Amazon救済 2003年以前分

スキージャンプペア2」: 1がよかっただけに失望, 2005/7/28

スキージャンプ・ペア オフィシャルDVD part.2 (初回限定版)

スキージャンプ・ペア オフィシャルDVD part.2 (初回限定版)

本編が、実に動きの少ないものばかりでがっかり。それを補ったつもりか、日本のキャスター(もどき)の下手な掛け合い(まがいの棒読み)演出などをつけてさらに盛り下げています。下ネタでいくにしても中途半端すぎる。後半の、エキシビションマッチのほうがまだすこーしだけでもおもしろいか。おもしろさは人それぞれだからまあアレですがぁ、全体に見なくて後悔する確率より見て後悔する確率のほうが圧倒的に高いと思われます。 また限定版についてくる「金メダル」と称するDVDの筆舌に尽くしがたい寒いギャグ(になってないお遊戯)のオンパレードは、早送りにしても苦痛なほど。「約1時間30分の大変ヒドイモノ」とケースに書かれていますが、ここまで大変ヒドイとは予想だにしていませんでした。

岩井「会社はだれのものか」: 通俗サヨクお題目に堕して歴史の教訓を早くも忘れ去った悲しき迷著, 2005/7/24

会社はだれのものか

会社はだれのものか

 巻末のぬるい対談はさておき、本文は前著『会社はこれからどうなるのか』の焼き直し。これをライブドア対フジテレビに便乗して論じた本なんだが、具体的な例にあてはめた途端に馬脚があらわれた。今回の対立は産業資本主義対ポスト産業資本主義の見本で、ライブドア側は、金で機械設備さえ買えば儲かった時代の古いやり口なんだと。これからの企業は、優秀なアイデアを持つ人が集めないと儲からないので、従業員を重視するのがポスト産業資本主義の会社なんだって。

 でも一方のフジテレビは、そんなポスト資本主義の新しい会社だっけ? むしろ前近代的な設備型同族経営の見本でしょうに。社会貢献もしてないだろうに。好き嫌いはあれ、人を集めて新しいアイデアを活かし、設備に依存しない経営をしているのは、どちらかといえばライブドアだ。それに従来の企業だって、設備資本だけで儲かるなんていう安易なものじゃないぞ。ボブ・ソローが泣きますぜ。

 さらにラストでは、会社はこれから利益を度外視した社会貢献をすべきだそうな(長期的な利益のため、というんじゃだめなんだって)。利益を犠牲にしても社会のためになればいい、会社は社会のものだ、という。あのー、それを実際にやったのが、例の社会主義ってやつなんですけど。利潤というベンチマーク欠如でお手盛りの非効率経営となり、赤字垂れ流しで結果的に社会に負担をかけまくったのが国営企業の数々なんですけど。もう忘れたんですか? 最近の株主利益重視論は、まさにそうした過去に対する反省だったのに。そもそも「社会貢献」ってどうやって計測するの? 経済学者のくせに、そんな程度にも頭がまわらないとは!

 経済学の初歩を無視した議論、現実の現象の一知半解、さらには主張についての歴史的視野の欠如。タコツボ理論学者の限界が露呈したともいうべき悲しい一冊。本書を見て、前著の評価まで考え直さざるを得なくなったのは残念。

大平「プラネタリウム」: あぜーん。何でもすぐ作ってしまうナントカと紙一重な人の話。, 2003/6/19

いやすごい。かの有名なポータブル超高性能プラネタリウムメガスターを作った大平氏の一代記。商用プラネタリウムを遙かにしのぐ化け物プラネタリウムを自作した、という話はきいていたけれど、まあそれだけの物を作るなら何か恵まれた条件があったとか、多少の援助があるとか、そういうのだろうと思っていたら、まさか自分のアパートにクリーンルームまで作って工作機械を入れている!??!!!

 小学校自体からひたすら物づくりが好きで、ふつうの人なら当然のようにあきらめるところでしつこくねばって何でも作ってしまう! 電源周りの勉強のために電源会社でバイトをし、投影用ドームがないと思えば家庭用扇風機でこしらえ、クリーンルームも「仕方ないので作った」と平然とのたまう。すごい。!読んでいて茫然自失の驚きの怪著。別に凝ったことは書いてないし、上段にふりかぶった哲学もないけど、淡々と「とにかく作った」ことを書き続ける本書は、あなたを感動にうちふるえさせずにはおかないであろう! と断言しよう。

岡崎京子「うたかたの日々」: オリジナリティなし。原作に遠慮した忠実すぎるマンガ化。, 2003/5/6

うたかたの日々

うたかたの日々

ぼくがボリス・ヴィアンの原作を読みすぎているせいかもしれない。でもぼくは本書にあまり高い評価をあげられない。岡崎京子がマンガ化したことで得られる追加の価値がまったくないからだ。これは岡崎京子が、原作に遠慮しすぎているせいも大きい。

