ディレーニ『ダールグレン』:長いだけが取り柄のナルシスティックな本。誰も読まないことで得をしている。

 長ったらしくてみんな読んでないから、問題作とか話題作とか野心的なナントカとか言うだけで逃げるけれど、著者がいろいろ試してみたくて、こっちでは引っ越しリアリズム追求したり、あっちではコミューン生活記録を使い回ししたり、向こうではエロ追求してみたりしてあれこれ詰め込んで収拾がつかなくなった話。出た当初は長いのが売りで、SFスキャナーでは「背表紙に表紙の縮小版が入る!」なんてことが話題になったが、今ではそのくらいでだれも驚かない。


 ディレーニの長編作品の多くは、かなり露骨に自分自身を主人公に据える。だから小説としての技巧や設定、ストーリー展開のおもしろさの一方で、ディレーニが己のナルシズムをどこまで抑えられるかが、小説としての善し悪しを決定づけると思う。エンパイアスターは気軽に書いた分、ナルシズムにあまり浸らずよいでき。「バベル17 (ハヤカワ文庫 SF 248)」は、主人公を女性にしたことであまり自分を投影せずに済んでおり、選んだテーマともあいまって名作になった。

 一方、「[アインシュタイン交点 (ハヤカワ文庫SF)」は、過度のナルシズムを小説としての凝り過ぎが救った例で、「ノヴァ (ハヤカワ文庫SF)」はそれが比較的バランスとれていたけれど、でもそれがある意味でつまらなさの源になっていた(ジュディス・メリルもそんなことを書いていたように記憶している)。(「ベータ2」は論外の駄作)


 でも本書は、ナルシズムがそのまま全開になっていて、そこに当時の実験的な味付けで奇をてらってやろうといういささか安易な狙いが織り交ぜられて、ぼくはあんまりいい作品だとは思っていない。むしろ卑しい作品とすら言えると思う。全体が自分自身の一種のビルドゥングスロマンではあるんだが、でもそれを円環させることで、ディレーニは要するに「ぼくは成長したくありません、ずっと青春していたいです」と言っているに等しい。それが卑しいのだ。そしてそれが、技巧や個別のトピックにもかかわらず、本書が一般性を持つ「文学」になれずに、ジャンル小説にとどまらざるを得ない原因でもある。成長しない小説としては「ブリキの太鼓」がある。でもブリキの太鼓は、主人公が成長しないのは手段だ。本書では、たぶんそれこそが小説を支える中心テーマになってしまっている。


ポストモダンとかメタフィクションとかいう動きのもたらした大きな害の一つは、こういうナルシズムを「自己言及性」というお題目のもとに正当化してしまったことで、ディレーニはそれにどっぷりはまっていた。

それは当時ディレーニがもてはやされる原因の一つでもあり、そしてその後、かれがあまり顧みられなくなった原因の一つでもあるとぼくは思っている。Triton やネヴェリヨンは、手元にあるけれど、ざっとしか読んでいないし(つまらなかったことしか覚えていない)、それ以降ディレーニが何を書いているのか、ぼくはほとんど興味もない(いまググってみたが、おもしろそうなものはない。Triton や「ネヴェリヨン」でフーコーにすりよったのは知っていたが、その後も現代思想のケツなめを続けていたようだね)。

ゲイとか黒人とかいった社会問題と現代思想と実験的な小説表現が幸福な結婚を果たせていた時代に、ディレーニは実にぴったりあてはまって……そこから出てこられなくなってしまい、時代が変わったときにまったく対応できなくなったと思う。そして小説の輝きの喪失を、ますますくだらないお題目とメタフィクション理論によって補おうとし、それでさらに小説としての切れ味を失うという悪循環に陥ったみたい。残念。ディレーニは本当は、もっともっと小説家としての潜在力を持っていたと思うから。

 『ダルグレン』をぱらぱらと読み返しつつ、ぼくはここで実現されたことより、そういった実現されず捨てられた可能性のほうを強く感じるし、それを惜しいと思う気持ちのほうが強い。一応、今度新しめの作品をどれか読んでみようかな。でもまったく期待はしていない。ちなみに近作でそこそこ評価の高い Dark Reflections (2007) も、ゲイの黒人詩人がニューヨークで送る孤独な生涯の話、だって。また自分の話ですか。またジャンル小説ですか。


 で、『ダルグレン』だけど、昔読んだときは「どうだ! 完読したぜ!」というのが自慢だったし、その価値を保つために小説そのものの悪口は言わなかったけれど、今はダルグレンを通読したくらいのことを自慢する気もないので(とはいえ二五年前に通読したことはここで自慢しておくけれど)、小説としてそんなにおすすめできないことは明記しておく。

 むろん、そうした一般性のないナルシズムや、数百ページにわたって引っ越し風景を事細かに書くこと(そしてそれを読むこと)に積極的な意味を見いだす人もいるかもしれないけれど、それはそういう引っ越しフェチな集団がフェティシズムとして追求すればよい話であって、一般性を持つものではないと思う。


