久しぶりにレッシグの翻訳をしているんだけれど、なかなかおもしろい(部分もある)。
かつてのインターネット法や著作権法からレッシグの関心は大きく逸れて、ここしばらくのレッシグの本は、アメリカの選挙献金制度の改革がテーマになっていた。何度か、翻訳の打診もきたし相談も受けたんだけれど、話があまりにアメリカの選挙制度に偏りすぎで、翻訳しても日本人が関心持ちようがないと判断したので、申し訳ないんだがずっと見送りを奨めていた。
さらにその後、レッシグ自身が大統領選に出馬とかして、本人的には真面目なんだろうけれど、端から見るとスタンドプレーにしか思えないことをやったりしたため、言っては悪いんだが、キワモノ的な雰囲気が高まっていたこともあって、もう最近のやつは読んでもいなかった。
それが、まあいろいろあって最新作を訳すことになって手をつけ始めている。おおむね関心は変わっておらず、アメリカ政治の根本的な改革なんだけれど、献金制度だけの話からかなり間口を広げていて、相変わらずアメリカ固有の事情が中心ではあるんだけれど、日本的な文脈にもあてはまる議論も結構あるので、恐れていたよりかなり面白い。
その中で一つおもしろいのが、最近のアメリカ政治の両極化と、それに伴う政治の機能不全と呼ばれるもの。アメリカ議会で、民主党と共和党の立場がますます乖離し、昔は様々な問題について両者が歩み寄って妥協点を見つけ、政治をまわそうとしてきた。それがいまや機能していない。両者はひたすら対立するばかりで、ろくに話もできず、数のゴリ押しでしか決めごとが進まない。
この状況自体は、みんながそれなりに指摘していることだ。そして、その原因はというと、クルーグマンの拙訳最新作だと、すべては共和党が悪い、ということになる。
- 作者:ポール クルーグマン
- 発売日: 2020/07/16
- メディア: Kindle版
民主党は常に正しく、民主主義と自由と正義のために活動していて、共和等は常に人種差別と大企業や金持ち優遇のためだけに動き、汚い手を平気で使い、詐術、ごまかしもアレで、最近になってそれがどんどん傍若無人で正義のポーズすらなくなり、しゃにむに自分のアジェンダを追求するようになってきて、民主党のやろうとすることはすべて邪魔して、理性的な話し合いにすら応じようとせず、それがこの両党の乖離と政治の極端化の原因なんだ、というのがクルーグマンの主張だ。
でもレッシグの今回の本は、これについてキチンとした背景説明や分析を提示してくれているのだ。
まずそうした二極化の一つの理由は、民主党と共和党の性格そのものが変わってしまったこと。もともとこの両党は、いまほどイデオロギーに基づく政治集団ではなかった。昔はどっちも、ずっとごちゃごちゃした寄せ集めだった。人種問題についても、南部の民主党はかなり人種差別的な立場を採っていて、むしろ共和党のほうがリベラルに近い立場を採ることもあった。かつては、基本的にアメリカはどうあるべきかという考え方は国民的にも共有されていて、政党はそれを実務的にどう実現するか、追加的な改善をどう実施するのか、というところでしか争わなかった。だからこそ、妥協も歩み寄りの余地もあったわけだ。
それが変わっていったのは、共和党よりは民主党のせいなんだって。それは決して悪い意味ではない。公民権法や投票権法を1960年代半ばに可決させたことで、民主党は明確にイデオロギー重視の立場を採ることになり、党内の南部民主党を明確に切り捨てる動きにでた。そしてこちらがイデオロギー化すれば、共和党もだんだんイデオロギー重視になるのは必然だった。そして……イデオロギー中心になれば、歩み寄りの余地は当然減るわな。ノンポリの実務なら妥協も握手も合従連衡もあるけれど、イデオロギーはそうはいかないもの。もちろん、公民権法や投票権法はとても重要だ。それを実現するためであれば、イデオロギー上等、ということは言える。でも、それには副作用もあって、それが最近になってジワジワ効いてきていることは認識する必要もある。
そしてそれに、アメリカの変な選挙制が拍車をかけた。アメリカの選挙は、予備選があって本選があるんだけれど、その予備選は投票率が低い。そこにわざわざ足を運ぶのは、どちらの党内でも本当に政治マニアか極端な特定イデオロギーキチガイばかりとなる。そこで勝とうとすれば、議員としても主張を極端にする必要が出てきてしまう。これはインターネット献金の比率が増えてきた最近はなおさらだ。
そして、どちらの党もお互いの手口を学んでいる。ティーパーティー運動とか、共和党極右勢力が意外な人気をはくした結果だけれど、民主党のリベラル派はその手口をしっかり学び、グリーンニューディールとかはまさにティーパーティー運動の手法を学んで、極端な主張で耳目を集めて支持を固める手法になっている。アレクサンドリア・オカシオ・コルテズに萌えている人々は、彼女が民主党版のサラ・ペイリンなんだと言われると、カッとなるだろう。(あと、彼女がそれを自覚的にやっているのか、というのはまた全然別の話だ)。でも政治的なやり方から言えば、まさにそういうものなのだ。
意識の高いリベラル政策の支持者たち的には、そういう極左的な一派こそ進歩的で信念を貫く正義の味方で、それを支持しない民主党中道の連中は、既得権益に流されている堕落した連中だ、と思ってしまいがちだ。クルーグマンの主張はまさにそういうものだ。でも、そういう立場を強力に打ち出すこと自体が、共和党との妥協や歩み寄りを困難にして、政治の二極化に貢献してしまうのはまちがいない。こういうのを支持しつつ、政治の二極化を嘆くということ自体がそもそも変だ。進歩的なアジェンダをドーンと打ち出せば国民は支持するはずだ、というのは希望的観測でしかない。アメリカの相当部分の人は、そういうのになびかない。レッシグもこれには軽くしか触れていないけど、それはトランプ当選のときに、本当は民主党シンパも思い知るべきだったことだし、大統領選直後にはかなり真面目に反省の機運もあった。でもトランプのおバカツイートに気を取られて、それを罵倒していい気になっているうちに、いまやそういう反省が消えてしまっているように見える。少なくとも外野の日本からはそんな感じがする。
もちろん、この両者のうち、外部の何か基準に照らして、だれが正しいとかどっちを支持すべきだとか言うことはできる。そして、すべて共和党が悪いとか民主党が悪いとかは言える。が、実際には少なくとも行動パターンとしてはどっちもどっちで、しかもそれはアメリカ(だけではない)の政治制度がつくり出す、極端な連中ばかり真面目に投票するから極端な主張と行動をしたほうが当選しやすいという力学が大きな影響を与えているんだ、と。
もちろんレッシグはそのうえで、民主主義の本質に照らせば、共和党がしばしばやらかすことのほうがおかしいよね、という話をする。だから、インチキな「どっちもどっち、ケンカ両成敗」みたいな話ではまったくない。でも、クルーグマンのように、共和党だけがすべて悪い、という非常に単純な見方では足りないことは十分教えてくれる。クルーグマンの話からすると、とにかく共和党をぶっつぶせ、という解決策しかなさそうに思えるけれど、両党の乖離を引き起こしている、予備選の仕組みとかいった制度的な面でも完全も結構効きそうだし、いろいろ対応もありそうだ——実現性はともかく原理的にはね。まあまだ本の前半なので、今後どんな感じになるかはお楽しみ。でも、アメリカ人にしか意味のない本ではなさそうで、ホッと安心しているところ。