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反知性主義3 Part 2: 内田編『日本の反知性主義』:白井聡の文は、無内容な同義反復。他の文は主に形ばかりのおつきあい。

書評 反知性主義

はい、まだ反知性主義の話は続きます。第3部を前編と後編にわけるなんて、最近の無内容を引きのばそうとする『トワイライト』とか『ホビット』『ハリポタ』『ハンガーゲーム』みたいでいやなんだけどさ、お金とるわけじゃないし、どうせ読む側もあんまり長いのは飽きるでしょ?(といいつつ、今回もえらく長いんだけど)

これまでの話は以下の通り:

反知性主義1:ホフスタッター『アメリカの反知性主義』は、知識人のありかたを深く考えていてとってもいいよ

反知性主義2:森本『反知性主義』は、アメリカに限ったまとめとしてはまあまあ

反知性主義3 Part1; 内田編『日本の反知性主義』の編者による部分は変な思いこみと決めつけだらけ

白井の文は、グローバリズムとかポストフォーディズムとか聞きかじりだけで並べた無内容な文である。

というわけで、お次は白井聡の文に移ろう。白井の文は、このアンソロジーの中で「反知性主義」に関するアカデミックな分析を、一応は期待されているんだろうと思う。そしてその書きぶりは、いかにも学問的な体裁だ。世界の社会経済的な文脈の中に、日本の「反知性主義」なるものを位置づけようというわけだ。そしてずいぶん力も入っている。総ページ数50ページほど。「はじめに」を除けば内田の文とほぼ同じ。

でも、残念ながらぼくはこの文にあらわれた世界の社会経済的な状況認識が、基本的にはなまくらで表層的なものでしかないと思う。そしてそのために、文章そのものがこむずかしいのに結局大したことを言えず、基本的には同義反復に堕している。

まずこの文は冒頭でこう述べる。

「今日の日本で反知性主義が跋扈していることについて、本書の読者はほぼ異論がないであろう。(p.65)

この時点で白井の文は、それが内輪向けのなれ合いの文であることを明言している。読者は「反知性主義」の何たるかについて同じ認識を持ち、その現状についても立場を共有しているというわけ。

そしてこの文はそれに続けて、基本的な主張を述べる。

「そこにはおおよそ二つの文脈がある。ひとつには、ポストフォーディズムあるいはネオリベラリズムと呼ばれる、1980年代あたりから世界的に顕在化した資本主義の新段階において、反知性主義の風潮は民主制の基本的なモードにならざるを得ない、という事情である。これは新しい階級政治の状況である。

 いまひとつには、制度的学問がそれに根ざしているところの「人間の死滅」という状況が挙げられる。(p.65)

ポストフォーディズム

 さて、まずこの前者。「ポストフォーディズムあるいはネオリベラリズムと呼ばれる云々」の部分。この時点で、白井の文は一知半解の印象論でしかないことがだいたい露呈している。だって、ポストフォーディズムネオリベラリズムって、全然ちがう話なんだもの。

ポストフォーディズムというのは、通常はT型フォード量産に代表される、少品種大量生産に基づくフォーディズムの後にくるものだ。フォーディズムは、管理者・計画者(知的労働者)とフロアの労働者(何も考えない肉体労働者)という明確な階級分離を前提とする。それに対して、ポストフォーディズムは、通常は多品種少量生産を胸とする。製造ラインレベルでの柔軟かつ高度な対応を要求されるので、労働者もある程度の知的な対応が求められる。かつてほど明確な階級分離はなくなる。

これに対してネオリベラリズムというのは、1970年代までのケインズ主義的な「大きな政府」による経済体制に対する批判として生まれ、効率の悪い公共をあらゆる場面から追い出し、規制緩和と市場化・自由化を全面的に進めようという考え方。これが結果的にかなりの格差を生み出したのは、ピケティ『21世紀の資本』などが指摘する通り。

だからこの両者は同じ扱いができるものではない。特にポストフォーディズムは、基本はむしろ末端の労働者にまで知性を要求するもので、「みんなバカ」という白井&内田の文が考えているような「反知性主義」とは方向性がかなりちがう。でも白井の文は、それをごっちゃにして平気だ。

