "May I have just one puff?'
She came close to me (…)"
"May I have just one puff?'
'Sure. I thought you didn't smoke.'
'I don't often.' She came close to me (…)"
25章でマーロウがアイリーンの喫煙に驚く場面と矛盾するので、ないほうが論理的
23章/p.152 She had levis on She had trousers on アメリカで具体的イメージを描きやすいものにしたか?
28章/p.182 roses in a tall vase. roses in a tall thin vase.
28章/p.184 french window french door
29章/p.189 She called out something that sounded like a name but it wasn't mine. She called out something that sounded like a name but it wasn't my name.
32章/p.206 Sixth - you or someone (…) Sixth - I think that's the correct number - you or someone (…) 畳みかけるような口調が、こんなのが入るとダレると思われたのか?
36章/p.228 They have hanged themselves in bars They have hanged themselves in barns 村上春樹が訳者解説で悩んでいた部分
43章/p.281 "There was a sleek glitter in his eyes.
"Million de pardones"
"There was a sleek glitter in his dark eyes.
'Milon de perdones'
スペイン語の部分は英米ともにまちがい. Un million de perdones
45章/p.299 is just a question of method. See you around- I hope.' is just a question of method. And both methods stink in the nostrils of civilization. See you around- I hope.' なくても意味はわかるので、くどいと思われたのか?
アメリカ版:Balantine books 1971年版 (13刷1984)
イギリス版: Penguin版 (1959/2010)

cheque/check, color/colour といった英語/米語の綴りの差は考慮していない。

こうして見ると、まず明らかなのはイギリス版がベースで、それを見直してアメリカ版になっているということ。最初はbars/barns などの誤植から「雑な編集してるんだなー」と思ったけれど、意外にそうでもない。多くの改訂は、それなりに理由がうかがえるものとなっている。いまは、削られたものは復元という方針にしているけれど、アメリカ版で統一するほうがいいのかもしれない。

*1:村上春樹は、クノップフ社のチャンドラー本を担当した編集者マーティン・アッシャーに問い合わせて、誤植は絶対あり得ないと言われたと書いている( p.621)。イギリス版では barn になっていることを考えると、このアッシャーなる人物の見識はあまり高くはないと思わざるを得ない。その前のページでの「フリスコ」談義もまったく理屈が通っておらず、信用できない。それを真に受ける村上春樹もどうよ。