マシューズ『フィデル・カストロ』(1971):提灯持ちと自己宣伝のかたまり。

Executive Summary

 マシューズ『フィデル・カストロ』は、キューバ蜂起の泡沫勢力でしかなかったカストロたちをシエラ・マエストラの山の拠点に訪ねて取材し、カストロこそが反バティスタの旗手という宣伝に加担したニューヨーク・タイムズ記者によるカストロ伝。

 中身は、とにかくカストロ万歳で、カストロは常に正しく、自分の取材は客観中立で他の取材はプロパガンダでしかない、と言いつつ、自分がいちばんプロパガンダの提灯持ちでしかない。自分がシエラ・マエストラでカストロたちにだまされていたことを知っても、いや自分はそれは知っていたが中身を見抜いていた、と断言する厚顔ぶりを示しており、カストロ独裁制も、民主主義がすべてではない、と言いつのって正当化。

 革命とかにだまされやすい西側知識人ジャーナリストの妄言という歴史的な意味しかない本だが、それ以外には現代的な意味はない。


 原著1969年の本で、いまや歴史的な意味しかない本だし、それすらあるかどうか。

 著者は『ニューヨーク・タイムズ』記者で、シエラ・マエストラの山にこもっていたカストロを訪ねて取材し、カストロの名前を世界中に広めて彼こそキューバ革命の指導者と対外的にアピールするのに貢献した人物。エドガー・スノー毛沢東に利用されたのと同じで、カストロプロパガンダにあっさり利用された、ありがちな西側のサヨク文化人ですな。

 基本的に彼が本書で主張しているのは次のような点。

 いやあんた、カストロだの、その女衒とまで言われるセリア・サンチェスだのから聞いた話こそが甲級プロパガンダだとは思いませんの? 思わないんだよねー。

 これが最もしつこく出ているのは、フィデル・カストロ共産主義者ではない、という話。いや、チェ・ゲバラ共産主義者ではないんだって。なぜかというと、共産党に所属したこともないし、「オレはちがう」と彼らが言っているから。ソ連と仲良くなったのは、もちろんアメリカが意地悪してるから仕方ないんだよねー。

 でもさあ、弟さんはしっかり共産主義で、ずっとフィデルの運動に深入りしてたよね? だからあなたの活動って共産主義的な影響はがっちりありましたよね? そう思うのは人情だ。あと、お仲間のチェ・ゲバラさんは共産主義の権化でしたよねえ。

 チッチッチ、そう思うのが素人の浅はかさ、なんだそうな。

 確かにラウル・カストロはずっと共産主義者でそのシンパで、1953年にウィーンの共産主義青年会議に出席して東欧諸国を漫遊している。それでも、彼は共産主義者ではないそうな。「一つの冒険旅行として、鉄のカーテンの向こう側を訪問する招きに応じた」(p. 165) だけなんだって。

 このあたり、彼は共産主義、というのを共産党員だった、というのと微妙にすりかえて (英語ではどっちもコミュニスト、ですから)、共産党には所属してない、よって共産主義じゃない、という弁明をしつこく繰り返しているんだけれど、そんなインチキは原著刊行当時でもすぐに見破られたと思うなあ。

 で、その次の段落では、フィデルがあるインタビューで弟が共産党に所属していたことをはっきり認めているのを引用する。「ラウルはそうでした」。えー、やばくね? マシューズさん、あんた直前に、ラウルは共産党じゃなかったと断言してるじゃん!

 でも大丈夫。それに続いてフィデルはこう言ってるから。「しかしモンカダ襲撃に加わった時には、本当の意味では完全に党の規律に従ったやり方をしていたとはいえなかった」(p. 165)

 「本当の意味では」「完全には」「とは言えなかった」。フィデル・カストロですら、ここまで迂遠なごまかしをしなければならなかった、というのは、よほど否定しがたかったんだねえ。ところがマシューズは「これでラウル・カストロの『共産主義』の問題はきっぱりと片が付くと思う」と得意げにいうんだけど (片が付く、というのは否定される、という趣旨ね)、いやあ、逆だと思うなあ。

 万事がこの調子です。彼はカストロが独裁的でかつての発言や公約をすぐに反古にし、裁判を無視して勝手なことをやったり、というのは認めるんだが、どれも「革命実現のためには仕方ない」ですませる。え、それでいいんですか?

 言論弾圧も「革命のためには仕方ない」でおしまい。いや、だからそれでいいんですか? 「でもビートルズも聴けるから自由なんだ」って、あんた何言ってるの?

