西部邁『ケインズ』:安易な人物像や哲学談義に流れ、経済学者としての評価から逃げた本

ケインズ

ケインズ

ケインズ (1983年) (20世紀思想家文庫〈7〉)

ケインズ (1983年) (20世紀思想家文庫〈7〉)

 本書は岩波書店版を読んだが、全5章は
1. 個人史 (人物評伝)
2. 価値観 (道徳観)
3. 学問論 (哲学や歴史の話)
4. 政治論
5. 経済学
となっており、ケインズの経済学の話はページ数的にも全体のかろうじて四分の一。あとは書きやすく安易なゴシップに流れており、原著出版の1983年当時ですらほとんど読む意義はなかっただろう。むろん当時はケインズ経済学は死んだと思われていた時期で、経済学的にケインズを評価する必要もないと思ったのかも知れないが。そしてその経済学の部分でも、結局ケインズ理論がどんなものかという説明はまったくない。すでにたくさんあるからいらないと思ったんだって。価値観だの伝記だの哲学だのは、ケインズ経済学との関わりにおいて始めて興味がもたれるもののはず。その説明がないなら、それをケインズの解説書として出すとは、ちょっと不誠実もいいところではないか。

その経済学にしても西部は『一般理論』について「骨子を一言でいえば、経済学のなかに行為論的な要素をもちこんだことだといえよう。ここで行為論というのは、”人間は主観的に構成された意味を担って不確実な未来へ向けて行為するものだ”という点を強調する考え方である」とのこと。さて、この話(といってもずいぶんあいまいで不明確だが)は資本の限界スケジュールにおける期待の役割などの点で、確かにケインズ経済学で重要な役割を果たしている部分はある。でも、それが『一般理論』の「骨子」だとは、ぼく(一応、一般理論を全訳しました)にはとても思えない。そして読んでいると、西部がこんな話を骨子としているのは、単にそれを当時かれが旗を振っていたヴェブレン――ひいては当時西部がぶちあげようとしていたソシオエコノミクスだの経済倫理学だの――を持ち出すための口実なのだ、ということがすぐにわかる。我田引水。

それにしてもこの原著が出た岩波の20世紀思想家文庫というシリーズは、小田実毛沢東といい田中克彦チョムスキーといい本書といい、ないほうがよい有害無益な駄本ばかり。企画自体がおかしかったと思わざるを得ない。そしてそれを2005年の、ケインズが少し復活しつつあった時期に再刊する見識のなさにも驚かざるを得ない。

(付記:この版元って、西部が編集長のなんとかいう雑誌の版元なのね。解説を書いている佐伯もその雑誌の関係者。そういう政治的な事情で再刊されたってことですか。)



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