ハーバート・A・サイモン『人間活動における理性』アンチョコ

はじめに

数日前に、サイモン『人間活動における理性』の海賊訳を公開したら結構みんな喜んでくれて幸甚。

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が、これを実際に読んでくれた人でも、結構苦労しているらしい。

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でてくる用語として、馴染みのないものが結構ある、というのがつまづく原因となっているみたいだ。扱っている範囲が野放図に広くて、経済学の効用理論の話が認知心理学みたいな話に逸れつつ、そこから進化論の話に入って、それが制度論だのメディア論だのに飛び火して、という代物だから仕方ないといえば仕方ない。

が、実際にでている話はそんな面倒なことではない。馴染みのない用語の大半は、無視していいものばかり。ゲーデルとか、アリストテレスとかね。

そういうのはただの、インテリの符牒だから気にしなくていい。「アリストテレス云々」というのは、古来の正統派学問の伝統でずっと、という意味でしかない。これ読んでフンフンうなずいている人で、実際にアリストテレスを読んだ人なんか0.03%もいない。ゲーデルだって、みんな「ああ、合理性は自分の中だけでは完結できないって話ね」(ここで「完結」ってのがどういう意味かはモゴモゴした感じ) 程度の雰囲気だけわかってればいい。あと、「ゲーデルで近代科学は崩壊した、客観性などない、すべては幻想なのだ」とかいうトンデモに走ってないかだけ警戒すればいい。

そういう本質でないところに囚われて、全体が理解できなくなると、とてももったいない。ということで、アンチョコ作りました。これ読むと、たぶん「あたりまえじゃん、くだらねー」と思う人がでてくると思うんだけど、でもそれをきちんとまとめられているのが手柄ではあるのだ。

ハーバート・A・サイモン『人間活動における理性』アンチョコ (pdf, 360kb)

pdfだと「あとで読む」にするだけで読まない人が多いので、以下にはりつけておきます。

ハーバート・A・サイモン『人間活動における理性』アンチョコ

2020/09/28

山形浩生

全体の主張

世界のすべてを律する、最高で最適な、至高の合理性なんてものはあり得ない! 合理性は、限られた範囲で、限られた情報に基づき、なるべくよい選択や意思決定を行うためのツール。でもそれで話が全部すむと思ってはいけないよ。

第1章:合理性のいろいろな見方(すべてが合理的に迫るスーパー合理世界みたいなのはあり得るのか?)

1.1 理性の限界

論理というのは、何か入力があって、それを出力に変換するためのツールだ。でも人が何か行動を決めるには、そこにどうしても何か前提がいる。どうあるべきか、という話がいる。あるいは、論理の支えとなるべき支点と言ってもいい(哲学的な話はこれをむずかしく言ってるだけなので無視してよし)。それなしに、完全無欠な合理的な意思決定の体系みたいなのはあり得ない。

1.2 価値観

いまいった、必要となる前提というものの一つが価値観というヤツだ。ヒトラー『わが闘争』は、別に論理展開がまちがっている=不合理だからダメなのではない。前提となっている価値観や事実認識が、変な結論を引き出している。だから合理的であっても変な結論や意思決定はでてくる。そして価値観も一枚岩の絶対ではない。他の価値観とのかねあいで変わる。

1.3 主観的期待効用 (SEU)

 いろんな価値観を統一的に考えようという学問的枠組みがある。それが主観的期待効用 (SEU)。いろんな将来の可能性に確率分布を割り振って、様々な価値観の間でその人にとっての効用を最大化する決定を選び出す手段。すごい理論体系なんだけれど、すごく非現実的。こんな前提が必要になる。