その白井の文も、ポストフォーディズムについて調べているうちに、これに気がついて、なんかちがうようだと思ったらしい。でもそれを強弁してなんとか取り繕おうとしているのが、p.78の記述。ポストフォーディズムで労働者の教育が重要視されたけど、それが成功したかどうかはわかんなくてネオリベの大きな波がやってきた、というんだが、じゃあポストフォーディズム関係ないでしょ。白井の文が最初に述べている「反知性主義」の背景にもならない。

グローバリズム

そして、知的な労働者が必要なポストフォーディズムがなぜ「反知性主義」をもたらすのか?それは、えーと、グローバリズムのせいなのだという。グローバリズムのおかげで、賢い労働者は外国から輸入すればよいことになった、とのこと。よって自国では人々の教育にお金をかけないという反知性主義が広まったという。

グローバリズムについての一般的な発想を知っている人は、この議論に首を傾げるだろう。輸入できるような知的高技能労働者がそんなに世界中にたくさんいるの?そんな形の労働移動が起きているなどという話は聞いたことがない。ましていまの日本の低所得層を完全に代替しきるほどの高技能労働者が、日本に流入してるなんてことは……ないでしょー。グローバリズムの影響という話では通常、低技能を使う工場が海外移動して、国内に残った労働者は技能を高めねば、という議論になるんだが、白井の文の主張はこれと正反対だし、それを裏付ける根拠も一切ない。ついでに、日本は移民を(偽装奴隷研修制度とか以外では)全然やってない。なら日本が「反知性主義」に向かう理由はまったくないということになってしまう。

ネオリベラリズム

そして、ネオリベラリズムはどうなるんだろうか。これが実にはっきりしない。ネオリベラリズムは、格差を生み出す、という話を白井の文は(ピケティを引き合いに出しつつ)述べる。それが知的な上流階級と、バカな下層階級との分離をもたらした、と。だから下流社会とかB層とかヤンキーとかが生まれてきたとのこと。そしてネオリベ政権は、人々が馬鹿なほうが操りやすいから人々を愚かにしようとして、このため「反知性主義」が生まれるとのこと。そして、日本は戦後に階級をなくすのに最も成功したからこそ、いま新しく階級が生まれる際には最も強く「反知性主義」が出ているそうな。

でも、人々がバカのほうが操作しやすいというのは、別にネオリベ政権でなくても言えることだ。そしてB層とかヤンキーのような話は昔から言われている。一億総白痴化、なんてことを言った人もいる。それがいま、どう変わったのか?さらにそれは、ネオリベという思想だか主義だかが意図的に目指すものなのか、それとも副作用として生じたことなのか?白井の文は、あるときはそれが意図的だという主張をし、あるときはそうでないような書き方をする。さらに、日本での格差はピケティが批判した欧米とはちょっとちがうことは多くの人が指摘しているし、その度合いもちがう。日本の反知性主義が最もひどいというのも、本当だろうか?階級についても、反知性主義の度合いについても、何一つ具体的な裏付けがないまま、白井の文はひたすら思いこみだけで展開する。

そもそも、日本の今の政権は本当にネオリベラリズムなのか?これまたまったく検討されない。個別の政策を見ると、規制緩和を目指す部分もあるから、それをネオリベラリズム的だと言うこともできるだろう。でも、全体としてはどうなの?相続税上げたり税金上げたり、ネオリベ的でない部分も多々ある。白井の文は、ネオリベラリズムについてきちんと定義や検証をすることなく、「現政権は教育費を削っているからネオリベネオリベだから教育費を削る反知性主義に走る」という循環論法がひたすら続くばかり。

ポモ的な「人間の終焉」についてもあれこれ書こうかと思ったけれど、全体の中で大した役割を果たしていないので割愛。それで議論が変わるわけではない。

嫌いなものをつなげて見せただけ?