 柳下毅一郎ならたぶん、小説なんていうのはまさにそうしたフェティシズムに奉仕するものなんだ、と言うことだろう。そしてむろん、そういう面があることは承知している。群れの99匹のヒツジを救うのが政治や一般社会の役割だが、文学迷子になった残り一匹の羊のためにあるのだ、といった理屈も知っている。でもぼくは小説や文学の役割の一部は、その一匹の理屈を99匹に対して多少なりとも訴えることでもあると思っているし、その訴えの善し悪し――つまりは一般性――でも小説は評価されるべきだと思っているのだ。まして朝日新聞の書評に載せるなら、一部のフェチのためのフェチ小説を安易にすすめて徒労感を抱かせたり、あるいはかつてのぼくのように、読んだという事実の価値を下げないためだけに何かそれに価値があるかのような妄言を紡ぐような試みに手を貸してもいけないと思う。ということで書評対象としては却下。


 蛇足。中で主人公たちが「おれ、自分の精液 (cum) 喰うの好きなんだよね」という会話をするところがあって、昔ちょっとなめてみたんだけど、うーん。それ以来AVで口内発射の場面を見ると、いまだに顔をしかめてしまうよ。

 あと、佐藤良明のヘタレな紹介にはがっかり。業界的な配慮もあるのかもしれないけど。


 さらに蛇足。ディレーニの最近の作品を(昔のよしみで)手に取ろうかと、少しアマゾンを見ていたら、どうやらハーラン・エリスン『少年と犬』みたいなのをやろうとして失敗したとおぼしき Hogg (1995) なるものを見つけたが、ここの作品説明でも、ぼくと同じ感覚を抱いている人が他にもいることを知る。

Hugo-and Nebula Award-winner Delany --whose early books were fascinating but whose recent efforts have grown increasingly obtuse-- has been trying to get this pornographic novel published since 1973.

 ここで鈍重 (obtuse) と表されている Recent efforts というのは、まさにこの『ダルグレン』に始まる長ったらしい各種の作品だ。『ダルグレン』は、まだ別の方向に向かう余地があったと思う。あちこちに、かつての輝きの断片があると思う。その後のディレーニが、それをひたすらつぶす方向に進んでしまったのは、本当にもったいない。 On hindsight, I wish he'd gotten a proper day job before he became a full time writer (like Bester!); then, he might have gotten a life, became a little less self indulgent, and maintained a sense of humor. Now, the only thing that his novels seem to offer are some "references" that uncreative literature critics like to "uncover." But that's the lowest form of reading that there could be. To bad Delany now serves only that sort of crowd these days.*1


2022.05.06付記。以前、ツイッターで書いたことを、ここにも加筆しておこう。その後、『アインシュタイン交点』と『アプターの宝石』を読み返す機会があった。そしてそこで、『アインシュタイン交点』というのが、実はかなりいやな作品だな、と感じた。あの作品は、神話をもとにそれをSF的に翻案する、非常に技巧的な作品だ、というのが一般的な評価だ。でもよく読むと、あれはきわめて不健全な作品だ。何か語りたい物語や内容があり、それを表現するために必然的に高度な技巧が採択された、という本ではない。むしろ、最初に技巧を誇示してやろう、という下心があって、それをもとに後付でお話を作り上げていったという代物だ。


そしてその背後には常に、その格好いい技巧的で高度な作品を書いた自分が透けて見える。それは有名な最終章の「効果的な結末はあいまいでなくてはならない」という一節に顕著だ。必然的に物語が要求する結末を描いたのではない。「効果的」に見せるための結末はどんなものか、というのを考えて、そういうふうに話を作ったわけだ。それ以外も、各章の冒頭にある「自分はいかにいろいろ考えて巧みに小説を描いていったか (ああそうだ、それをギリシャのビーチでやってるんだぜ)」という話。すべてそういう小細工を行った自分を誇らしげに見せびらかして「どう、ぼくって賢いでしょう」と言っているのがあの小説となる。

その意味で、すでに『アインシュタイン交点』の時点から、ディレーニはここで書いたような、悪しきナルシズムに囚われていたわけだ。ただ、若ければそういうナルシズムも微笑ましい。それ自体が妙味を持つ。やがてその技巧の誇示が実際の主題とうまく融合して円熟する……はずが、SFというのは円熟しない、ガキっぽさをいつまでも残す分野、でもあるのだ。それがディレーニにとっては、成長しない、円熟しない口実になってしまい……そして上のダルグレン評価につながる。




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*1:なんだかかつての全盛期のディレーニとその後の凋落を考えているうちに、ずいぶん長くて辛辣な評価になってしまった。でも、ホントにこの通りだと思うのだもの。思えば、伊藤典夫がいつ「アインシュタイン交点」や「ノヴァ」をあげるのか、とワクワクして待っていた頃が、いちばんディレーニの評価が高かった時期かもしれないなあ。