「意志決定者が一回包括的に見るだけで、自分の眼前にあるすべてを考慮するものと想定します。自分に対して開かれている、各種の選択肢の総体を理解しています。しかもいまその時点で存在する選択肢だけでなく、将来のパノラマすべてにわたり登場する選択肢も全部理解しているのです。そして考えられる選択戦略それぞれの結果も理解しています。少なくとも世界の将来状態について、共同確率分布を割り当てられるくらいの理解はしています。自分自身の中で対立する部分的な価値観ですべて折り合いをつけるかバランスを取らせて、それを単一の効用関数へと総合し、その関数が将来のそうしたあらゆる世界状態をすべて、その人の選好にしたがって並べてくれることになります。」

 現実にはこんなの、絶対にあり得ない。自分も工場での意思決定にこのSEU理論を応用したりしているけれど、きわめて限られた状況でのきわめて限られた意思決定の話。実際の工場に当てはめられるものじゃない。

1.4 行動主義的な代替案

 では、そういう限られた範囲の限られた合理性は? つまり、たいがいの意思決定のときには、なんか大ざっぱな相場観みたいなものがあって、将来についても細かいことはわからないけど、根拠の有無にかかわらずだいたいの「こんなもんかなー」みたいな目安があって、それを前提になるべく合理的な決めごとをする、というのは、だいたい実情に合ってるだろうか?

 これはだいたい合っている模様。これが可能なのは、いろんな決定事項はかなり独立しているから。こっちの意思決定であっちが影響を受けて変わってしまい、みたいな話はあまりない。個別の部分で限られた合理性を通せばまあよい結果になる。

 一方、そういう理詰めで考えて意思決定をするようなやり方以外に、天才が直感でズバッと決めるような意思決定がある。脳の左右半球のちがいをこういう話と結びつける軽薄な議論も多い。でもそういう直感は、1万時間くらい経験を積むことで、すばやいパターン認識ができるようになった結果らしいよ。

 ちなみに、この限定合理性のためには、その限定された部分に意識を集中させることが必要。感情というのはこのために仕組みらしいね。でも、感情はまちがった方向にも発揮できてしまうので、あんまり感情的な判断を重視するのは考え物だ。

第2章 合理性と目的論 (進化で合理性は実現できるか)

2.1 合理的適応としての進化

 合理性の一つのあらわれは、進化。進化では、不合理だと生き残れない。ただ一方で、進化に任せれば自然に合理性が勝つよ、というものでもない。そもそも、人間の文明は若すぎて、進化が遺伝的に作用するほどの世代はたっていない。だからあまり安易に進化を持ち出すのは慎重になったほうがいい。

2.2 ダーウィンモデル

 ダーウィン進化論的な合理性の発達は、環境は固定されてそこにどう適応するか=子孫を残しやすいか、という話になる。でも実際には、動物は自分たちが広まるにつれて環境を変えてしまい、暮らしていたニッチをどんどん深める。たとえば、植物が出てきて環境変えたから、酸素を呼吸する動物の活躍する余地ができた。これは、安易な「適者生存、弱者死ね」みたいな通俗的な進化論とはかなりちがう。

2.3 社会と文化の進化

 人間社会の場合、進化も遺伝的に作用しなくても、文化の伝搬で作用する可能性はある(ミーム論ですな)。でも、文化伝搬は何を最大化するのか、わかりにくい部分がある。遺伝的進化論との相互作用なんてのもあるだろう。

2.4 進化過程における利他主義

 利他性は、社会の進化において重要だけれど、これは開明的な利己主義として考えれば結構うまく説明できる。仕組みとしては血縁淘汰や構造化デームなんてのがあるけれど、社会全体としての最適化を進める仕組みだ。

2.5 進化の近視眼性

 ただし進化は徐々にしか動かないから、ローカルなピークには登れても、大域的なピークに登れる保証はない。だから安定した生態系が外来種に蹂躙されたりする。そして、進化そのものが環境も変えてしまうと、大域的なピークも変化する。植物が発達すれば、酸素を使い植物を食べる動物の適応度はあがり、ピークは変化する。だから、何かきまった最高の合理性を向けて進化が競争する、というようなイメージはあまりに単純すぎる。