結局、白井の文を読むと、実はネオリベラリズムグローバリズムもポストフォーディズムも、まるできちんと理解してなくて、聞きかじりで言葉を連ねているだけなのではないか、と思えてくる。でも、白井の文はそれで事足れりとしている。なぜか?これはすでに「反知性主義」的な傾向が存在するということを論証不要の前提としている身内に向けられた文章だからだ。そして、そういう人々は、ネオリベというのを何かよくないものだと思っている。グローバリズムというのも、人々を抑圧するろくでもないものだと思っている。だから、それらを線で結んで「これはみんなつながってるぜ!」と言う文に対しては、そういう読者はそれだけで喝采する。

稲葉振一郎などがときどき指摘するけれどネオリベとか新自由主義とかいうのも、人によって意味がちがって、多くの場合には単に自分が気にくわないことすべてに安易にはりつけるレッテルと化している。グローバリズムというのもそうだ。白井の文も、そこからいささかも出ていない。そして……「反知性主義」というのもそういうレッテルとなっている。つまりはどの用語も、このシリーズの最初に述べた、「バーカ」のご立派な言い換えにすぎない。だから白井の文は、「反知性主義」はネオリベのせいだと主張するけれど、その中身は結局、「気にくわない連中は気にくわないぜ、バーカ」という同義反復の練習問題にしかなっていない。

ホフスタッターはネオリベポモの夢を見るか?

そして、反知性主義ということばの定義についてだけれど、白井の文にはこうある。

リチャード・ホーフスタッターによる古典的名著『アメリカの反知性主義』によれば、反知性主義とは「知的な生き方およびそれを代表するとされる人々にたいする憤りと疑惑」であり、「そのような生き方の価値をつねに極小化しようとする傾向」とされる。私はこの一般的な定義に同意するが、ここでポイントとなっているのは、反知性主義は積極的に攻撃的な原理であるということだ。(p.67)

さて、まずホフスタッターを援用した時点で、なんだか白井の文の主張が本当になりたつのか、というのは当然抱くべき疑問だ。ホフスタッターは、アメリカ建国以来の200年を扱っている。その時代に、ネオリベラリズムだのグローバリズムだのポストモダニズムの「人間の死滅」なんてものはあったんだろうか?たぶんないだろう。だったら、そうした思潮こそが反知性主義の元凶だという主張はそもそも変じゃないか?

さらに、ぼくはここで引用されているホフスタッターの定義を見ても、それが積極的に攻撃的な原理であるなどということがポイントになっているとは読み取れない。「憤り」の一言があるから攻撃的だと言いたいのか?でも何かに不満を抱くのとそれを攻撃するというのは話がちがう。

でも白井の文は、このようにしてそこに必ずしも書いていないことを、自分の思いこみに基づいて強引に引き出している。ちょうど、ネオリベグローバリズムの話でそうしたように。ぼくはこれが、ちょっと悪質な歪曲だと思っている。白井の文の立場に同調する読者は、そういうのをおおめに見るのかもしれない。でも、そうでないぼくのような読者にとって、この白井の文は、勝手な思いこみに基づいて特に裏付けのないことを放言し、嫌いなものをいい加減につないで見せただけのものでしかないだろう。

示唆のない結論は、上から目線のニヒリズムでしかない。

この現状「分析」の後に、白井の文は否定ナントカが現状には蔓延しているのであり、今後それを覆すために頑張らなくてはいかんが、あれもこれも八方ふさがりでお手上げで、それでも諦めてはいけないけどどうすればいいかよくわかんないよ、という結論をくっつけている。現状についての分析と認識が上に述べた通りかなりトホホであり、妥当性を欠くものである以上、この結論を真面目に考える必要はないだろうし、考えたところで、グチ以上のものはないから、読者としては徒労でしかない。

