フエンテス『聖域』:神話構造を現代に重ねる習作。根底にあるナルシズムのためにいやな小説になっている。

最近出た「空気澄みわたる地」あとがきで「意味不明」と言われていたので、ずっと積ん読(冒頭の、ユリシーズは実はセイレーンの歌を聴いていなかった説まで読んだ)だったのを引っ張り出して読んでみた。

確かに意味不明と言われても仕方ない。が、自慢だけど、ぼくは結構、この小説の「意味」はわかるのだ。

が、『聖域』は意味がわかるとなおさらいやな小説で、神話的な物語と現代の物語を技巧的に重層化しようとする習作と言うべきものだと思う。大女優の母親に(もちろんエディプス的に)焦がれつつ手出しできずに翻弄されるだけの息子の話なんだが、それをカルロス・フエンテス(の描く主人公ギリェルモ)は、マストに自らをしばりつけてセイレーンの歌を聴こうとしたユリシーズと対比させる。ところが、そのときセイレーンは歌を歌わなかったのだ、とギリェルモは言う。でも、自分は誘惑に耐えた英雄と喧伝したいユリシーズは、その事実をだれにも告げられない。つまり、手出しできないのに求めるものも与えられず、それをだれにも打ち明けられない、という状態を比喩的に使いつつ、最後に母の服をまとって母になり、そして母から与えられて人間に媚びるしか生きる道のない犬になり、という描き方で閉塞的な人間関係を描き出そうとする。

カルロス・フエンテスの小説はたいがいそうで、人間関係とその出自とアイデンティティ(これは家族関係であったり、神話的なものからくる民族的な背景だったり)とが相反する状況に追い込まれて人々が苦しみつつ、しかもそれが円環的に絡み合って、人々がそこから逃れられない状況がくどく描かれる。
さて、文学の多くは、近代化に苦闘する人の話で、だからしがらみの中で自由を求めて苦悶する、というのが常道だ。古い習慣や因習と、新しい自由な世界、というわけ。そして、そこで自由になりきれない自分、社会の進歩を阻害する因習、でもそこにあるノスタルジー、といったものがからむけれど、でも基本的には自由と近代的自我がよい。因習はどっちかといえばネガティブだ。
でも、フエンテスや一部ラテンアメリカ小説の特徴というのは、それが逆の場合がしばしばあることだ。そこに描かれているのは、己の神話的なルーツや関係に苦しむ人々のようでありながら、実はフエンテスはそれにあこがれていて、その閉塞感から逃れたいとは思っていない。フエンテスは、己がずっと外国育ちだったこともあって、「メキシコ人とは何か」という問題にこだわっており、それが当時のメキシコの状況ともうまく呼応したのがその評価の高さをもたらしている。でも、フエンテスの悩みは、実は自分がメキシコに属していないこと、閉塞されず、とらわれていないことだ。彼は、とらわれたいと思っている。血と神話にがんじがらめにされたいと思っている。だから、かれの小説のとらわれ方や閉塞感は、しばしば喜ばしく楽しげでさえあり、特にそれは、最後に神話的な話が出てきたときに顕著となる。

ここらへんをフエンテスはかなり周到に構築するようになるし、その技巧は見事。でも、この『聖域』はその後彼がうまく隠すようになった面をはからずも露呈させている。フエンテス自身はこの作品を書いた時点ではわかっていないことだけれど、結局主人公が己の母になり、そしてかわいがりつつ虐待する犬になるというこの小説は、すべてが自分のなれの果てであり、その息子が愛しているのは母の中の自分自身であるという、あられもないナルシズムの露呈にもなっているのだ。訳者の木村栄一はこれをイニシエーションだと解釈しているけれど、何へのイニシエーション? 最後まで抜けられないままだし、ぼくは無理な解釈だと思う。愛するのも愛されるのも自分――その自己愛ぶりが、『聖域』をとてもいやな小説にしている。それはフエンテスの多くの作品で感じられる、息苦さだと思う。大学時代にはそれを「ねっとりした悪夢空間」などとほめている人の戯れ言を読んで感心したふりをしていたけれど、いまはそんなものを一顧だにするつもりはない。豊崎由美はこの手のやつをえらくありがたがるけどね。

そうしたナルシズム発の息苦しさは、たとえば『アウラ』なんかでは作品の濃密さに貢献してよいほうに働いていたが、長編だとつらい。これは『脱皮』も同じ。ちなみに『脱皮』についてカルロス・フエンテスは、完全な虚構性を受け容れることが重要だとか言っているが、実際にはそれは、フエンテスの自意識過剰に我慢できるかどうかが重要、という意味。これを読んで息子を怒鳴りつけたフエンテス父はえらかった。

さらにフエンテスというのは、いいとこのボンボンで、この『聖域』はかれがハイソでタカピーなセレブ世界を高踏的に描いた、なおさらナルシスティックな「ぜいたく言いやがって」作品になっているのが一層げんなりさせられる。他の作品だと、ここの神話世界のところにメキシコのチャックモールで太陽神に生け贄で、といった血なまぐさい話がまじってくるので、それがフエンテスの土着性と民衆性みたいなのと結びついているかのような印象を持ってしまうけれど、この『聖域』はそれが後付でしかないことをはっきり示している。頭でっかちなエリート世界の作家で、ホントは下々の卑しい世界とは無縁だということ(まあ作家なんてみんなそんなものと言えばそれまでだが、その中でも特にそうだということ)をうっかり露呈させたのが『聖域』だ。

澄みわたる大地

澄みわたる大地

というわけで、フエンテス復習の意味では、いまこれを読んでおいてとても有意義だったと思う。さて、これから『空気澄みわたる地』にとりかかりましょうか。あと「テラ・ノストラ」、そろそろ読まないとなあ。



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