ポランニー/イモータン・ジョー/コルナイ:不足の経済と社会権力

Executive Summary

 ポランニー『ダホメ王国奴隷貿易』は、ダホメでは経済が社会に埋め込まれており、各種交換は社会関係の一環として行われる儀礼でしかない、権力関係の結果として行われるお歳暮やお中元みたいなもの、という描き方をする。だがその見方は片手オチではないか? 各種交換や配布は人々の生存に直結するものであり、その中では、そうした贈与にせよ交換にせよ、そうした行為自体が権力を創り出す。これはコルナイ・ヤーノシュ「不足の政治経済学」の指摘でもある。つまり、そうした経済関係がむしろ社会関係とその権力関係を創り出しているのでは? ニワトリと卵的な面もあるが、社会関係を先に置くのは倒錯ではないのか?


昨日、ポランニー『ダホメ王国奴隷貿易』の全訳終わった。

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この本は、小さく見れば17-19世紀ギニア海岸での経済システムと、特に奴隷貿易に伴うその変化を扱っている*1

が、そのダホメだけの話を超えて、あの本にはいまの西側資本主義=市場経済システム批判、という大きなテーマがある。いまの西洋では、あらゆるものが市場関係で決まってしまっている。自由も、平等も、人権も市場の要請から決められた価値観だ、という指摘はとても重要。そして、多くの人は、自由や平等が市場に形作られた社会組織でしかない、ということにすら気がつかないくらい、市場システムにどっぷり浸かり、それに囚われきっている。ポランニーはそれを批判する。

これに対してポランニーの描くダホメ経済は、社会に埋め込まれている。社会関係の一部として、経済関係があるのだ。そこでの経済は、取引や、まして収益のためのものでは必ずしもない。広い意味での経済、モノのやりとりは、社会的なつきあいであり、儀礼だ。

そしてそれ故に、収益だけのために勝手に取引が起こり、全然知らないやつがいきなり取引して、なんてことはあり得ない。社会の中で、関係の維持のために、決まった形で決まったもの同士の交換が起こる。市場での価格交渉に見えるものも、実は価格交渉ではない。決まったモノ同士の交換が起こるときに、そこで交換されている「モノ」が、ちゃんと「決まったモノ」の決まり通りになっているか、つまり品質が基準を満たしているか、つまり交換という儀礼のお作法を守っているか、という話だ。

ポランニーは、もちろん冒頭で、ダホメ美化しちゃいけないよ、王様がでかいツラして捕虜を先祖への生け贄として大量にぶち殺す野蛮なところだよ、という注意書きはする。が……彼がその仕組みに魅了されているのは、読めばかなり明らかだとは思う。もちろん、冒頭での市場システム嫌いとあいまって、その印象はなおさら強まる。

 

その主張はわかる。何でも市場化しないやり方もある、社会に埋め込まれた経済のあり方が存在する——それはわかる。が、その一方で、ぼくはちょっと賦に落ちないものを感じている。

社会関係、つまり権力関係とその儀礼の仕組みやお作法が最初にあって、その中で従属的に経済が動いています、経済はただの握手とか、結婚とか、お世辞とか、成人式とか、そういうのと同じで、その社会関係と人々のつきあいの一形態なのです、というのは本当なのか? 社会とその人間関係が主であり、経済は従であるというのは本当なのか?

ぼくは、なんか逆のような気がする。このダホメの社会においても、経済が主であり、社会制度はその結果でしかない。なぜか?

いきなり、あらかじめ社会と権力関係が不変の形であります、というのが変だと思うからだ。王様が食べ物をでっかいお祭りの中で、税金としてとりたてたものすべてをみんなに贈り物としてくれてやる、という。でも、まさにその、みんなに贈り物として食べ物だのなんだのをくれてやる、ということ自体が権力関係を創り出している。社会の一部として経済がある、というのは変だ。経済の結果として——その流通配分システムにより、社会を構成する権力関係が作られている。

だって、それってまさにこのマッドマックスの世界だもの。

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イモータン・ジョーとこの乞食のような民草との関係 (ついでにウォーボーイズも) は、社会があって、権力関係があって、そのなかで儀礼として水をまいているのではない。まさに水を撒くことが、イモータン・ジョーの権力の源であり、それがこの社会を作っている。

そしてここで出てくるのが、コルナイ・ヤーノシュ。彼の「不足の経済学」だ。

この人の理論もいろいろ含蓄があってすばらしいんだけれど、その大きなポイントの一つは、ものが不足している状態だと、単純な需給と価格調整による市場とはちがうものが作用しはじめる、ということだ。