それ以上に、「反知性主義」を少しでも改善するにはどうすべきか?そういう提言がまったくないのは残念至極。[反知性主義」の意味合いはさておき、諸般の事情で世の中がバカだらけになって、しかもその状況を悪化させようという政府の方針(主義)さえある——そういう考え方はあるだろう。でも多少なりともそれを変えるための具体的な提言はおろか、多少の示唆にすらつながらなければ、それは結局現状の追認と諦めを表明するニヒリズムと、「でもワシはそれを憂慮できる賢い知識人なのよオホホホ」という優越感をまぜこぜにしただけの、非生産的な代物にしかならない。ぼくは白井の文(そして内田の文も)がまさにそういう代物に成りはてていると思う。

その他の文について

ここまでで、だいたい本全体の半分くらいが費やされている。他の文はほとんどがおつきあい。本書の他の人たちは、ホフスタッターをおそらくは読んでいない。かれらは「反知性主義」というものについて、内田に与えられたお題をそのまま鵜呑みにしている。そういう立場であれば、反知性主義の理解がどうの、と目くじらをたてる筋合いのものでもない。これまでが長すぎたこともあるし、あとはざっと流す感じで……

高橋源一郎の長い題名の文

高橋によるこの文は、あまりきちんとした主張をしている文ではない。題名からもわかる通り、そもそも反知性主義なんていう話はしたくなかったけれど、おつきあいでとりあえずページを埋めました、という文でしかない。細雪が発禁になった話をして、それは知性が女性的だから云々と述べるけれど、ほのめかしの書きっぱなしできちんとした考察はない。ぼくは、単なる思わせぶりで無内容な文だと思う。でも、それを何か余韻のある深い文章だと思う人もいるだろう。

赤坂真理「どんな兵器よりも破壊的なもの」

赤坂のこの文も、お題である「反知性主義」「反知性」に対する戸惑いから入って、それをあっさり無視して天皇制の話であちこちふらふらして……それで終わる。内田の「反知性主義」に居心地の悪さを感じていることはよくわかるけれど、高橋源一郎の文章のようにそれを平然と蹴っぽるほどの図々しさはなく、なんとかそのお題に応えようと右往左往するのが読んでいてちょっと痛々しい。その居心地の悪さはおそらくは鋭いのだけれど、それがまったく追求されないのはちょっと残念。そして、右往左往はするがまとまらず、きちんとした主張や論旨がないまま投げ出され、たいへん煮え切らない。

平川克己「戦後70年の自虐と自慢

平川の文は、安部首相を「反知性主義」つまり頭が悪いとけなすことに違和感を感じている。そして……なんとその後に出てくるのは、内田樹の文での主張に対する(意図せざる)全否定だ。

反知性主義とは知性の不足に対して形容される言葉ではない。現場での体験の蓄積や、生活の知恵がもたらす判断力を、知的な営為や、創造力がくみ上げた合理性よりも信頼するに足るという保守的イデオロギーのことである。(p.157)

!!!!これはまさに、内田の文章で述べていた主張をひっくり返しているのだけれど、編者はこれをちゃんと読んだのだろうか。

その後、平川の文は、日本に比べてドイツの戦後処理は立派だと、各種ドイツ首脳の演説を引用して安部首相の演説の揚げ足取りをしつつドイツ絶賛を繰り広げる。でも、ドイツが軍隊を持っていて武器輸出もしていて集団自衛権も否定していないことについてはまったく無視。重要なのは、実際の軍事的な行動のほうじゃないかとぼくは思うんだが。

小田嶋隆「いま日本で進行している階級的分断について」

小田嶋の文は、変な自意識にからめとられているときには無惨な代物となる。でも、そうでないときにはよいセンスがあることは否定できない。本書の文では、ある種の分断——頭のいいやつ、優等生とそれ以外——を指摘する。そして、実は分断が先にあって、知性がどうのというのはそれに対する後付の理屈でしかないということを指摘しおおせている。これはある意味で、内田樹のまえがきで述べられた枠組みを否定するものだ。本書の中ではましなほうの文章だと思う。

