ゴードン『ミシンと日本の近代』(つづき):マイクロファイナンス、グローバリズム、「主婦」と家庭と社会、その他なんでも!

ミシンと日本の近代―― 消費者の創出

ミシンと日本の近代―― 消費者の創出

昨日から引き続き、『ミシンと日本の近代』今和次郎考現学を通じた洋装の発達とミシンの普及(そして各種服飾学院みたいなものの発達)のからみあいから、こんどは戦時中のモンペ(お約束の但し書きはつけません)の考案とナショナリズムとミシン文化の関連、そして戦後の蛇の目ミシンなどによるシンガー社のコピー商品の発達とそれに対する異様なまでのグローバル企業シンガーミシンの対抗策(うまくいかないが)。そして、最後に 1950 年代の、ドレスメーカーとしての主婦の役割再検討と、その急激な変質。

昨日、読みかけのときに書いた、1960 年代後半からの急激な裁縫/ミシン離れについても、当然きちんと記述がある。ミシンも、縫製下請け内職のための生産財としての位置づけから、花嫁道具として少しずつカラーが変わってくる。そして 1970 年代には、かつて一日 3 時間も費やされていた裁縫は 33 分にまで激減したとか (p.282)。そこの変化の分析はあまり詳しくはないが(「作るより買う方が得」というのが p.322 で紹介されている、それでも既製服とオーダーメイドとの関連できちんと触れられている。日本はある時期までやたらに婦人服はオーダーメイドが多く、それはまさに内職縫製産業が大きく浸透していたから可能になっていた (p.295)。生産側の状況と消費側の状況がニワトリと卵状態になっていたわけね。そのバランスはたぶん非常に微妙なもので、ちょっとしたきっかけでそれが一気に既製服側に変わったんだろう。
その原因は、本書では分析されていないけれど、ツイッターではオイルショックという人もいた。もちろん所得倍増で、無理に内職しなくてよくなった面も大きいはず。あと、戦争が終わって医療保険が改善されたために、すさまじい内職や自活への意欲の背後にあった、稼ぎ頭が消えたら、という不安が減ったこともあるかもしれない。育児のありかたの変化も影響しているかもしれない。むろん、既製服側が日本人の体型や嗜好にあわせたよい製品を投入してきたこともあるんだろう。


グローバル企業たるシンガー社のあり方もおもしろいところ。シンガー社は、別にそのミシン自体が優れていたわけではない。独特の個別訪問販売システムと、女教師によるミシンの技術指導と伝道によって世界に冠たるミシンメーカーになった、とのこと (p.43) 。だから日本進出でも、その販売手法こそがシンガーの肝であり譲れない一線で、その後のすさまじい労働争議もまさにそれをめぐるものだったんだって。

ついでに「女教師」は、「じょきょうし」ではなく「おんなきょうし」と読むんだって (p.44)。アメリカでのシステムの説明の部分だけれど、わざわざルビがふってあるということは、日本に輸入されたときにこれが「おんなきょうし」と呼ばれていたということですな。昔、日活や大蔵や新東宝などの成人映画では女教師ものは定番だったけれど、女子大生とか女子高生とか「女」の熟語は基本的に「じょ」で読むけれど、「女教師」だけは「おんなきょうし」で、高校時代にちょっと不思議に思ったんだけれど、こんなところにルーツがあったとは!

女教師 (幻冬舎アウトロー文庫)

女教師 (幻冬舎アウトロー文庫)

そして太平洋戦争を経てそのグローバルな販売手法をふりかざして戦後に再参入をはかるシンガー社と、各種の関税で守られ、デザインも部品もコピーしまくり(しかし一方で、国内の事情に対応するための各種細かい工夫をハード面でもソフト面でも加えて独自性も確保したことは見逃してはいけない)で発展をとげた蛇の目やパイン(というミシンメーカーがあったんだって)の対決もおもしろいところ。シンガー社が日本企業の悪辣な手口に怒る各種の文書の主張は、まさに現在の嫌中サイトが中国製品に対して並べる罵倒そのもの。さらに国産メーカーなどが世間向けには品質ガー顧客ガーと立派なことを言いつつ、シンガーの戦後の国内進出にびびっていろいろ手管を弄しているのも見所。

ネトウヨだけでなく、最近では中年や老年のおっさんまで、とにかく日本は昔から高品質で職人芸でものづくりですばらしかったのである、ゼロ戦を見よ、『風立ちぬ』を見よ、みたいな変な神話を鵜呑みにしていて、ときどき鼻白むことがある(最近はそれがとみに増えている)。でも、最先端の技術はどうか知らないけれど、日本の消費財や一般財が最近みたいに(ときにオーバースペックなほど)高品質になったのはかなり最近の話だ。

