大森『時空間を打破するミハイル・ブルガーコフ論』:論としては「ふーん」だがフロレンスキーの話はおもしろい。

ミハイル・ブルガーコフについての博士論文をベースに本にしたものだそうな。ぼくはブルガーコフが大好きなので、高い本だけれど、お手並み拝見ということで買って読みました。

主張としては、『巨匠とマルガリータ』には時空間の円環構造が見られ、それは他のブルガーコフ作品にも頻出するテーマであること。そして、それに対してその円環を脱した天上の救済というものがあること。こちらもまた他の作品にも見られるということを論じている。

そして『巨匠とマルガリータ』でいい役をもらっている悪魔はなぜ悪魔なのによいことをするのか、という話で、それはブルガーコフが宗教でも政治でも二元論的な決めつけに疑問を抱いていたからだ、と主張。

正直いって、この主張自体はそんなにすごい目からウロコの大発見ではない。前者は、確かにそういう点はないわけじゃないんだけど、その論証がそんなに決定的でもない。円環構造は、物理的な円とか、主人公が元の木阿弥で出発点に戻るとか、同じ時間を繰り返し生きるとかいうものだという。まあ確かにあるんだけど、たとえばその物理的な円という話だと、別の作品で首をちょん切られたニワトリが輪を描いて歩いてから倒れた、みたいな描写があると「ほら! 円環が出てきた! 言った通りでしょ!」となる。でも、円ならなんでもいいというのはあまりに安易じゃないか。

あるいは『巨匠とマルガリータ』のモスクワでの主要舞台は、ある環状線の内側にある、という図を描いてみせて、そこに円のテーマがあると印象づけようとするんだが、図に示された各種の舞台がその環状線の内側でも北西部分に主に固まっていて、本当にその環状線というのが意識されていたのか、非常に怪しい。日本でも、東京を舞台にした小説で「すべて環8(または外郭環状)の内側だ、だから円のテーマが!」といったら変でしょう。

で、時間的な円環構造というと、このブログをずっと読んでいる人なら何度か書いたのでご存じだと思うけれど、文化人類学にかぶれた人たちは、ついそれがよいものであり、冷酷で残酷で非人間的で物質的な直線的進歩史観に対抗する、かつての人情あふれる豊穣な土着的なすばらしい時間概念なのだとかいう妄想にひたっていることが多い。でも、本書での円環的な時間というのは、そういう結構な妄想ではない。むしろつらい嫌な現実にずっと囚われ続ける、ということの表現。『巨匠とマルガリータ』のピラトは、イエスを処刑しなければよかった、という思いにずっと囚われ続けている。処刑しなかった夢を見ては、目覚めて失望する日々を繰り返している。そういう意味での円環。

確かに、そういう繰り返しはある。でも、つらい日常の繰り返しに飽きて天上の救いを夢見る、というのは、ぼくはブルガーコフに限った話ではないんじゃないかと思うのだ。それこそ『一九八四年』でもなんでも、しょっちゅうあるパターンではないかと思う。だから、それをブルガーコフの特長として挙げるのは、あまりピンとこない。こんなちょっとしたミュージックビデオですらそんなテーマは出ている:

そして悪魔の描き方が二元論の否定だという主張は------うーん、そりゃそうでしょうね。それで? 著者はブルガーコフが宗教に接近したり、一九二〇年代後半にメディアにつれない扱いを受けたり等々という経緯をいろいろ示して、それが影響を与えて二元論に疑問を抱くようになったとするんだが、あまり納得いかない。だったら一九二〇年代半ばまでのブルガーコフは、二元論を信じ切って常に何か絶対的な価値観に帰依していただろうか? そんなふうにはとても思えないのだが……

それにSF系で悪魔が実はよい意図を持ち、というのを読み過ぎているせいもあって、二元論否定にそんなに面倒な手続きが必要なのかと思えてしまう。二元論の否定なのは事実なんだけど、ぼくはヴォランドくん自体にそこまでの寓意と背景を読み取るべきかは疑問だと思う。寓話とコミカルな要素を持たせるための、ちょっとした思いつきにすぎない可能性もあるのでは?

ということで、全体としての結論にはそんなに感心しなかった。力作ではある。既存作品を読み込んでいろんなモチーフを見つけてくる精緻な努力は明らかにうかがえる。博士論文なら、そういう地道な調査を積み上げればOKなんだろう。でも、一般向けに本として出すのであれば、ぼくは「いろいろ調べました」以上の仮説なり、読者への投げかけなりがほしいと思う。

ただし、一つおもしろかったのが、ブルガーコフ(そしてザミャーチンも!)が影響を受けていた、フロレンスキーなるえせ数学哲学者の『幾何学における虚数性』なる本のこと。

この本は、ただのトンデモではある。出発点は簡単でスーパーくだらない。ベクトル二つ(たとえば、 {a}{b } ) の外積を取ると、得られたベクトルの長さは {a}{b} による平行四辺形の面積ですわな。で、 {a \times b = - b \times a} となる。

で、フロレンスキーなる人は、これを見て「かける順番を変えても面積は同じになるはずなのに、 片方はマイナスがつく! これはどういうことだ! そうか、つまり実数の空間の裏に、実は虚数の空間があって、ここでそれがあらわれるためにマイナスの面積が生じているのだ」と思ったのね。だから、ぼくたちの生きる世界の裏にも実は虚数空間があって、でもそれは特殊な能力を持つ人でないとかんじられないんだ、と主張。そしてダンテとかの描いた世界がそれにちがいない! と言い始める。だから、幾何学虚数性がある、という理屈。どっひゃー。

で、当時はもう一つ、相対性理論が登場した頃で、各種トンデモさんの妄想力が猛然とかき立てられていたんだけれど、この人もローレンツ収縮の話で妄想力全開。何かの速度 {v} が光速 {c}に近づけば近づくほど、それは収縮して、同時に時間も遅くなりますわな。するとこの人は「では{v=c} になったらどうなる? そこでは時間は完全に止まってしまい、この世の常識はすべて適用されなくなる! これぞ虚数空間の入り口にちがいない! そして{v>c } になったとき時間も因果律は逆転する!」 と言い出して……

あと、マイケルソン=モーレーの光速度一定の実験は、地球が動いているという前提を置いているけれど、実はその前提がおかしくて、あの実験は地球が静止していることを示しているのだ、天動説の正しさを示しているのだ、とかおっしゃっているそうで、読みながら当方は満面の笑みでございます。

まあとうていまともなものではないんだけれど、フョードロフとかのへんな思想にも連なる部分がある人らしく、また当時のソ連では影響があって、ブルガーコフザミャーチンもえらく真面目に読み込んでいたそうだ。『巨匠とマルガリータ』で、マルガリータが悪魔の誘いを受け入れてからの様子は、まさにこの{v}がだんだん{c}にちかづきそれを超える描写になっている!

おお、これはおもしろい! ここらへんの分析は、本書でもっとも読み手があり楽しいところなので、関心あるかたは一読して損はないと思う。