自分の翻訳をめぐるちょっとした愚痴。

翻訳についての人の感想は様々だ。そして翻訳がちょっと面倒なのは、それが訳者だけのオリジナルではないからだ。原文があって、それをもとに翻訳は行われる。ある訳文があって、それがある読者にとっては読みにくいと思えた。それはだれのせいかといえば……訳者のせいかもしれない。でももう一つ、原文のせいかもしれない。

その昔、ウィリアム・バロウズを訳しはじめた頃(というのは前世紀末)、ちょうどネットが出てきた頃で、だれかに「翻訳がひどい、日本語になっていない」という感想を書かれたおぼえがある。いやあ、それはですねえ、もとの文がまともな英語じゃないんですよ。カットアップですから。だからその翻訳が日本語になってないのは、むしろ忠実な訳ということなんですよ、と思ったっけ。ぼくはかなり原文に忠実な翻訳者なのだ。だから翻訳文が読みにくいとしても、それは往々にして原文の反映だったりする。

そういうと、意外に思う人もいるだろう。特に『クルーグマン教授の経済入門』の翻訳があったせいで、山形はなんだかものすごく原文を歪めてすべて山形調にしてしまう訳者、という印象も一部ではあるのは知っている。ぼくはこれまた不当だと思っている。ぼくは、あの本の訳文は比較的原文のくだけた調子に近いと思っている。人々が、それをチャラいとか砕けすぎとか思うのは、そうした人々がそれまでの、固くてわかりにくい日本の伝統的な翻訳になれすぎているせいだと思う。

クルーグマン教授の経済入門 (ちくま学芸文庫)

クルーグマン教授の経済入門 (ちくま学芸文庫)

そもそも、もっと言わせてもらうと、山形の翻訳に対する「なじめない」「違和感」「わかりにくい」というのは、ぼくは多くの場合に、実は読んで意味が実際にわかってしまうことについての戸惑いだったりするのではと思っている。多くの人は本を読んで、その中身を自分が理解できるということ自体を、なにか否定的なことと思っているきらいすらある。かつてクルーグマンの訳文について「真綿のようにからみついてのどに押し込み、無理矢理理解を押しつける」ので大嫌いだとかいう評価を見たことがある。でも……それっていいことなんじゃないの?理解できたらすばらしいじゃないか。でも、この人は明らかに自分が理解できてしまったことに不満だったわけだ。

そしてそんな人は多い。みんな、マルクスとかフロイトとかの、何を言ってんのかよくわからない文章を見て、それを自分が理解できないことで「うーん深い」とか悦に入っているように思う。そしてそこから、自分が翻訳(翻訳でなくてもいい)を読んで理解できてしまうと、なんかそれは浅はかにちがいない、と思ってしまうようだ。

同じことだけれど、多くの人は翻訳の中身よりは言葉尻にばかり反応する。ぼくは「しかし」というよりは「でも」という表現を多く使う。すると、それが気になって読めないとかいう人がたくさん出てくる。よって訳が悪い、というわけ。その程度のことで読めないというのは、ぼくにはにわかには信じがたいけれど、でも実際にそう主張する人はいるのだ。世間的にも、何か批判を受けたときにたいがいの人は、その批判の中身について反論するより、「口汚い罵倒」とか「品格がない」とかそんなところにしか反応できない。

さらに、わけのわからん翻訳を高尚だと思ってありがたがる人は、それがわからなくても文句を言わない。なまじぼくの翻訳の意味がわかってしまうからこそ、それが変だとかよくないとか感じてしまうような人も多いんじゃないかとは思う。

なぜこんなことを書いているかというと、こないだ出たディック『去年を待ちながら』の翻訳について、アマゾンのレビューで文句を言われているから。

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うーん。前の寺地他訳がそんなに悪くないというのは、ぼくも訳者あとがきで書いた通り。でもぼくのがそんなに悪いかというと、個人的にはちょっと不当だな、と思う。

(新訳) 「ラッキーストライクの箱です。しかも本当の年代物グリーン。1940年頃の、パッケージ変更の第二次大戦前のものです」

(旧訳) 「ラッキーストライクの箱ですよ。先生。正真正銘、時代もののグリーンのやつです。1940年頃の、つまり第二次世界大戦で包装が変わってしまう前のものです。」

さて、まずぼくはこの両者がそんなにあげつらわれるほどちがうとは思わないのだ。確かに旧訳のほうが普通の文章ではある。そして何を言っているのかよくわかる。でも……この部分は本当に冒頭のところで、そもそもいったいなぜラッキーストライクが出てくるのか、何もまだ説明がなくてちんぷんかんぷんなのだ。第二次大戦前のワシントンを再現しようとしてるんだ、なんて話はまったくわからない。そして、このせりふはロボットがしゃべっているんだけれど、全体に陽気すぎたりすべったユーモアを入れたり、必ずしもスムーズな英語ではない部分もある。だから、多少の不自然さはある程度意図的なものでもある。

でもまあ、不自然だと思えば、それは訳が悪い、というのも反応としては仕方ないんだろう。

それと、前にどこかの座談会で大森望も言っていたけれど、昔とはだんだん翻訳のスタイルが全体として変わりつつある。昔はかなり言葉を補った説明的な翻訳が多かったのが、いまはだんだん、説明のない、原文に近い翻訳になりつつある。おかげで、各種の新訳では昔と比べて、訳稿が1割くらい(あるいはもっと短くなる)。この訳文にも、少しそんなのが反映されている。

ちなみにこのレビューの人は、ぼくの『ヴァリス』訳も気に入らなかったそうだ。ただ、あれに関しては、ぼくの訳のほうが誤訳は圧倒的に少ない。文体はひっかかるけれど誤訳がないのと、文体は趣味にあっているけれどまちがいだらけ、というのでは、ぼくは前者のほうが価値が高いとおもうんだけれど、まあ読む人によっては、中身はどうでもよかったりするのかもしれないので、これまた価値観の問題ではある。

ヴァリス〔新訳版〕

ヴァリス〔新訳版〕

と、ちょっと疲れていることもあって愚痴になったけれど、そもそも翻訳の良し悪しが本当にわかる人は翻訳なんか必要としない人ではあるわけで、ときどき翻訳って報われないよなー、と思うこともある今日この頃。