ぼくは年寄りなので、メイド・イン・ジャパンが決してよいニュアンスではなかった時代をかろうじて覚えている。父親の持っていた、自家用車ドライバーの手引きみたいな新書(カッパブックスかなんか)に、「アメリカでは、日本車を買ったら加速が全然できなくて高速道路に乗れず、ランプで一日中待つ羽目になりましたとさ、というジョークがあるが、きちんと合流地点前からアクセルを踏めば高速で合流できる加速は十分得られるのだ」なんてことがマジに書いてあった。日本は何でもまねするコピー猿で、低品質の安い製品を量産しているだけ、というのが 60 年代半ばくらいまではまちがいなく事実だったはず。

本書でも、ミシンの補修部品の劣化コピー生産 → 経験による品質向上 → そうした部品メーカーの増加と裾野拡大 → それを集めて本体まで作れるようになる → やがてオリジナルをも脅かす水準に、という発展サイクルが成立して、やっと日本の製造業が成り立っていった様子がよくわかる。東京オリンピックあたりで、ようやく一部の分野では世界に胸を張れる物ができた感じで、それが他の商品に広がるとともに、全世界の一般の認識としてある程度浸透したのは 1970 年代以降のはず。ここらへんだれか研究してると思うので、知ってる人(稲葉大人チラッ)は教えてほしいところ。中国でも、現在の製造業はアレもだめ、コレもだめ、品質皆無、下手な鉄砲もなんとやら方式の製造だけれど、経験積むと急激に改善されるよ。変なナショナリズムで自慰にふけってると、十年後には足をすくわれかねないぜ。

(なんで表紙写真が斑鳩王のナントカになってるのかは不明。いずれ直るのでは。)

それ以外にも、ミシンの割賦販売はマイクロファイナンスみたいなもの、といった昨日の直感はさらに当たっているみたいで、男は割賦とかで浪費しちゃうけれど女は堅実で家計の財布を守りきちんと返済するといった、マイクロファイナンスみたいな(あるいはデュフロ&バナジーの性別行動経済学みたいな)話もまたばっちり出てくる。

貧乏人の経済学 - もういちど貧困問題を根っこから考える

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結局「近代化」とひとくくりにされる20世紀(あるいは明治期以来)の日本の発展も、よく見ると単一の「近代化」とか英米グローバリズムの浸食とかいう単純なものではなかったということだ。主婦というものも「三食昼寝付き」と揶揄されるようなあり方は、実はかなり最近のものだということでもある。昔は女性が虐げられ家庭内に封じ込められていたのが、だんだん社会参加できるようになってきて、これからもがんばりましょうといった単純な通俗フェミニズムの図式では見えないものがあるってことね。ついでに、服飾産業の発達をささえる社会の産業基盤ということで、イタリアの現状なんかの理解にも示唆的だし、今後の日本ファッションは大丈夫かという気も……


というわけで、最後の最後まで非常に示唆的でおもしろい本でございました。日本のある種の発展が、実に微妙な条件のからみあいだということがよくわかると同時に、各地の途上国で(特に中国製の既製服があふれている環境で)これがどう作用するのか、とかいろいろ考えることがある。ぼくたちから見ると、中国服だらけでグローバリズムによる地元産業は壊滅かと思える一方で、どんな途上国でも街角に仕立屋が残り、丈直しを中心にかなり本格的なオーダーメイドにも対応する縫製屋も店を出している。あんまり単純な見方をすべきではないのかも……とか、あれやこれや思いつきが広がる感じ。威勢良く広がって最後尻すぼみになる本も多いけれど、こいつはそういうこともない。図書館に買わせてでもいいから、是非お読みあれ。なに、いま読まなくても、来年でも再来年でも、古びたりしないから。


一つ、見落としかもしれないけれどわからなかったこと:ミシンがミシンと呼ばれるようになったのはいつから? ミシンが machine の変形なのは知っている。本書でも、1906 年の服飾学校広告では「ミシン」が登場している (p.61)。でも 1916 年の冊子では「裁縫機械」(p.57) だしそれ以前は、役所への届けでで「『シンガー』の裁縫器」「『シンガー』器械」というのが 1903 年に出てくるので (p.35)、まだミシンにはなっていなかったみたい。つまり 1903-06 年のほんの数年ほどで、「ミシン」という用語がかなり定着したらしい。ここらへんの流れもちょっと興味ある。どっか語源辞典かなんかに出てそうだけど。

なお、アマゾンのこのレビュー(なかなかよいレビューです)で「翻訳がよくない」と書かれているけれど、特にそんなことはない。固い翻訳ではあるけれど、金釘翻訳ではないし、読んで意味不明のところはない。「ひとにぎり」が「ひとつまみ」になっていたというのは、原文にもよるけど、別にあげつらうほどのことではない。しっかりした訳だと思う。