全体は、ヴィアンの書いた話を追ったにとどまっている。そして、そのヴィアンの一つの身上でもあった、各種のかっこいいエピソードが、絵として表現できていない。ネクタイが反抗しまくって、きちんと結べるまでに3本が死んだ、といった楽しいエピソードはことばで説明して済ませているだけ。コランが貧乏になるにつれて部屋が狭く貧しくなる様子や、料理が貧相になる様子も、岡崎京子の絵柄では表現しきれていない。そして、開き直ればいいものを、原作の引用をたくさん入れていちいち字で説明してしまう。

またその後、ヴィアンがずいぶん気に入って、別の小説のタイトルにまでなっている心臓抜きも、どんな形をしているのか描けていない。そしてその心臓抜きで抜かれたジャン・ソール・パルトルの心臓が四角くて、抜かれたパルトルがそれを見て驚きながら死んだ、といったエピソードもなし。原作の現代性は、それが暗い話なのに、こういう小ネタの積み重ねでと血の気のなさのおかげであくまで軽々しいところにある。最後にみんなが死ぬシーンだって、投げやりで軽い。差し押さえの役人・警官群ですら、その官僚根性の出し方が軽々しい。登場人物たちが死ぬがれきや血の海を描いてしまうと、原作の価値がかなり損なわれてしまう。

そして、それに対して岡崎京子ならではの工夫や翻案は、まったくない。

そのままのマンガ化という意味では、原作の価値を7割3分くらいは保って上手にこなしてはいる。だから星3つ。でも、それ以上のものがまったくないのは残念至極。

町田『生成文法がわかる本』: かゆいところに手が届く!, 2002/11/28

生成文法がわかる本

生成文法がわかる本

チョムスキー生成文法は、名前は聞いたことがあっても実際に勉強しようとすると、直感的に全体像がすぐわかるわけじゃないし、なにやらNPだのXバーだのよくわからんことばがたくさん出てくるし、えらくとっつきが悪い。概説書を読んでも、ピンカー『言語を生みだす本能』みたいな良書でさえ、生成文法論がわかった気にはならないし、そんな人が田中克彦チョムスキー」みたいなまちがいだらけの本を読んで、わかった気になって勝手な誤解をまき散らすみっともない図がいたるところで見られます。はい、このぼくもかつてはそうでした。

 本書は、とにかく生成文法についてきちんと、でもわかりやすく、さらにおもしろく説明してくれる見事な本。何のために生成文法があって、それが具体的にどんな話か!!!きちんと一歩ずつ教えてくれます。途中のいたるところで「素朴な疑問」にしっかり答えてくれるのも嬉しい。かゆいところに手が届く説明。卑近な例を縦横につかいまくった、言葉をおしまない親切なおしゃべり口調(それでこれだけ薄いというのはオドロキ!)

さらにそれだけじゃない。同時に、生成文法の問題点について、いろいろ説明してくれるところがうれしい。それが絶対的なものじゃなくて(ピンカー本とかは、「もう生成文法で決まり!」てな感じがしすぎることも多い)、あまりきちんと確定してなくて、といった事情についてもきっちりまとめているのはすごい。ぼくは本書ではじめて、生成文法がわかりはじめた(まだわかりきってはいませんが)。チョムスキーがらみの知ったかぶりの治療にもどうぞ。

Garbage in, Garbage out の見本。仮説検定の手法を勉強しましょう。, 2002/4/7

コンピュータの向こうのアリスの国

コンピュータの向こうのアリスの国

コンピュータに使われただけのかわいそうな本。いろいろ検索して言葉の出現を数えたりはするんだけれど、その結果を正確に評価することができてない。 たとえばアリスでは、風変わりなものに出会ったときにcuriousということばとstrangeということばが使われる。これはどう使い分けられるんだろうか? 著者たちは、検索で使用箇所抜き出す。で、curiousが使われているときには、アリスにとって好意的な風変わり、strangeだとニュートラルな風変わりになっている、という。結論としてはアリス(または話者)の関心の性質に応じてことばが使い分けれられていることがわかる、というんだ。

でも、そのそれぞれの描写の部分の「関心の性質」はどうやって判断できるんだろうか。アリスがどう感じているか、何でわかる それはまさに、そこで「strange」が使われているか「curious」が使われているかでしか判断できない。これらのことばの使用そのものが、その文脈を作ってしまうんだ。

つまり著者たちは、説明変数(使用単語)と被説明変数(文脈)をきちんと区分せずに、「curiousを使っているので好意的と解釈できる文脈ではcuriousが使われる」という堂々巡りをしているだけ。それぞれの部分を見て、「ここはこういう場面だからアリスは好意的なんだ」という解釈はくっついているけれど、それはあとづけの説明でしかない。どうとでも言えるものばかり。

その他の「分析」と称するものも、いろいろ出てきた数字に勝手な解釈やアドホックな説明をくっつけただけ。文学分析にコンピュータを使う試みは別に初めてじゃないだろうに。著者たちはGIGOということばを肝に銘じるべし。モデル構築、仮説立案、その検定と棄却についてマジに勉強すべし。アドホックな説明がまずいことも理解すべし。それなしにいくらコンピュータまわしても、ゴミが量産されるだけですぞ。本書のように。