 歴史的な事件についても、ろくな記述がない。バティスタ政権は、準クーデターで政権を奪取したんだが、そのあたりもほとんどなし。モンカダ監獄襲撃事件は、背景説明もなにもなく、仲間を募って襲いましたでおしまい。グランマ号でのキューバ帰還から革命実現までは、長ったらしいけれど (そして自分がシエラ・マエストラの山にカストロを訪ねた話は得意げに書くけれど) 何のプロセスもなく、だんだん迫って首都を押さえた、でおしまい。でも、その際には、本家共産党を含む他の反バティスタ運動は「むしろ邪魔だった」「共産党カストロをむしろ妨害した」と書いて、とにかくキューバ革命カストロだけの手柄だったように印象づけるよう腐心している。

 その後も、キューバミサイル危機は、うっかりソ連の口車に乗せられただけで、痛恨の失敗だ、と述べておしまい。カストロのサトウキビ増産計画/大躍進とその失敗については「失敗したけど学んだ」でおしまい。

 これまでの伝記で採りあげた、カミロ・シエンフエゴスの謎の死についても、シエンフエゴスが革命の勝利に浮かれてブルジョワ的な堕落に走ったのだ、という他のどの本を見ても書いていないようなことを書く (p.147)。でも、うまい具合にその頃に死んだから革命の英雄になれた、とのこと。まるで死んでよかったかのような書きぶり。さらにその前後で起こった、ウベル・マトスの粛清と見世物裁判は、彼がキューバ革命政権の共産主義化を批判したことから生じたんだけれど、アメリカに懐柔されて反革命に走ったから排除するするのは当然だった、ということでおしまい。「マトスは『偽りの革命家』であった」(p.145)。

 で、あとはもうひたすら、カストロすごい、革命すごい、あっちの演説でこんな立派なこと言った、こっちの論説でこんな立派なこと書いた、そうそう、革命の本質について誰それはこんなことを言っているよ、という引用まみれでページ数をふくらませているので、すごく徒労感は多い。

 また彼は、自分がカストロの走狗でプロパガンダに利用されているのを少し気にしているらしい。シエラ・マエストラで、カストロ勢が実はものすごく少数だというのを彼は知らなかったそうな。またカストロ勢は自分たちが何もしていないのに、忙しく活動しているようなふりをして、マシューズ相手にはったりをかませた、というのを公言している。でもマシューズはそれについて、いやオレはそんなのに影響を受けていない、という (pp.97-102)。「もし知っていたとしても、それによって2月24日に『NYタイムズ』紙上に載った私の記事が別物になっていたかどうかは疑問である」と弁明を書く (p. 97)。それでも提灯持ち報道をしたのは、そうしたお芝居の下にあるカストロ勢の実力を自分がしっかり見抜いていたから、なんだって。ワッハッハ。If you say so, my dear.

 でもって、彼はもう最後には、民主主義とかそういうものなんて、別にどうでもいいんだと言い出す。カストロが人々から受けてる支持こそが民主主義のあらわれだから、なんでもいいんだって。

 フィデルは、アングロサクソン的な意味での自由民主主義の何たるかを理解していない。だがそれは、他のキューバ人、他のラテン・アメリカ人もそうであり、この点では、アジア人とて同様である。

 彼等が理解していなければならないという十分な理由はない。アングロサクソン的な民主主義が、天与の宗教であるとか、絶対的に強制さるべきものなのではない。それは、民主主義の唯一の形態ですらない (p. 349)

 そう書いた直後に、彼ですらこう述べる。

  フィデル・カストロのおかした誤りは、彼が、どんな体制の下にあっても認められるべき基本的な権利を奪っていることである。——チェコルーマニアポーランドユーゴスラビアその他の共産主義諸国家の国民、そしてロシア人ですらこの権利を獲得しようと戦っているのである。(pp. 349-50)

 いやそれがわかってんなら、もうちょっときちんと批判する部分があってもいいんじゃないんですか? でもフィデルは「一般意志」を求めるからよいのだし、キューバアメリカの黒人より自由があるからいいのだし、キューバの革命はフィデルの革命なんだそうな。

 というわけです。古い本だし、内容的にも陳腐だし、特に読むべきところのある本ではありませんが、露骨な太鼓持ちが、自分は太鼓持ちではないと弁解しつつ太鼓を叩く様子は、ちょっと嫌みな意味で楽しい面は、なくもない。