進化のローカルピークとグローバルピーク
進化のローカルピークとグローバルピーク

2.6まとめ

 こうした進化論の働きを見ても、局所的で、決して万能ではないというあたりを見ると、前章の最後で見た限定合理性のモデルと同じだ。  

第3章 社会活動における合理的プロセス (社会制度も人間の制約をひきずる)

 人は社会の中で、完全に独立したビリヤードの球みたいに存在しているわけではない。また、自分の行為のすべてについて完全に罰を食らったりごほうびを受けとったりするわけでもない。外部性というのがあるからね。だから、そもそも完全に合理的に行動はできない。各種の社会制度は、そういった中で人々の受けとる情報をなるべく減らして、合理的な選択ができるようにしてくれるもの。

3.1 制度的合理性の限界

 その制度も、人間のやることだから人間の限界をひきずっている。みんな、そんなにあれこれ同時にはできないので、その時に流行っているテーマにばかり集中する(インフレとか)。でも他の問題との関係は十分に考えられない。一方、一つの問題だけにこだわるNGOみたいな連中がすぐに議論を乗っ取ってしまう。価値観の相違へのまともな対応方法はないし、不確実性も社会の判断をむずかしくする。これはゲーム理論囚人のジレンマからもわかるし、アローの社会厚生定理でも示されていること。 ただし救いはある。「最適」とか「最高」とか目指すから議論が膠着する。「そこそこいい」「まあ我慢できる」といった水準を目指すなら、合理性を持って問題を解決できる余地はずっと広くなる。

3.2 制度的合理性を強化する

 ではそれをどう強化すべきなのか? 制度の一つの役割は、処理能力の限られている人間のために、限られた情報で判断できるようにしてくれること。いろんな問題毎に独立の組織を作って個別に対応させるのは、限られた判断力を無駄遣いしない昔からの知恵。市場という制度は、価格にものすごく大量の情報を集約してくれるので、強力な情報処理手段。社会の中で、ある問題についていろいろな意見を募って判断するのも制度強化の知恵。最近では、コンピュータや人工知能が意思決定を大いに支援してくれている。

3.3 公的情報のバイアス

  でもそうしたプロセスに入れるべき情報の問題がある。マスコミは基本、センセーショナリズムのバカだ。きちんと本を読め。また専門家は有益ながら、どの専門家を選ぶべきかという点で同じ問題に陥る。そして専門家はみんな自分の専門がえらいと思ってしまうため、かえって各種情報にバイアスをかけるし、いろんな専門家がいるので結局素人がいろいろ判断するしかない。

 そして各種機関は、その設計のよしあしで効力がまったくちがってくる。その調整プロセスが「政治」なのに、最近はみんな政治を何やら悪いものだと思っているので手に負えない。その結果、みんな各種問題について個別に場当たり的に対応するので、政策をパッケージ化するはずの政党などが力を失っており、政治が機能不全に陥っている。

 また、みんなが知識をもっと得ればいいかというと、もちろん知識があるに越したことはないんだけれど、多くの問題についてはそもそも都合のいいデータはないので、知識バンザイというだけでは何も進まない。

3.4 まとめ

 そんなこんなで、スーパー合理的な世界とか完璧な制度とかは考えるだけ無駄。人間の能力には限界があるし、また人間活動で環境が変わってしまい、何をもって最適とするのか、という尺度も変わる。進化も時間がかかるし、せいぜいがローカルピークを目指すしか不可能。そして人間の制度は、人間の限界をひきずっている。 でも、そんな完成された世界なんかできちゃったらつまらない。最高だの最適だのを目指さず、そこそこの水準で目先の解決策を考えればいい。狭い範囲での限られた合理性を目指しつつ、その「狭い範囲」をなるべく広げることでだんだん合理性を高められるといいね!

おしまい。