ちなみに、小田嶋の文は、「ヤンキー」をふりまわす議論についても論難している。つまりは、白井の文章に対する批判にもなっている。

名越x内田「身体を通じた直観知」

本当に無内容でひどい対談。昔はよかった、みんな節目があった、知性が身体化されてた、最近の連中はダメだ、というだけ。

想田「体験的反知性主義論」

人はいろいろな社会経済的しがらみにとらわれて、反知性的な行動に出るのだ、そしてそれは他の人だけがやることではなく、ぼくたちみんなやってることだ、という文。これ自体はおっしゃる通り。この文で挙げられる「反知性」は、原発推進だけれど、量的にはあまり多くない。そして、我が身をふり返れという主張はまとも。本書の中でいちばんまともなものの一つ。

仲野「科学の進歩に伴う「反知性主義」」

科学が細分化して業績重視になってくるので、研究者もいろいろ端折って反知性っぽいことをするようになります、とのことだが、その論旨はあまり明解ではない。科学が発達しても知性が伴わないという議論は、そこでの「知性」というのが不明確なのであまり意味を持たない文となっている。

鷲田「『摩擦』の意味」

反知性主義」ということばを一切使わず、あまり決めつけを急がず摩擦に耐えて他人の言うことにも耳を傾け、謙虚になって寛容の精神を持ちましょう、というたいへん立派な文章で、唯一の疑問は、鷲田はこれをだれに向かって書いているのかということ。日本の政治的な現状に対してはもの申したいらしいが、それを具体的に言うことなく、一番最後にT・S・エリオットの引用でほのめかすだけ。あらかじめ先入観を持った人は、そこに自分の読み取りたいものを勝手に読み取るだろう。

それを明記しない鷲田のこの文を、上品で高尚だと思う人もいるだろう。ぼくはそれを、明言しない責任逃れの知的堕落だと思う。だがその一方で、この最後のエリオットの引用が現代政治状況へのコメントだとしたら、それまでの部分は逆に内田の序文などに見られる決めつけと不寛容に対するたしなめのようにも読める。もしそうなら、なかなかの策士。

まとめ

以上をまとめよう。本書はそもそも、理解力の低さ(ホフスタッターのいう「反知性主義」をまったく理解できない)か、非常な不誠実さ(ホフスタッターの議論を理解したうえでそれを意図的に歪曲)を発端としている。そして、内田と白井の文章は、ホフスタッターについての理解を離れた部分でも、まったく妥当性や論理性を持たない、無内容な代物と成りはてている。その呼びかけに応えて寄稿した論者たちは、いずれもその不誠実さと無内容さを引き受けさせられてしまったという意味で、不当な立場に置かれて利用されてしまった。これは本当にお気の毒でかわいそうだ。

でも、多くの人は編者が期待したとおぼしき、安倍政権バッシングをほとんど行っていない。「反知性主義」なるものについての明解な分析もなく、概念規定もないどころか、むしろ戸惑いを明確に述べている。そしておつきあいで、何やら現在の政治状況が自分のお気に召す方向には動いていないことについて、漠然と触れつつも、反知性主義がそれに関係しているかどうかもあいまいに濁している。たぶん、みんな困って、さりとて無碍に断るのもアレだから、あたりさわりのないことを書いてお茶を濁したんだろう。そしてみんながそれをやったために、本全体としても濁ったきれの悪いものになってしまっている。

もちろん、編者内田と白井の文が見せている混乱ぶりを見れば、それは仕方がないことだったのかもしれない。そしてそれは、そもそも最近の「反知性主義」という議論が、ホフスタッターの主張をふまえているかどうかとは別の意味でも、あまり中身がないものでしかなかった、という事実の反映でもあるのだろう、とぼくは思っている。

そしてその一方で、多くの論者は編者たちの尻馬にのって、うぉー反知性主義けしからんアベ許さないわよ人民の革命を−、といった軽薄なアジを繰り広げることもできたのに、それをしなかった。これはかれらの最低限の知的誠実さのあらわれとして、ぼくとしては評価すべきだと思っている。個々の論者のほとんどは、空気を読みすぎて浮かれるお調子者ではなかったことだけはわかる。えらい。それによって本としての評価が高まるわけではないけれど。

以上、反知性主義のお話はこれでとりあえず一段落。疲れました。本はニューヨークに捨ててきます。