不足状態では、持っている人は、持たない人に対して権力行使できるようになる。足りないものを誰が得るのか? いちばん高いお金を払った人、という仕組みもあり得る。でももう一つ、持っている人が、だれがそれを獲得できるのか、という選択権を行使できるようになる。そして逆に、その権力を行使できるようにするために、様々なものを出し惜しみし、不足を人工的に作り出すことさえやるようになる。

コルナイは、これを数理モデルにまでして (ごめん、その部分は読み飛ばしてるのではっきり説明できない) もとにして、社会主義の経済/社会が陥っている状況を見事に描き出す。

おそらく、ポランニーが描いたようなダホメ経済が成り立ったのは、経済の生産力が限られていたため、あらゆるものが軽い不足状態に置かれていたことがある。そしてそれ故に、それを(おそらく最初は暴力か血族関係により) 集めてみんなに配る、という配給システム/贈り物システムみたいなものが出てきて、そしてそれが社会の権力関係を確立していった。いったんそれがまわりはじめると、経済は確かに社会に埋め込まれ、権力構造の結果としてモノがやりとりされるだけに見えてしまう。

特に、ポランニーはすべて文書記録をもとにあれこれ記述をしている。すると、社会関係があって、その中でお歳暮やお中元や季節の贈り物をしているうちに、なんとなくあらゆる人が過不足なく物が行き渡る、みたいな印象が得られやすいのかも知れない。

でも、そのモノのやりとりが、まさに権力をかためて社会を作る——たぶんそっちのほうが重要なんじゃないか。

というのも、そこで交換されている食べ物その他は、なければ死んじゃうものだからだ。単なる儀礼的なおつきあいだけでいろいろ交換しています、というのはたぶんあり得ない。それぞれのケースでそれぞれの人が、そういう意識で贈答をしている可能性も十分にある。でも、たぶん実際はちがう。ポランニーは、その現場を見ていない。もちろん、彼は20世紀のひとだから。でもその贈答の現場——イモータン・ジョーのこの儀式を実際に見れば、そんな平和なお歳暮のやりとりでないのは、たぶんすぐにわかるはずだ。

ある社会が一定期間存続した、ということは、その社会の物質収支がなんとかトントンでまわっています、という証拠だ。そしてそこで生産力の上昇がなければ、何か配分のシステムができた場合、そこからちょっとでも逸脱したらだれかが死ぬ。したがって、そこから逸脱しないような必死の努力が社会参加者のすべてによって行われる。それがまさに、ポランニーの見ていた、「先にある社会」の安定性=硬直性の源だ。それを支えているのは、(不足気味な)物の分配流通の仕組みとしての経済と、その不足の経済から生まれる権力、なのだ。

つまりは下部構造が上部構造を規定する。マルクスさま♥

これはニワトリか卵かの議論ではある。だから当然、ポランニーがまちがっているとかいうのではない。でも、彼があまりきちんと述べていない逆の面もあるのはまちがいない、とは思う。そしてコルナイの見方をとるなら、社会主義(の一形態)がダホメに似ている、というよりダホメが社会主義に似ているというべきか (まあこれは言葉遊びに堕しているが)

ついでながら、ポランニーも、コルナイも、ハンガリーの人なのね。この両者が、別の形とはいえ、いまの一般均衡的な市場システムのあり方に疑問を抱き、不足をベースにした経済システムと社会との関わりみたいな話を展開しているのは、単なる暗合かもしれないけれど、なにかハンガリー的な視点というのもあるのかもしれない、という気はしなくもない。

というわけで、みんなポランニー読まなくていいから、マッドマックス/怒りのデスロードを見なさい! それでわかるから! V8!V8!

……というオチでいいのかな?

*1:栗本慎一郎は確か『パンツをはいたサル』で、ダホメの奴隷取引は、西洋がいやがる奴隷を無理矢理買っていったのではなく、ダホメ人たちのほうが積極的に販売していて、常にダホメ人たちのペースで話は進み、白人たちは翻弄されていただけだった、と述べていたけれど、記述を見るとそんなことはない。ヨーロッパ人たちがダホメのやり方にあわせてあげていたのは事実。でも、そこに詰め合わせ方式を導入し、独自の変な通貨単位をでっちあげ、利潤確保をしていたヨーロッパ人どもの巧みさは、やっぱ肉食ってる連中はちがうぜ、という感じではある。